仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ひとり人形芝居,新しい出し物

2013年08月31日 | 日記
いよいよ仲間の安藤圣一さん(ひとり人形芝居師)の、新しい出し物がスタートです。

「人形説き 野州(やしゅう)花見ヶ丘(はなみがおか) 大蛇(だいじゃの)経(きょう)鱗(うろこ)」

監修、釈徹宗先生で、先日、相愛大学でゲネプロを終えたとのことです。

初演の日程等は下記の通りです。

平成25年9月8日(日)
午後13:30~お勤め終了後開演(14時を目安)
公演時間:約一時間
会所:蓮華寺 浄土真宗本願寺派
    栃木県下野市国分寺1301

全国どこでも行きますので、招いてください。
安藤連絡先 080-5535-1547


プロフィール(芸暦)です。

芸名:安藤 圣一(けいいち)東京在住です。

人形劇団ポポロ・人形劇団ひとみ座を経て、1997年よりフリーの人形遣いとして活躍されておられます。
現在、映像での仕事を主にしている。
人形遣い芸暦26年(2012現在)

蓮如上人500回御遠忌の折、人形劇「嫁脅しの鬼面」(現代人形劇センター制作)に参加し、全国を巡演され、その「嫁脅しの鬼面」を与板別院(現・新潟別院)で上演した際の担当でありました、新潟三条組・福勝寺黒田住職とのご縁を頂き、その後、中央仏教学院通信教育専修課程卒業したおり、その福勝寺の衆徒として得度されておられます。


主なテレビ出演作は、NHK「ひょっこり ひょうたん島」「英語であそぼ(役名:イグイグ)」「おかあさんといっしょ」「こども人形劇」「冒険メカラッパ号」「あつまれワンーパーク」その他多数のよび、昨年まで放送されていた三谷幸喜脚色「新☆三銃士」主役:ダルタニアン操演されておられました。

、他にTBS「動物奇想天外」約5年間・「みのもんたの朝ズバッ!(みのもんたさん、代役人形)」他、CX(フジTV)「ミラクルタイプ(ミラクルさん)」「あつまれポンキッキ」他
      その他、TV神奈川・TV朝日など

VTR・CM等・・・「進研ゼミ」等学習用ビデオ多数、CM・プロモーションVTRなど多数

舞台・・・人形劇団ひとみ座、人形劇団ポポロ・劇団貝の火、他・・・沖縄を除く、ほぼ全国を巡回


昨年は千葉組常例線の数ヶ寺において、また千葉組総代研修会で、前作、「弁円の涙」を上演。この「弁円の涙」は、全国の真宗寺院で昨年、40ヶ寺へ出向されえいるとのことです。
今日の「こぶしの里の恵信尼さま」は、本願寺750回大遠忌ご正当法要1月14日に、本願寺で上演しています。各ご寺院の法話会へも出向可能です。
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「便利で快適」の副作用

2013年08月30日 | 現代の病理
26日(25.8月)の毎日新聞・余禄に「マシュマロ理論」が紹介されていました。

「マシュマロ理論」とは、紙面に次のようにありました。

“米スタンフォード大学が1960年代に4歳の子どもたちにマシュマロをI個ずつ与える実験をした。一定の時間食べずに我慢できたらもうI個あげると約束する。我慢した子としなかった子の学力を15年後に比べたところ、我慢した方の得点が平均2割近く高かった”


日本人の人間性が、勤勉さをあげるとしたら、それは春夏秋冬の自然のサイクルや、「便利で快適」でない生活様式の中で培われたものなのでしょう。「便利で快適」を否定するものではありませんが、相対化することが重要だと思っています。相対化する営みが、「便利で快適」の副作用をあげつらうことです。
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「みんなちがって、みんないい」?

2013年08月28日 | 浄土真宗とは?
26日(25.8月)北九州門司区にある鎮西別院での研修会出向でした。教区仏教婦人会長のYさんが、終わってのごあいさつに来られたとき、良いご質問をいただきました。

知人から金子みすずさんの詩「わたしと小鳥とすずと」

  わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

「この詩は傲慢(?)な詩のように思われると言われましたが…」(意趣)とのことでした。

聴きながらすぐピンときました。確かに「みんなちがって、みんないい」という言葉が、評価分別の域を脱していません。だからその人の状況によっては、「そーっとしておいて」といった反感を持つ場合もあります。たとえば最近、報道されている藤圭子さんの死亡、ご息女の宇多田ヒカルさんのコメントが報道されていますが、悲しみと悔しさ、また母は病気から解放されたという安堵、その言葉にならない状況の中で、この詩を言われたらたまったものではありません。「良し悪しの評価の物差しで自分を見ないで、ほっといてー」というところでしょう。

ひと月前くらいに「ジョニーは戦場へ行った」のことを書きました。戦争で耳も目も鼻も失い、数年後、病室に横たわっている身で、モーリス信号で、看護師と会話をすることを見出した。看護師の「今、一番して欲しいことは?」と問われて発した信号が「殺してくれ」ということでした。そうした状況の中にある人の前で、この詩は語れません。

仏さまであれば、おそらく、その身を肯定する眼差しで、唯々沈黙のしてその身に寄り添うといった態度だと思われます。また阿弥陀さまは「大弘誓を超発して」と大慈悲を発動されました。

おそらくこの詩に傲慢さ感じた方は、悲しみや厳しい状況の中にあって「みんあちがって、みんないい」の言葉から、「評価の眼差しで私を見ないで…」というプレッシャーを感じたに違いありません。

質問されて、上記のことを思い、この詩に接していて、そのことに思いが及ばなかった自分に、すべてに流されて過ごしている自分を思いました。
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拙著への書評③

2013年08月28日 | 日記
辛口書評が好きです。2編目。

三丁目の夕日ヶ丘の古本屋
http://blogs.yahoo.co.jp/d0nchan888/28333877.html

おじさん、嫌いな人種が3つある。

ヤクザ・坊主・自衛隊である。

まあ、おじさん、職業にあまり偏見を持たないようにと常々思っているのだが、とにかく、このジャンルの人々が、好きではない。

どちらかと言うと、関わりも持ちたくない。

理由を強いて挙げれば、おじさんは、どうも、こうした人達に対して、思い込みが強く、謙虚さが欠けている人達の集まりだなと思ってしまうのだ。

自分の論理を一方的に押し付け、他人に有無を言わせないようなところがある。

まあ、ヤアさんは別だが、一見、普段は優しく、謙虚そうに振舞うが、それは牙をむいた狼が猫なで声を出しているに等しい。

優しそうな声で、威嚇しているような所がある。

実は、いつも牙を剥いているのだ。

結局、自らの考え方に従わなければ、したたかに反撃してくる、そんな人達のような気がしてならないのだ。

結構、狡猾で、身勝手な人達、頑固で、人に耳を貸さない人達というイメージをもってしまう。

勿論、一杯、良い人もいるのだろうが、おじさん、残念ながら、総体として、こんなイメージに捉われてしまっている。

思い込みが過ぎるような気もするが、とにかく、おじさんは、こうしたジャンルの人達が苦手なのだ。

ところが、案外、怖いもの見たさなのかな、矛盾しているが、偉い坊さんの物語が、古今東西、新旧に関わらず、どんなものでも、思わず手にとって、読んでしまうのである。

物語の中での著者のしたり顔が見えてくるようで、それを見たくて仕方がないのかもしれない。

いや、そうした偉人へのお追従をばかにするのではなく、おじさん、そんな、したり顔の世界が嫌なのだが、妙な好奇心と共に、どこか期待もあるのである。

この本『親鸞物語』 著者「西原 祐治」も、そんな気分で手に取った。

やはり、たくさんのしたり顔が見えたような気がした。

これは親鸞自身に対して見るしたり顔ではなく、この著者の法話か、小説か判然としない書き方の中で、かいま、見えてくる著者のしたり顔である。

断っておくが、この本の諸処には、おじさんが人生を生きていくに当たり、糧としたいような教えや教訓が、ものすごく満ち満ちている。

おじさんも、卒直にありがたい人生訓として押しいただきたい教えも数多ある。

しかし、おじさん、人間ができていないせいか、この本を読んでいると、どうも心の中で、こっそり舌を出してしまうところがある。

バチあたりめ!

とにかく、思ってしまうのだ。

この本は、一体何のために、誰に読ませるために書かれたのだろうかと、思うのである。

どうも、おじさんには、申し訳ないが、その大部分、自己満足に感じられてしまうのである。

あまのじゃく、素直じゃないのだな。

しかし、こうした伝記と言うものは、ウソとねつ造、曲解が多く含まれているような気がする。

特に、宗教関連の偉い坊さんの伝記には、恐れ多くも何故か胡散臭いものが多いようである。

偉人の伝記を読んでいると、見てきたようなウソをつくという言葉さながらに、まるで伝記作家が、あたかも自分が当人であるように好き勝手に、物語が構成されていく。

まあ、小説な、らそれで許されるのだが、どうも実像と虚像が曖昧になるようである。

著者の思いだけが、表に出てくる。

そこで、事実を曖昧にしてしまう。

著者が想像した架空の人物なら良いが、そこに実大の人物が登場すると、特に宗教物語については、何らかの恣意的なものを感じざるえなくなる。

いやはや、そうしたことに捉われず、心を虚しくして読めばいいのだが、おじさんには、それができない。

だから物語を、臭く読んでしまう。

そして、怖いもの見たさの読書が続くのである。

この本は、そんなおじさんの気分をもっともシンボライズしてくれる本であった。

おじさん、本当は、純粋に、宗教家のその人となりを伝えてくれる本を期待しているのだが…

残念ながら、なかなか出あえないのは、どうしてだろう。
この本も、どこか宗門の啓もう書のような嫌いがあり、少し期待外れの感があった。

確か、五木寛之も親鸞を小説化しているはず。

いつか機会を見つけて読んでみたい。

五木寛之は親鸞の物語を宗門啓もう書としてではなく、自らを語る小説として、どう料理しているか楽しみである。

この本は、親鸞を知ると言うより、その教義の入門書として考えた方が良いだろう。

ありがたい教義については、コメントしようがありません。

興味のある方は、自らお読みください。
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拙著への書評②

2013年08月27日 | 日記
辛口の拙著への書評を2編。まずは1編。

「仏教談話ネットワークについて」
2013年3月22日

http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2013/03/post-a792.html

西原祐治『仏さまの三十二相』を読んで

 仏像にはさまざまな特徴が見られる。頭がパンチパーマみたいだったり、額の真ん中にほくろのようなものがあったり、手指の間に水掻きが付いていたり、足の裏に車輪の模様が描かれていたり、現在ではほとんど痕跡しか見られないが身体が黄金色に輝いていたり……。これらは仏だけがもつ特殊な三十二の相を表現したものである。

初心者~中級者向き。★★★★☆

 今回ご紹介する西原祐治『仏さまの三十二相―仏像のかたちにひそむメッセージ 』は、それらの一つ一つの意味について紹介・解説した本である。著者が浄土真宗の僧侶だから、この解説では阿弥陀仏の誓願をもとに各相が意味づけられている。いわば、真宗の立場からの“読み”が書かれている本である。だからちょっと我田引水の感じがするし、話がだいぶ逸れていったような解説なのは否めない。しかしながら、三十二相を信仰という側面と結びつけている点は非常に重要であり、他宗の仏教徒は釈迦仏や薬師仏に関しても同じように信仰的側面から三十二相に思いを巡らせる必要があるだろう。
 かつてパソコン通信の時代に、仏教に関する某掲示板で、「仏教は坐禅を行ずるが本道であって、化け物みたいな仏像や菩薩像を拝むのは迷信だ。」という旨の発言を繰り返していた在家の禅宗信者がいた。観音には手が千本あったり、仏陀の舌は非常に大きくて顔を覆い隠してしまうくらいだからだと言う。まさしく即物的にしか考えられない人であった。(ま、方便としてのレトリックだったのかもしれないが。)
 千手観音に手が千本あるのは、もちろん多くの人々を救う働きを象徴的に示したものである。また、舌が広大なのは、この本によると「人々の生死の罪を除き、多くの仏に遇い、よい果を得るという特性」を意味しているそうだ。だが私としては、広範囲の人々(地獄から天界まで)に向けて舌を使う(=説法をする)、という意味の象徴的表現なのではないかと思う。このように象徴的なレベルで解釈していかないと、仏教の非常に大切な部分を取り逃がしてしまうだろう。
 ちなみに、手指に水掻きがあるのは、衆生が救いの手から漏れてしまわないためである。それを「如来は両生類か(蛙の一種か)!」と騒ぎ立てるのはじつに馬鹿げているし、あらゆる具体相を象徴的次元に置き換えて考える必要があろう。
 また、仏の身体が黄金色に輝いているというのは、仏が実際に物理的な光を放っているとはかぎらない。スポーツ選手であれアイドルであれ、時の人は“輝いて”見えるが物理的に光を放っているわけではない。このように、仏も“そのように感じられる”という文脈で捉えるのが正しいだろう。(霊的な光が見えると主張する人もいるだろうが、それを物理的に測定することはできないだろう。) 重要なのは、黄金色の光を荘重な威厳ある雰囲気として感じ取れるかどうかである。真宗の仏壇は金ピカでじつにケバケバしくて成り金趣味だと思うか、暗い心に希望の光を投げかけてくれていると思うかは、見る人次第である。人間離れした仏の姿に何を見いだすかは、ひとえにその人の感性にかかっている。
 この本によると、たとえば「この長い指(長指相)は、尊いものを敬い合掌して礼拝する心によって得られた」という。また、「跟が整っていること(足跟広平相)は、未来が磐石であること」を意味するという。私のようにいくら象徴的解釈を試みてみたところで、そんなことまでは仏典を繙かなければわからないだろう。その点ではちょっと役立つ本かなと思った。
 この本には、各相の特徴描写については出典が提示されているが、それぞれの意味については出典が記されていないのがちょっと残念である。私としては意味のほうを詳しく知りたいのだが、まあ啓蒙書としてはこのレベルまでなのだろう。
 龍樹作とされる『大智度論』(T1509_.25.0141b10以降)には、いろいろなタイプの布施をしたからこれら三十二相を得たいう因縁が書かれている。ということは、三十二相を見たら仏の布施の働き――それは自分にも向かっているはず――に思いを巡らせということなのである。



 仏のごとき人間離れした化け物になりたくない人は、くれぐれも布施行は控えてひたすら坐禅に邁進・精進することだ。(笑)
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