仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

念仏の替え歌

2024年05月31日 | 浄土真宗とは?
メモ帳にあったものです

舟木一夫さんの「高校三年生」の替え歌「人生これから」
○ 人生これから

(1) 赤い夕陽が ホームを染めて  笑い絶えない 仲間たち
    ああ こうこう高齢者 我等 道はそれぞれ 違ったが
    こうして 会えて よかったね
(2) 会えば尽きない 思い出ばかり 今日は語ろう 思い切り
    ああ こうこう高齢者 我等 熱き思いが この胸に
    今 よみがえる あの頃が
(3) 何もないけど このことだけが 言っておこう 伝えよう
    ああ こうこう高齢者 我等 未来に生きる 子のため
    バトン渡そう しっかりと
(4) 残り少ない 余生を大事に 生きていこうよ これからは
    ああ こうこう高齢者 我等 今日一日に 感謝して
    明日へつなごう 元気よく


○ 炭坑節の替え歌
  (1)愚痴が出た出た 愚痴が出た (ヨイヨイ) 私の口の上に出た
     あんまり愚痴が 多いので さぞや人様 けむたかろ (サノヨイヨイ)
  (2)あなたが救うと 云うのなら (ヨイヨイ)思い切ります 一信に
     こも身このまま まかせます あみださぁまに まかせます (サノヨイヨイ)



ボケます小唄 (「お座敷小唄」替え歌 1)

1) 何もしないで ボンヤリと
    テレビばかりを 見ていると
   気楽なようえでも 歳をとり
    いつか知らずに ボケますよ

2) 仲間がいないで 一人だけ
    いつもすること ない人は
  夢も希望も 逃げてゆく
    歳もとらずに ボケますよ

3) ボケてもいいよと 阿弥陀さま
    愚者(ぐしゃ)も賢者(けんじゃ)も 差別なく
  念仏称える 人はみな
    必ず浄土へ 摂取(せっしゅ)する


◆ボケない小唄 (「お座敷小唄」替え歌 2)    
1) 風邪をひかずに 転ばずに
    笑い忘れず おしゃべりし
   頭や足・腰 使う人
    元気ある人 ボケません

2) カラオケ・スポーツ 本・カメラ
    趣味のある人 味もある
  異性に関心 持ちながら
    色気ある人 ボケません

3) 私ボケても ボケづとも
愚者で凡夫は かわらない
  凡夫の私が なんまんだ
    ここに大悲の 阿弥陀さま
◆幸せのワルツ (「星影のワルツ」替え歌)

1) 一度限りの 人生だ
   大事にしようよ この命
   みんなで幸せの ワルツを歌おう
    この世に生まれた 幸せを
    この世に生まれた 幸せを
   弥陀にまかせて 生きようよ

2) 悲しいしきは 共に泣き
   嬉しいときは 分け合って
   みんなで幸せの ワルツを歌おう
    仲良くいこうよ 人生は 
    仲良くいこうよ 人生は
   一人ぼっちじゃ 生きられぬ

3) 夜空に星が 降るように
   みんなの口に なんまんだ
   みんなで幸せの ワルツを歌おう
    なんまんだぶの 幸せを
    なんまんだぶの 幸せを
   花咲き匂う 弥陀の国

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手刀を切る

2024年05月30日 | セレモニー
私の雑記帳にあったものです。

手刀を切る―相撲で、勝ち力士が土俵の上で、行司から懸賞金を受け取るときの作法。右手を手刀にして中央・右・左の順に切る。造化(ぞうか)の三神(さんじん)に対する尊敬の念を表すものとされる。

手刀は儀式用の作法で、左、右、中の順序で切ります。
これは、古来の宗教上の儀式で、勝利の三神の感謝するというものです。
真ん中が天御中主神、正面側が高御産巣日神、向こう正面側が神産巣日神という神様に対するものです。
ただ、本来は東方力士と西方力士とで、手刀を切る順序が違うようですが、
今は、殆どの力士が東西に拘わらず、左、右、中の順序で切っているようです。

手刀(しゅとう、てがたな)は、日本の礼儀のひとつである。
最近ではあまり見られなくなりましたが日本字は人前を横切る時、手刀を切るような仕草をします。映画館などで人の前を通るときなどにみられる光景です

。これは日本特有のもので欧米はもちろん中国や韓国にもない習慣です。

これは相手に不快感を与えない為の動作だと言われています。手をかざす意味は手を見せて武器を持っていないことを相手に示すとともに自分の通る道を示すという意味もあります。

また、相手の領域のここまで入らせてもらいますよ、ということを表現しているとも言える。

大体が少し身をかがめて通るのは日本人の謙虚で控えめな性格が現れているのかもしれません。

手刀を切るという事は、「あなたの前には、あなたのテリトリーがある事を知っています」という挨拶です。逆にこれをしなければ、失礼という事になります。
本日の雑学講座は「手刀」
人前を横切るおっさんがやったりするあれです。ニュアンス・・通じるよね?(笑)
これは日本特有の仕草で日本人と割と習慣の似てる中国や韓国にもない仕草なのです。

この動作は相手に不安や緊張を与えないための動作であって手刀を切るって動作は相手に手のひらを見せることによって「自分は武器を持ってません」「あなたに対して敵意はありません」ってな意思表示のための行動なのです。


また手刀を切ることによって自分の通る道を示すって意味もある。それによって自分と相手の領域を明確化させて、相手の領域に踏み込みません ってな意思表示でもあるのです。

手刀を切って横切る時に少し腰をかがめ気味になって通るのも控えめでつつましいのを美徳とする日本人独特の仕草なのです。


大相撲で勝った力士が懸賞を受け取るときに手でおこなう所作もこれに含まれる。
儀礼としての手刀
日本では、人の前を横切る時、または雑踏に分け入っていく際などに、縦にした片手を体からやや離した位置で小さく数回上下させることがある。これが「手刀を切る」と呼ばれる仕草である。これは東アジアでは日本特有のもので、特に人混みへ入っていく場合には、手刀をやりつつやや腰をやや屈め気味にしながら「すみません」「前を通ります」などの言葉を添えて通る場合が多い。
手刀は元々、相手に掌を開いてみせることで、自分が武器を持っていないと表しつつ、自分が通ろうとしている道をも示すと言う意味を持っていたとされる。また、腰を低めにすることや言葉を言い添えるのも、謙虚さの体現と言える。
近年は衰退気味の習慣だが、今も中高年層を中心になされている。
なお、軽い感謝・お願い・謝罪の意思を表す時も片手で手刀状にすることがあるが、これは合掌が簡略化されたものである。

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ただ愁嘆の声を聞く

2024年05月29日 | 浄土真宗とは?
昨日の「白いカーネーション」で思い出した話があります。平成9年頃書いた拙寺寺報原稿です。

釈尊は、私の可能性の開発について教えて下さいました。可能性の開発のテーマは「覚醒」です。お覚りいということです。
 阿弥陀如来は、そうした釈尊の教えが往き渡っているこの世の人の姿をご覧になったとき、大いなる悲しみの心を起こしたといいます。
 善導大師は、「ただ愁嘆の声を聞く」と、その有り様を伝えています。そして、阿弥陀如来は「生平を終わりて後、かの涅槃の城に入らん」と大慈悲心を発動し、無条件の救いという慈しみをご用意して、お念仏となって、私を迎えにきて下さっています。
 阿弥陀如来が聞いた愁嘆の声とはどのような声であったのか。それをある方の逸話の中に想像してみましょう。
 「心にしみいるいい話」という本の中に、高知県の森脇義喜さんが「つづり方」という題でエッセイを寄せています。
 それは昭和十八年、小学校二年の時の思い出だそうです。担任の先生がお産のため、別の新任の先生が教壇に立った。
 その折、先生は児童に「皆さんのお父さん、お母さんについて、どちらでもいいからつづり方を書きなさい」といわれた。
 それを聞いた森脇少年は、雷に打たれたように打ちひしがれたそうです。父は生まれる二ヵ月前に病死、母は七歳の時、四人の子供を残して息を引き取っている。少年の心には、親のいない悲しみよりも、親がいないことを知られるのが恥ずかしくおびえたそうです。書きたくても書けない。鉛筆を握ったまま、心臓は早鐘のように打ち、身体は火の出るような熱さを感じたと言います。
 先生は、顔を真っ赤にして泣き出しそうにしている少年をのぞき込み、「どうしたの、ちっと書いていないね」と言う。少年は、泣いたら皆から笑われる。体をこわばらせ泣くのを堪えていた。「さー、早く書きなさい」と促されるともうたまらず、一生懸命堪えている涙がポトポトと帳面に落ちた。
 「どうしたの」と、いぶかる先生に、他の女の子が、「先生、森脇さんはお父さんもお母さんも死んでおりません」と言った。森脇少年は、その少女の声と共に、わっと泣き伏せた。両親のいない悲しみよりも、親かいない事の恥ずかしさからたまらず泣いたそうです。
 先生もまた、「エエッ」驚いて声をあげ「ごめんね、許して頂戴。先生は知らなかったの。許して……」と、少年を抱き上げ、教室の中を泣きながらぐるぐる回ったそうです。
 先生の涙、悲しみは、少年の存在によって起こったものです。それは同時に自分のうかつさ、いたらなさへの涙でした。
 阿弥陀如来の悲しみも同様でしょう。釈尊は人が仏になる道を示しました。その裏には、仏になる可能性ありという人間理解があります。それは先のエッセイで言えば、「お父さん、お母さんについて書きなさい」と告げた事に似ています。それは先生の子供たちは父母について書けるという見込みの上での教示でした。多くの人は先生の言葉に従い父母について書きました。
 ところがその中に、作文を書くことができずに堪え忍んでいる子供が居たのです。そのことを知った先生の嘆きは、ごめんなさい、許してと自分のいたならさに向けられました。
 阿弥陀如来が煩悩にまみれ、闇に沈んでいる私をご覧になったときの悲しみは、まさにこの如く、ご自身の未熟さへ向けられたに違いありません。だからこの阿弥陀如来は、人間のあるべき理想ではなく、仏の豊かさ、慈しみの深さを問題とされ、無条件に救って行ける仏に成ることを願われたのでしょう。そして自らは「南無阿弥陀仏」の念仏と成って、私の意識の上に、その存在の名乗りをあげて下さったのです。
 「南無阿弥陀仏」は、この私を抱き取ったという阿弥陀如来の存在の証です。
 さあ帰ろう。無量のいのちの故郷は、私をありのままに摂取して下さっています。いま阿弥陀如来の慈しみは念仏となって私に届けられています。(以上)
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白いカーネーション

2024年05月28日 | 現代の病理
昨日(2024.5.27)の『読売新聞』「編集手帳」です。以下転載。

今年、ドラマ「不適切にもほどがある!」が話題となった。現代にタイムスリップした、阿部サダヲさん演じる「昭和のおじさん」が主人公のヒューマンコメディーだ◆ドラマは昭和と令和で変わったこと、変わらないことを描いた。近年、保育園などで5月の「母の日」と6月の「父の日」を分けず、身近な人へ感謝を伝える行事とすることが増えているという。それは、変わったことの一つかもしれない◆子供の頃、「母の日」の行事で亡き母をしのぶとされる白いカーネーションを持たされた友達の複雑な表情を思い出す。行事の趣旨は守りつつ家族の形に配慮するのも時代の流れだろうが、そうした家庭の多くが窮状にあるのは今も変わらない◆親を亡くした子供らを支援する「あしなが育英会」が今月発行した、遺児を育てる母親の文集から詩の一節を引く。どんなに頑張っても父親にはなれないけど/5人の子どもたちにとって最強の母になる それが私の今の目標▽◆遺児の家庭に限らない。つらい経験をしても全力で生きる人たちを、皆で支える社会に変わるといい。昭和のおじさんが驚くほどに。(以上)

「子供の頃、「母の日」の行事で亡き母をしのぶとされる白いカーネーションを持たされた友達の複雑な表情を思い出す。」とある。「よく、むごいことをしていたもだ」と思い、ネットで検索すると、『白いカーネーションは「私の愛情は生きている」、「尊敬」などの意味を持つため、母の日参りの際に供えられるようになりました』とありました。でも「自分には母がない」ことを、友人に知れることは、子どもにとって知られたくないことです。
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結婚の社会学

2024年05月27日 | 現代の病理
『結婚の社会学』(ちくま新書・2024/4/10・阪井裕一郎著)、本の紹介記事です。

・明治前半の離婚率は、いまの倍以上。
・戦時中、国営の結婚相談所が登場。
・神前式が普及したのは、高度成長期。
・日本の婚外子割合は約2%と、極端に低い(EU、OECD平均は40%超)。
・結婚するカップルの4分の1は再婚。

結婚をめぐる常識は、日々変化しています。事実婚、ステップファミリー、同性パートナーシップ、選択的シングルなど、一対の男女による結婚→出産というモデルではとらえきれない家族のかたちがたくさんあるのです。この本では、国際比較、歴史的比較、理論という三つの視点から、結婚というものをひもといていきます。当たり前を疑ってみることで、「ふつうの結婚」「ふつうの家族」という考え方を相対化できるはずです。

「結婚の常識を疑うというのが本書に通底する問題意識となります。……多くの人が「自分のせい」「自分だけ」と思い詰めている問題が、実は社会的な問題であるということに気づくというのはきわめて大事なことであり、社会学にはそれを示す責務があると思っています。」(序章より)(以上)

本文から転載します。

 結婚していない人のことを「独身」と呼ぶわけですが、結婚の外にいる人が文字通り「ひとりみ」になってしまう状況を今一度考えなおす必要があります。結婚しなければ、だれかと協力し支えあって生きる関係からはじき出され孤立してしまう社会状況を問題化しなければなりません。
 人々が互いをケアしたり、協力したり、依存しあったり、共に暮らす方法、もっと言えば「家族になる方法」が不足していることにわれわれは目を向ける必要があるのです。
 仮に経済状況が好転しても(そもそもどこまで経済が良くなればよいのか、その基準が明確ではないのですが)、今の結婚システムを自明視していては未婚率の克服にはそれほど効果はないと思います。孤立の問題に対処するためには結婚というシステムを問いなおす必要があります。
 内閣府男女共同参画局「令和3年度人生100年時代における結婚・仕事・収入に関する調査報告書」の独身者に対する調査結果を見てみましょう。
 現在独身の20~39歳女性が「積極的に結婚したいと思わない理由」(複数回答)としてあげるのは、「結婚に縛られたくない」が48.9%としてトップ「結婚するほど好きな人に巡り会っていないから」が48・8%、「結婚という形式に拘る必要性を感じないから」が41・O%となっています。40~69歳の独身女性においても、「結婚に縛られたくない、自由でいたいから」がトップの60・7%、「結婚するほど好きな人に巡り合っていないから」が58・8%、「結婚という形式に拘る必要性を感じないから」が55・6%と続きます。
 このように、生きていくうえで結婚という制度にこだわる必要はないと考える人が増え、「結婚するほど好きな人」がいないと考えている人が増えています。しかし、これらの人は、少なくとも制度上は家族を形成することができず「ひとりみ」で生きていくことになります。
 未婚者を結婚に組み込むことだけを目的とするのではなく、これまで結婚を通じてしか担えなかったさまざまな機能を引き受けるための新たな受け皿を用意していくべきではないか。
 「結婚ありき」ではなく、人間の支えあいの関係のひとつの選択肢として結婚を位置づけなおすことー。(以上)

参考になりました。
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