goo blog サービス終了のお知らせ 

仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

第四の消費 つながりを生み出す社会へ①

2022年04月28日 | 生命倫理

『第四の消費 つながりを生み出す社会へ』 (朝日新書・2012/4/13・三浦展著)、少し古い本ですが借りてきました。


「日本書は、長年消費と社会の関係を分析してきたという筆者が、昭和からの大衆消費のトレンド(第一~第三の消費)を振り返りながら、今後の消費(第四の消費)の展望を述べたものです。
 明治以来、日本の国民は、近代化、富国強兵という「大きな物語」を共有していた。戦後は、国家主義的なアイデンティティは否定されたが、新たに、経済大国、高度経済成長、中流化という「大きな物語」が登場した。そこでは、戦前のムラと軍隊という共同体が企業という「生産共同体」として再編され、かつその従業員は「消費共同体」としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完しあいながら、社会を発展させる推進力となった。国民はその両輪の上に乗り、両輪を動かし、二つの共同体への所属感情を持つことによって、みずからのアイデンティティを獲得した。つまり、仕事と消費が戦後日本人のアイデンティティになったのである。

 また、高度経済成長という「大きな物語」と消費とが密接に結びつけられ、「三種の神器」「マイホーム」「マイカー」「ホワイトカラー」などの新しい生活のイメージが次々と生み出されて、人々を消費へと駆り立てた。「消費は美徳」「大きいことはいいことだ」という言葉に象徴されるように、より多く消費をすることが国民、会社人、さらには家庭人としてのアイデンティティ形成にもつながっていった(拙著『「家族」と「幸福」の戦後史』[一九九九]参照)。


①第一の消費(1912~1941年)日露戦争勝利後から日中戦争まで
東京・大阪などの大都市中流

 ○大都市に限定した「モダン」化(e.g. モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール))
  ・大正の三大洋食:カレーライス、とんかつ、コロッケ
  ・カルピス発売(19年)、新宿三越(29年)、新宿伊勢丹(33年)

②第二の消費(1945~1974年)敗戦、復興、高度経済成長からオイルショックまで
大量生産、大量消費、全国的な一億総中流化

 ○近代工業化の進展による家庭への大量製品の普及 (「大きいことはいいことだ」)
  ・三種の神器-昭和30年代:洗濯機、冷蔵庫、テレビ
           -昭和40年代:3C(カー、クーラー、カラーテレビ)
  ・鉄筋コンクリート造りの団地に住む洋風化したライフスタイル(昭和30年代~)
(続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緩和のこころ :癌患者への心理的援助のために

2021年02月13日 | 生命倫理

改めて『緩和のこころ :癌患者への心理的援助のために 』(2004/6/25・岸本寛史著)の紹介です。

本書は癌の方々への心理的援助にあたって、一人ひとりの気持ちに可能な限り添うことを目的として書かれたもので、既存の医学的な診断体系を検討する一方で、ナラティブ、描画、夢などを通して、癌の方々が体験していることを聞く事に意味を見出そうとした本です。

 

 緩和ケアにおいて,癌患者の示す不安や抑うつなどの症状を,適応障害・不安障占・気分障害といった精神医学の診断体系から捉えようとする動きが盛んである。そのなかでも特に,癌患者に対して適応障害という「診断」が適応されているのを初めて知ったとき,筆者には何のことか理解できなかった。どうして適応障害なのだろう?癌という病を抱えて大変なのだから現実に適応できないのはある意味で当然のことではないだろうか? なぜ敢えて適応障害という概念を使うのだろう? と,理解に苦しんだ。この疑問が本書の大きな原動力となっている。

 

 2001年に英国のケンブリッジで開催された第2回国際ナラティブ・ペイスト・メディスン会議の閉会の挨拶のなかで,主催者の一人であるBrianHurwitz教授が, NBMは医学・医療にパラダイムシフトをもたらす可能性がる,と3度も述べられたのが印象に残っている。患者の語りに耳を傾けることの重要性は,改めて強調するまでもないと思われるのに,なぜ,近年になってナラティブが注目されるようになったのだろうか。

 NBMは,「患者の病」と「病いに対する患者の対処行動」を,患者の人生と生活世界で展開する「物語り」であるとみなす。そして,患者を,物語りの対象ではなく[主体]として,つまり,物語りの登場人物ではなく物語りの「語り手」として尊重する。「病気」とは患者の人生というより大きな物語りのなかで展開する一つの物語りであり,患者はその物語りの語り手として尊重されるのである。

 

 

 斎藤は一般診療におけるNBMの実践のプロセスとして,次の五つを挙げている(斎藤・岸本, 2003)。

  • 患者の物語り(病いの体験)の聴取。
  • 「患者の物語り(病いの体験)についての物語り」の共有。
  • 「医師の物語り」の進展。
  • 物語りのすり合わせと新しい物語りの浮上
  • ここまでの医療の評価。患者の語りに耳を傾け,患者の物語りを共有するところから始めようという姿勢が見られる。そのあとで,医療者側の物語りとのすりあわせが行われるわけであるが,その際,どちらが正しいとか,真実であるかを競うのではなく,異なる物語りのなかから新しい物語りを作っていくという姿勢が基本に据えられる。(以上)

 

そして著者の体験の中で患者の見た夢、絵などの意味づけを試みた本です。

 

用語解説(日本救急医学会)

*NBM

Narrativeとは物語の意であり,個々の患者が語る物語から病の背景を理解し,抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法である。NBMの特長として,①患者の語る病の体験という「物語」に耳を傾け,これを尊重すること。②患者にとっては,科学的な説明だけが唯一の真実ではないことを理解すること。③患者の語る物語を共有し,そこから新しい物語が創造されることを重視することが挙げられる。EBM(evidence based medicine)偏重時代の中で,NBMはEBMを補完するためのものであり,互いに対立する概念ではない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブードゥー死

2021年02月12日 | 生命倫理

『緩和のこころ :癌患者への心理的援助のために 』(2004/6/25・岸本寛史著)、少し古い本ですが、図書館にあったので借りてきました。著書は、1991年京都大学医学部卒業し、現在、内科医として病院勤務している方です。

 

内容をご紹介する前に、昔どこかで読んだことのある「ブードゥー死」の紹介がありました。

1942年、生理学者でありハーバード・メディカルスクールの研究者であるウォルター・キャノン氏は、「Voodoo Death(ブードゥー・デス)」という学術論文にあるそうです。以下は本からの転載です。

 

告知の問題について論じてみたいが,その前に,恐怖などの情動が,どれほど大きな影響を持つか,ということを示す一例を紹介しておきたい。これは「ブードゥー死」とも呼ばれている。

 

 

 あるヒンズー教徒の医師が,刑務所当局の許可を得て,絞首刑を宣告された囚人に驚くべき実験を行った。医師は,全身の血液を徐々に拔いていけば,ゆっくりとではあるが苦痛なく死ねると囚人を説得し,合意のもとに囚人をベッドに縛りつけ,目隠しをした。ベッドの四本の支柱に水を満たした容器をつりさげて,床においた洗面器に水が滴り落ちるようにした。囚人の両手両足を引っかいた後,最初は勢いよく,徐々にゆっくりと,水を下の容器に落とした。囚人は次第に弱っていった。医師は,効果を上げるために,それに合わせて徐々に声を低くした。ついに水が止まると,静けさが支配した。囚人は健康な若者だったが,水の流れが止まって実験が終わるころ,気を失ってしまったようだった。調べてみると,一滴も血を流さなかったのに死んでいた。(Lown, 1996)

 

情動か心臓に与える影響については, Lownの著書に詳しいので省略するが,人は精神的な恐怖だけでも死ぬことがあるのである。(以上)つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナを嫌う

2021年02月03日 | 生命倫理

昨日の続きです。

「コロナに感染してはいけない。でもコロナウイルスの感染しても悪ではない」。これって矛盾しています。同じことが、「障害を持った人を差別してはならない。でも障害はもちたくない」ここにも相反するものがあります。「老人を差別してはならない。でも全身の筋肉が衰え皮膚が弛み、記憶力、認識力、判断力に齟齬をきたしていく老化現象を阻止したい」。これも同じでしょう。

 

「コロナウイルスを嫌う」のと「コロナ汚染者を嫌う」は別のものです。コロナを恐れ嫌うあまりに、これを混同し、コロナ疾患患者をも恐れ嫌うことは、別な問題です。コロナは異質でも、コロナ汚染患者は異質ではなりません。だれもが成り得る同等な人です。これは老化現象も障害も同じでしょう。差別の本質は、自分は差別される側の人間ではないという「認識の誤り」と「優越感というエゴ」があるようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと

2019年11月06日 | 生命倫理
『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』 (岩波ブックレット・安藤 泰至著)、著者は、鳥取大学で宗教学を教えている生命倫理の研究者です。よくまとめられている本です。問題定義風にかかれ、「生きるとは何か」といった視点があり参考になりました。興味深いので著者の本を数冊、図書館へリクエストしました。

この本は、書名にあるように、安楽死問題の基礎知識が得られる内容であり、安楽死を語る際の言葉の定義や現状も示されています。私が興味を持った部分は、「良い死」と「悪い死」の部分です。その辺りのことのみ転載して紹介します。以下転載


いわゆる終末期医療や死を看取る医療はどうなのだろうか。このことについては、終末期ケアのパイオニアの一人であるエリザペスーキューブラー・ロスが弟子のデヴィッド・ケスラーに語ったとされる言葉が有名である。ゲスラーは「死にゆく人々の権利」について本を書いているときに、師のキューフラートロスを訪ね、助言を求めた。キューフラー・ロスは即座に、「生きている人間に対する正しい接し方を覚えていれば、死にゆく人の権利を覚える必要はありません」と答えたという。ケスラーがその本で「死にゆく人の17の権利」の最初に挙げたのは、「生きている人間として扱われる権利」であった。死にゆく人もまた、最期(死亡)の瞬間までは同じように「生きている」人なのであるから(デヴイッド・ケスラー『死にゆく人の17の権利』椎野淳訳、集英社、1997年)。

 医療の目的を「病気を治す」ことに置くのではなく「人が生きるのを支える」ことに置くならば、終末期医療は、他の医療とは異なった何か特殊な医療、というわけではないはずなのだが、現代の医学・医療はあまりにも「治す」ことに焦点を当てすぎてしまい、その結果として「治す医療」と「支える医療」の間に、ある種の分断が起きてしまっていると言える。
 「死なせる」ことによってしかその尊厳が守れないのではないか、と私たちに思わせるような「人間としての尊厳を奪われた生」を生み出しているかなり大きな要因は、そのような現代の悪しき医療文化にあるのではないだろうか。死に至るまで、私たちが尊厳をもって生きることをどのようにしたら支えられるのか。「尊厳なき生」の代わりは「尊厳ある死」ではなく、「尊厳ある生」であるはずだ。


近代ホスピスの発祥とされる英国の聖クリストファーホスピスにおけるもともとの「緩和ケア」概念は、今日の日本で「緩和ケア」と呼ばれているような苦痛緩和を中心とする終末期のケアというよりずっと広いものであること、がんや難病を含め、いわゆる「治らない病気」の患者のQOLを高めるためのありとあらゆる手段を用いた全人的ケアであること、「よい死」に向けてのケアというよりは「よい生」を支えるためのケアだということを認識しておくべきだろう。
 少なくともいま私たちは、どんな形であれ「よい死」を実現しようというような動きに対してもう少し警戒心をもってもよいのではないか。「よく死なせる」ことを考える前に「最後までその生を支える」ことがどこまで追求できているのかをもう一度振り返り、検討してみる必要があるのではないか。これは緩和ケアをめぐる思想的な課題でもあると思われる。(以上)

確かに「良い死」を想定すると、ケアの内容が硬直化してしまいます。死の自己決定に触れられていますが、これはもう一歩という内容でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする