仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

肥満が苦しみとなるー苦しみの構図

2009年12月31日 | 苦しみは成長のとびら
近年テレビ番組ではクイズ番組やトーク番組がやたら多い。昨夜(21.12.30)、クイズとトークをミックスしたような番組で、女性のダイエットが紹介されていた。87キロからりんごダイエットによって44キロへ、90キロが55キロへ124キロから○キロなど、面白かった。興味を引いたのは、肥満体を嫌だ(苦しみ)と思うことになったその構図です。バイトの面接に行ったら不潔だと言われた。病院で生理不順の原因が肥満だと言われた。苦しみでなかった肥満が、外部の人の指摘によって苦しみとなる。

苦しみは状況的には、歓迎しない状態との遭遇によって生じる場合と、すでに内包する事実に対して考え方が変わって現実が苦しみとなる場合がある。ともあれ“思い通りにならない”という自分の物差しが苦しみを作っていることには変わりない。

面白いと思うのは、真宗のように説教で仏さまの領域の話が持ち出される。そして今まで自己中心の生き方に疑問を持っていなかった人が、自己中心の閉ざされた価値観が嫌になる。すなわち外部からの指摘によって現実が苦しみとなるのです。その場合の“思い通りにならない”ことは、仏さまの香りを帯びていることです。

そうすると“思い通りにしたい”という情念自体に、クオリテイー(質)があることになります。

ダイエットを見て、感じたことを言葉にすれば以上のようなものでした。

この1、2カ月、末木文士(東大教授)の本「仏教vs倫理」「日本仏教の可能性」や書き物を数点読んだ。


「仏教vs倫理」(ちくま新書)にあった次の言葉は、これからの寺院活動を考える上で大切だと思う。

 最近、『がんばれ仏教!』(NHKブック)を刊行した上田紀行は、このような仏教の現状に危機感を持ち、葬式仏教を超えていきいきと活動する「イベント僧」たちに仏教の未来を託そうとしている。それに深く共感するところはあるが、僕はやはり日本の仏教は葬式仏教をもう一度きちんと考えなおし、それをしっかりした哲学の上に立てなおす以外に、再生の道はないと考えている。(以上)

仏教の再生は、死者との和解こそ最重要だという。最近、活躍している僧たちを「イベント僧」と断じているところが痛快です。

師は「社会参加仏教の問題点」も語っている。

「宗教の社会参加」を考える場合、例えばアメリカのキリスト教団体の典型的な問題として、妊娠中絶を良性の権利と主張する人たらと、キリスト教原理主義的な人たらは、妊娠中絶は神によって授けられた命を否定することになるために許されないこと反対するグループがある。こうした対立は、社会参加するときに、いったいどういう方向で参加するのかということ自体が問題になり、実は正反対の方向での参加ということもありうる。社会参加という際に、何を目的として参加するのかということは大きい問題とならざるをえない。

それと「社会参加仏教」の活動に、教団の思想的なバックアップがないという点で、非常に危険なものになる。

その2点を挙げて疑問符を提示しておられる。

仏教の役割の一つに、社会の政治や倫理を相対化していくことがあります。この社会において1つの考えが、絶対唯一となると非常に危険なことです。それは仏教の活動についても言えるということです。

この一年、ありがとうございました。明日、元旦の楽しみは、各社の新聞を買ってきて、見比べることです。今頃(31日午前11時)、新聞記者たちは、明日の一面に何を持ってくるか、競っていることだろう。
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心の闇は苦しみとして露出する

2009年12月30日 | 苦しみは成長のとびら
あまり読まないはずの読売新聞の人生案内(21.12.30)に目がいってしまった。どうも「父の再婚相手 認めない」のタイトルが気になったようです。問いそのものの中なる闇(自己中心)を、その人に自覚させるのは至難の業です。

まずは新聞掲載の人生案内です。


30歳代主婦。母はすでに亡くなり、父は3年前に再婚。私も妹も反対したのですが、父は「どうしても一緒になりたい」とこの年で再婚相手を「お母さん」とは呼べません。というか呼びたくありません。「おばちゃん」と呼んでいます。
 悪い人ではないみたいです。私たちの子どもをかわいがってくれるし、おせち料理もケーキも必ず手作り。いつ実家を訪ねても亡き母の仏壇には花とお供物があります。お墓にも毎月参ってくれているようです。
 それでも、私と妹にとっては他人。実家は亡き母と父が建てた家なのに、他人が入り込み、父と優雅に旅行するなど好きにお金を使って暮らしているのです。父はまだ元気ですが、もしもの時、遺言がなければ財産の半分はその人に渡るのです。やりきれません。父はのんびり屋なので、その方面のことは何も考えていません。もしもの時には、再婚相手に家から出て行ってもらうことはできるのでしょうか。(福岡・C子)

回答者 土肥幸代  (弁護士)

父の再婚相手を「お母さん」と呼べない気持ちは、よくわかります。だからといって、父亡きあとは、実家から出て行ってほしいというのは、身勝手で思いやりがなさすぎます。ご承知のとおり、再婚相手は、法的にも、父の財産を相続して実家に居住する権利がありますから、追い出すことなどできません。
 それに、実家の財産はお父さんのものです。子どもたちが今からとやかく言う権利はありません。それを、まるであなたの財産であるかのように、「他人にやりたくない」と思うのは間違っています。お父さんは、あなた方姉妹がそんな考でいることを知ったら、再婚相手が困らないよう、子どもたちより妻に多くの財産を取得させる遺言をする可能性もあるでしょう。
 再婚相手は、先妻の供養も怠りなく、あなた方の子どもたちをかわいがり、家事も上手な様子。母亡き後のお父さんが、そんな良い方とめぐりあい、幸せになれてよかったと考えることはできませんか? どうぞ、お父さんが愛する方を大切にしてあげてください。(以上)

自分の考えを唯一絶対だとする闇が破られていく。破られるところまで行かなくても亀裂が走る。その亀裂は苦しみとしてその人の上に出現していきます。思い通りにならないことに対する痛みです。
先の主婦の言葉でいえば“「お母さん」というか呼びたくありません”“やりきれません”の言葉に見ることができます。

カウンセリングあらば「なぜ呼びたくないのか」「なぜやりきれないのか」の感情に即してその人自身の中に入っていくでしょう。しかしこうしたハウツーでは、それは無理です。

回答の弁護士のように「あなたは間違っています」と言いたいところですが、その言葉によってその人が気づくかどうかは分かりません。そこで私であればこう答えます。

亡くなったお母さんとお父さんが、苦労して建てた家、思い出もあるし、その思い出を大切にしてお父さんも生きていってほしかった。ところが突然、他人が新しい父親のパートナーとして移り住んできた。おまけに限られた父の余生も短く、いつその終りが来るかも知れない。もしここで父親が死んだら、後から入ってきた他人に財産の半分も取られてしまう。そんなことはあってはならない。そんなことは許さない。そのような思いが“やりきれません”の言葉から伝わってきます。

どうでしょうか。今までの人生の中で“そんなことはあってはならない。そんなことは許さない。”といった自分の思いで、他人と対立したり、人を傷つけたり、また自分を裁き、苦労されてきたことがあるのではありませんか。
正しさは、時には人を傷つけます。いま大切なことは“やりきれません”という思いを、新しいお母さんへ向けるのではなく、“やりきれません”という思いの内側にある、あなたの不完全さや自分を絶対とする意識に光を当てていくことだと思います。
すぐには解決できるものではありませんが、その方向に質の高い成長があるように思われます。その意味では新しいお母さんは、あなたの心を映す鏡だともいえます。そしてせっかくご縁を頂いた方ですから、お互いに尊敬し合っていける関係を築いてください。

以上。もちろんベストだとは思いませんが、方向性としたら“やりきれません”という苦しみを通して、自分がハイレベルへと成長(廻心)していくことが重要です。
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問いを見出す

2009年12月29日 | 現代の病理
読売新聞(21.12.28)に「幸せつづるノートの輪」という題でデスクのコメントが出ていた。

三重県の短大准教授の方から、気流面に掲載された2本の投書を読んだ学生たちが今年4月から「うれしかったこと」を各自のノートに書くようになり、さらに全員が投稿者あてに手紙も書いて冊子にまとめたとのお便りをいただきました。
 手紙の主は、高田短大(津市)の内藤由佳子准教授。幼稚園教諭や保育士を目指す学生に教えています。
 内藤さんは、言葉表現指導法の授業で、語彙力が乏しく、後ろ向きに考えがちな学生が多いことを心配していました。そこで、昨年秋に掲載された、30年間好きな言葉をノートにつけているという吉岡真理子さんの投書と、うれしかったことと楽しかったことだけを毎日ノートに記しているという矢野加代子さんの投書を学生に紹介し、同じように書くように勧めました。
 初めは「うれしかったことは何もない」と書かなかった学生も、次第に小さな出来事にも幸せがあり、つらいことにも喜びがあることに気づき始めて書くようになりました。8か月余り続けた後、書き留めたノートについて授業で振り返ったところ、学生から投稿者に感謝の手紙を書こうという声が上がったということでした。
 2年生88人の手紙(A4判)はすべて手書きで、「前向きに物事を考えられるようになった」などと感謝の言葉が記されています。
 冊子は投稿者のお二人に送らせてもらいました。
        (気流デスク)(以上)

初めは「うれしかったことは何もない」と書かなかった学生も、次第に小さな出来事にも幸せがあり、つらいことにも喜びがあることに気づき始めて書くようになったというくだりに、心が温まる思いを持つ。

眼差しのレベルを深めていく。そのためにはまずは問いを持つことだろう。先般送付されてきた茨城県のみやざきホスピタルの会報に「命が間もなく終わるとしたら」というテーマで“あと2週間で自分のこの世の生命がおわるとしたら、その自分にいったいナニを語りかけることができるだろうか?また手紙を書くとしたら何と書くだろうか?”で、入院している参加者や病院スタッフの方々の、率直な手紙が掲載されていた。
問いを持つことによって深まっていく世界がある。現代の病理の1つに、この世は答えであふれていて、その問いが見出さないということがあるように思う。

問いを持つ契機は、病気など色々とある。
問いを持ったときに見えてくる世界がある。
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相手の濁りに関わる

2009年12月28日 | 苦しみは成長のとびら
読売新聞の人生案内(21.12.27)を続けて読んでみた。「アルコール依存症」という用語に宗教的な興味を持ったからだろう。以下の通りです。


義父が再びアルコール依存
30歳代主婦。夫と幼い子の3人暮らし。夫の父は以前アルコール依存症と言われ一度入院したことがありました。
 一時はアルコールなしで過ごせるようになり、夫も私も喜んでいました。義父は「孫のためにも酒はやめる。つらい治療はたくさんだ」と話していました。
 ところが、また酒を飲み始めてしまったのです。量も半端ではありません。その上、寂しくなっては電話をかけ、「俺はどうなってもいい」と話し、親類からは「一人にしてはおけない。同居しろ」と言われます。夫は「また飲んで、仕方ないな」とのんきな様子。私がいらついてもどうしようもありませんが、やはり同居を考えた方がいいのでしょうか。ただ、同居で義父が酒をあきらめるとは思えません。
 飲酒がわかってから孫には会わせていません。夫には「入院をさせよう」と話しています。(埼玉・I子)

 何より、お義父様を思いやるあなたの優しい心根に感動を覚えます。そして、解決の糸口はお手紙の中に出尽くしていると感じました。今必要なのは、事の順番を整理する作業だけです。
 まず、お義父様は間違いなく「アルコール依存症」。それも軽くはない。このままでは心身に重大な問題が生じますので、再入院させねば危険なレベルと思います。もちろん本人が入院を望めば問題ないのですが、そうでない時は、やはり息子であるあなたのご主人が本気で説得せねばならない。しかし、どうもわかっておられないようですね。実の親が危機的状況にあることを、何としても理解してもらうこと。まず、これが出発点です。
 次のポイント。あなたが気づいておられるように、「アルコール問題を解決するために同居」してもうまくいきません。この状態で同居すれば、一家の結束を乱し、共倒れになるだけでしょう。確かにお義父様も本音では同居を望んでおられると思いますので、むしろ「将来同居するための条件」として、「まずアルコール依存症を治すことこそ必要!」と愛を込めて叫ぶことです。その思いはきっと通じると信じたいです。
 (野村 総一郎・精神科医)
(2009年12月27日 読売新聞)

回答者の視点は、科学的に問題を分析して解決の道を提示することです。関わる問題は、相手の苦しみの原因となっている事柄です。その点では満点の答えかもしれません。

こうした人生相談ではなく、カウンセリングでの関わりは、①相手の事柄に関わる、②感情に関わる、③その人の欲求に焦点を当てるなどと言い、感情に関わることを重要視します。上記の回答者の関わりは、感情ではなく、投書者の問題(事柄)の解決です。

私の視点は、感情というよりも相手の濁り(苦悩)に関わることを重要視しています。それは濁りの中にこそ自己超越のヒントがあるという仮説によっています。ところが先の質問のように、私なりの関わる点が見いだせないと、私が次に大切にするのは人情のようです。

実際は次のように答えないだろうが本心からいえば「人に電話をしてくる程度なら、そのうち肝臓を悪くするか脳梗塞でもおこして、お酒が飲めなくなるから、飲ましてあげたら」となります。

それは話のついでとして、「私なりの関わる点が見いだせない」とは、その人が抱いている関心事が、自己実現や自己超越といった問いとは無関係の問いであることです。(あくまでも私の見立て)

たとえばアメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化している。(マズローの欲求段階説)

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1. 生理的欲求―生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求
2. 安全の欲求―衣類・住居など、安定・安全な状態を得ようとする欲求
3. 所属と愛の欲求―集団に属したい、誰かに愛されたいといった欲求
4. 承認の欲求―自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める欲求
5. 自己実現の欲求―自分の能力・可能性を発揮し、創作的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求

上記の五段階を仮説として用いるならば、標記の人生相談はレベル2です。レベル1でも2でも、その欲求そのものが問題となるならば、レベル5の問いとなります。たとえば本能そのものを疑問視するといった問いです。

「義父が再びアルコール依存」の人生相談に関わって見えてきたのは、私が人との関わりの中で大切にしたいと思っていることが、少し見えてきた点です。
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ペットの死耐え難い

2009年12月27日 | 人生案内
昨日(21.12.26)の読売新聞、人生案内、こうした質問コーナーは、ほとんど読むことがない。何か自分なりに答えなけらばならないという義務感もつ。読んだときは、こうして紹介している。ということは3カ月くらい人生案内を読んでいないことになる。見出しだけ読んで、内容がわかるので、それだけでなんだか重たくなる。

ところが昨日は「ペットの死耐え難い」とあった。これは仏教者で出番と読んだ。そしていつものことながら解答は読まず、自分なりに解答を出す。そして解答者との違いを楽しむ。

内容は次の通りです。

60歳代後半の主婦。子どもはいません。先日、ペットが死にました。日がたてば、気が紛れると思っていたのですが、日に日に悲しみが増すばかり。食欲もありません。 夫には悪いと思うのですが、どうしようもありません。何か楽しくなることを探そうかと思うのですが、何もする気になりません。
 たかが、ペットが死んだぐらいで……と思われるかもしれませんが、私にとっては子どもと同じだったのです。どうすれば、気持ちを切り替えられるのでしょうか。アドバイスをいただければ、幸いです。(埼玉・F美)


 つらいですね。愛する相手を亡くした時は、それが人でも動物でもつらい。ペットの死で落ち込むのは変だという人がいますが、私はそうは思いません。死による喪失感から回復することは精神的に大変な仕事とも言われています。
 あなたは、早く気持ちを切り替えなければと焦っていませんか。楽しいことを見つけようと努力するのはいいことですが、回復するのには時間がかかるものです。悲しい気持ちを無理して抑えて我慢せず、泣きたい時は思いきり泣く方がいいんですよ。
 さて、心の回復に効く処方せんですが、悲しみをオフにする時間帯を、1日に2時間作っておくことから始めてはいかがでしょう。1日に2時間だけは他のことに集中する。
 楽しいことでなくていいんです。難しい料理作りに集中するとか難しい講義を聴きに行くなど全精力を集中しないとできないこと、あるいはダンスや水泳など体を使うことに集中するのです。
 それが終わったら、後の22時間はペットを思い出して悲しんでください。悲しみをオフにする時間帯を作ると、次第にそれが悲しみの時間と逆転していくはずです。私自身も愛猫を亡くした時、仕事に集中する時間で救われた経験があります。お大事に。 (海原 純子・心療内科医)
(2009年12月26日 読売新聞)

回答者の説は、一つの試みとしては妥当です。次は私。

お辛いですね。ご自身でも想像していなかった状態。私はせっかくだから、気持ちを切り替えたり過去の事実を忘れて解決するのではなく、その悲しみや意気消沈した気分の底にあるパンドラの箱を少し見つめたらいかがでしょうかということを提案します。といいますのは今まで恐らくあなたは、ご自身の思わくや力で人生を切り開いてきたのではないですか。ところがこのたびは、自分でもどうにもならないコントロール不能の出来事におそわれた。

解決しなければならないことは、ペットの死の問題ではなく、コントロール不能な生に対する自分の立ち位置というか仏教でいう智慧を開発にあると思います。もしその方向へ向かうとすれば、今起きている寂しさや悲しみは意味のある出来事になります。

具体的には、悲しい事実を忘れる努力から、悲しみの中に身を置く努力を少しされたらいかがでしょうか。たとえばお経のCDを買ってきて毎朝、20分お経を聴くか読んでペットのことを思う。あるいは日常生活の中でペットのことが思われた「南無阿弥陀仏」と念仏を称える。いがいとペットのことを思っていない時間が多いことに気づくでしょう。あるいはお寺で法話を聞いたりしてペットのことを回想する。100万いきたねこの絵本もいいですよ。そうした体験を通して、悲しみの背後に一緒に暮らしたという喜びがあることや今までにない価値観に気づくかもしれません。大切なことは気持ちを切り替えることではなく、新しい自分に出会うことです。どうぞお大切にしてください。(以上)

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