近年テレビ番組ではクイズ番組やトーク番組がやたら多い。昨夜(21.12.30)、クイズとトークをミックスしたような番組で、女性のダイエットが紹介されていた。87キロからりんごダイエットによって44キロへ、90キロが55キロへ124キロから○キロなど、面白かった。興味を引いたのは、肥満体を嫌だ(苦しみ)と思うことになったその構図です。バイトの面接に行ったら不潔だと言われた。病院で生理不順の原因が肥満だと言われた。苦しみでなかった肥満が、外部の人の指摘によって苦しみとなる。
苦しみは状況的には、歓迎しない状態との遭遇によって生じる場合と、すでに内包する事実に対して考え方が変わって現実が苦しみとなる場合がある。ともあれ“思い通りにならない”という自分の物差しが苦しみを作っていることには変わりない。
面白いと思うのは、真宗のように説教で仏さまの領域の話が持ち出される。そして今まで自己中心の生き方に疑問を持っていなかった人が、自己中心の閉ざされた価値観が嫌になる。すなわち外部からの指摘によって現実が苦しみとなるのです。その場合の“思い通りにならない”ことは、仏さまの香りを帯びていることです。
そうすると“思い通りにしたい”という情念自体に、クオリテイー(質)があることになります。
ダイエットを見て、感じたことを言葉にすれば以上のようなものでした。
この1、2カ月、末木文士(東大教授)の本「仏教vs倫理」「日本仏教の可能性」や書き物を数点読んだ。
「仏教vs倫理」(ちくま新書)にあった次の言葉は、これからの寺院活動を考える上で大切だと思う。
最近、『がんばれ仏教!』(NHKブック)を刊行した上田紀行は、このような仏教の現状に危機感を持ち、葬式仏教を超えていきいきと活動する「イベント僧」たちに仏教の未来を託そうとしている。それに深く共感するところはあるが、僕はやはり日本の仏教は葬式仏教をもう一度きちんと考えなおし、それをしっかりした哲学の上に立てなおす以外に、再生の道はないと考えている。(以上)
仏教の再生は、死者との和解こそ最重要だという。最近、活躍している僧たちを「イベント僧」と断じているところが痛快です。
師は「社会参加仏教の問題点」も語っている。
「宗教の社会参加」を考える場合、例えばアメリカのキリスト教団体の典型的な問題として、妊娠中絶を良性の権利と主張する人たらと、キリスト教原理主義的な人たらは、妊娠中絶は神によって授けられた命を否定することになるために許されないこと反対するグループがある。こうした対立は、社会参加するときに、いったいどういう方向で参加するのかということ自体が問題になり、実は正反対の方向での参加ということもありうる。社会参加という際に、何を目的として参加するのかということは大きい問題とならざるをえない。
それと「社会参加仏教」の活動に、教団の思想的なバックアップがないという点で、非常に危険なものになる。
その2点を挙げて疑問符を提示しておられる。
仏教の役割の一つに、社会の政治や倫理を相対化していくことがあります。この社会において1つの考えが、絶対唯一となると非常に危険なことです。それは仏教の活動についても言えるということです。
この一年、ありがとうございました。明日、元旦の楽しみは、各社の新聞を買ってきて、見比べることです。今頃(31日午前11時)、新聞記者たちは、明日の一面に何を持ってくるか、競っていることだろう。
苦しみは状況的には、歓迎しない状態との遭遇によって生じる場合と、すでに内包する事実に対して考え方が変わって現実が苦しみとなる場合がある。ともあれ“思い通りにならない”という自分の物差しが苦しみを作っていることには変わりない。
面白いと思うのは、真宗のように説教で仏さまの領域の話が持ち出される。そして今まで自己中心の生き方に疑問を持っていなかった人が、自己中心の閉ざされた価値観が嫌になる。すなわち外部からの指摘によって現実が苦しみとなるのです。その場合の“思い通りにならない”ことは、仏さまの香りを帯びていることです。
そうすると“思い通りにしたい”という情念自体に、クオリテイー(質)があることになります。
ダイエットを見て、感じたことを言葉にすれば以上のようなものでした。
この1、2カ月、末木文士(東大教授)の本「仏教vs倫理」「日本仏教の可能性」や書き物を数点読んだ。
「仏教vs倫理」(ちくま新書)にあった次の言葉は、これからの寺院活動を考える上で大切だと思う。
最近、『がんばれ仏教!』(NHKブック)を刊行した上田紀行は、このような仏教の現状に危機感を持ち、葬式仏教を超えていきいきと活動する「イベント僧」たちに仏教の未来を託そうとしている。それに深く共感するところはあるが、僕はやはり日本の仏教は葬式仏教をもう一度きちんと考えなおし、それをしっかりした哲学の上に立てなおす以外に、再生の道はないと考えている。(以上)
仏教の再生は、死者との和解こそ最重要だという。最近、活躍している僧たちを「イベント僧」と断じているところが痛快です。
師は「社会参加仏教の問題点」も語っている。
「宗教の社会参加」を考える場合、例えばアメリカのキリスト教団体の典型的な問題として、妊娠中絶を良性の権利と主張する人たらと、キリスト教原理主義的な人たらは、妊娠中絶は神によって授けられた命を否定することになるために許されないこと反対するグループがある。こうした対立は、社会参加するときに、いったいどういう方向で参加するのかということ自体が問題になり、実は正反対の方向での参加ということもありうる。社会参加という際に、何を目的として参加するのかということは大きい問題とならざるをえない。
それと「社会参加仏教」の活動に、教団の思想的なバックアップがないという点で、非常に危険なものになる。
その2点を挙げて疑問符を提示しておられる。
仏教の役割の一つに、社会の政治や倫理を相対化していくことがあります。この社会において1つの考えが、絶対唯一となると非常に危険なことです。それは仏教の活動についても言えるということです。
この一年、ありがとうございました。明日、元旦の楽しみは、各社の新聞を買ってきて、見比べることです。今頃(31日午前11時)、新聞記者たちは、明日の一面に何を持ってくるか、競っていることだろう。