仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

抜けた髪を汚いと思う心理

2018年02月24日 | 苦しみは成長のとびら
一昨日の浮ケ谷幸代関連の本に『身体と境界の人類学』があります。

その本の中に

「目の前に自分の髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」「丁寧に手入れされている女性の爪は、ネイルアートを施していなくても、今日、美的鑑賞に堪える身体装飾の一つとなっている。ところが、切り落とされたその一部は鑑賞の対象とはならない。むしろ、一刻も早く目の前から除去すべきものとなる。それは、なぜなのだろうか。」
「唾液は口の中にあるとき、ほとんど意識されない。ところが、囗から吐かれた唾液は、たとえ自分の唾液であっても、大変汚いものに感じる」「耳垢は、鼻糞は、目やには、汗は、尿や便はどうだろうか。身体の中にあるうちは、自分の身体の一部であり、汚いとは感じない。それが身体の外部に出て、他人にそれを指摘されたり、自分でそれを意識したとき、汚く感じるのである。」

なぜかという問題を説いています。本に書かれた答えは次の通りです。

身体から離れたとき、それは微妙なものとなる。もはや自己の一部ではなく、かといって完全に「非自己」(集合非A)ということもできないような、あいまいな中間領域に位置することになる。あるべきところにないもの(集合Aと集合非Aとの境界に位置するもの)は、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。あるべきところ、あるべきものというように、それ以外の場所、それ以外のものとの区別は、私たちが「つつがなく(無病息災である、異状がない、無事である)」日常生活を送るうえで不可欠な認識の仕方なのである。けれども、身体から離れた身体の一部は、そうした「つつがない」日常を壊す(日常からはずれる)ものとして、あるべきところにないものとして、人々に認識される。だから、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」だと思われるのである。「つつがない」日常は、人やもの、概念の区別を前提とする「秩序」に支えられている。その秩序を壊すような人やものの存在は、私たちがふだん意識していない「境界」という観念を明るみに出す。


 秩序を乱すような事物のありように対する拒否感や嫌悪感は、社会を秩序化するための重要な要素となっている。見方をかえれば、私たちの穢れをめぐる行動とは、社会的な分類を混乱させたり、無効にしたりする観念、あるいは分類に当てはまらない「あいまいでどっちつかず」の人や事物、観念、状態を「拒否」「否定」「排除」しようとする反応に他ならないのである。(以上)

いかがしょうか。
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