仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言の葉大賞

2017年03月31日 | 日記
一般社団法人 言の葉協会が主催している「言の葉大賞」という賞があります。
第7回「言の葉大賞®」言の葉大賞のオフィシャルサイトを覗いていました。その中から一遍転載します。

http://www.kotonoha-taisho.jp/about/

優秀賞高校生部門《家族の死》

父の日記
私立麗澤瑞浪高校3年 橋本 容行


父の闘病生活が始まったのは僕が小学二年生の時だった。癌だった。後になっての話だが、癌が発覚したころはすでに末期だったそうだ。一年間続いた父と癌の戦いは 父にとっても毋や僕、弟や妹にとっても過酷なものになった。母は、日中に仕事をしで四十分かかる病院へ通う日々を繰り返した。僕は学校から帰ってくると幼い弟と妹の面倒を見た。お見舞いにもいった。だんだん弱っていく父を見るのは辛かった。祈ることしかできなかった。
 結局、僕が小学3年生の秋に父は死んでしまった。
 父がいない生活は辛いことが多かった。父を恨んだことさえあった。今になって考えると愚かなこともたくさんして、だんだん僕はぐれていった。家族や親せきたくさん迷惑をかけていたようだ。
 そんなある日、僕は父の本棚に残っていた数冊の日記を見付けた。何気無く開いたノートには懐かしい、父の丸文字が並んでいた。少し涙が流れた。そして夢中で父の過ごした日々をを追いかけた。癌が発覚してからのものもあった。検査をしたことや家族が見舞いに来たこととがが一行一行、丁寧に書かれていた。しかしあるページに差しかかって急に文字が乱れ、大きく書き殴るように書かれていた。そこには、「死にたくない。生きたい。このまま家族を残したまま死ねない。まだまだ生きたい」と書いてあった。猛烈に涙が出た。ただその涙は単に悲しかっただけではなく、自分の今の姿が情けなかったから出たのだった。堕落した今の自分が情けなかった。今この瞬間、自分が生きているのは父が生を日々なのだと思った。
 高校生になった僕は最近、色々な人に父に似てきたと言われるようになった。精一杯に今を生きることが死んだ父への親孝行なのかなと思う。(以上)

いい話です。早速昨日、法話会で紹介しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教は共同体の結束効果を強化す

2017年03月30日 | 都市開教

『人類進化の謎を解き明かす』 ([著]ロビン・ダンバー)の続きです。


 儀式に参加する人の大半がトランス状態における大きな高揚感を経験しないなら、宗教による共同体の結束効果を強化するために、なにか別のものか必要になるかもしれない。人間の行動に直接興味を示し、一定の基準に達する振る舞いを要求し、人間の行動を知り尽くしている「高神」が、教理宗教で重要な役割を果たすようになったのは偶然とは思えない。事実、現代の部族社会では、高神の存在は共同体の規模と相関かある(集団か大きければ大きいほど、高神のいる宗教をもつ可能性か高い)。多数の研究か示す結果によれば。こうした種類の社会では、神をさほど熱心に信じない大と比べると、熱心に信じる大は他人に対して親切に振る舞い、集団の規則を守る傾向が強い。現代のアメリカ社会でも、教会の礼拝に行く人の割合か高い(大びとの信仰心が篤い)州では、そうでない州より、大びとの社会参加率か高く、犯罪率が低い。このことは、ロバート・パットナムが独創的な著作『孤独なボウリング』(柏書房)で示している。(以上)

浄土真宗が日本最大の教団になったのは、教えそのものが、より広い共同体の歯軸となり得るというところにその起因があるのでしょう。それは現代でも変わることのない状況です。その辺りをもっと自信をもって教化にたずさわるべきだと思いました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類進化の謎を解き明かす

2017年03月29日 | 日記
『人類進化の謎を解き明かす』 ([著]ロビン・ダンバー)、この本は、今までの人類の進化が化石や地球環境といった視点から研究されてきましたが、本書では認知的側面と社会的側面からアプローチしています。

とくにこの本では、「時間収支」という仮説が目を引く。一日の生活は、「摂食・移動・休息」、そして、集団(の絆)を維持するための「社交」からなる。それらのための時間をどう配分するかが、時間収支だという。
 特に重要なのは、社交のための時間。類人猿の段階では、それは毛づくろい(グルーミング)であった。それが脳内物質エンドルフィンをもたらす。人類において、毛づくろいに代わるものとして、集団における、笑い、歌、踊り、さらに、言語が生まれた。たとえば、摂食のための移動・労働などに時間をとられるようになると、社交のための時間が不足する。すると、集団が崩壊してしまう。また、集団の規模が大きくなっても、同じことになる。集団を広げつつそれを維持するためには、社交を集約し効率化しなければならない。それを果たすのが、祭式であり、また宗教であるという。

本を読みながら、お寺の維持にも言えると思いました。宗教の進化についても、社会的側面から説いています。その部分だけ転載します。

宗教は小規模社会の結束と帰属意識を強化する方法として進化したようだ。しかし宗教には、どうしても彼我の別、グループ内/グループ外の別にこだわるものの見方につながるという残念な部分がある。世界像を共有し、同じ宗教的経験をもち、同じ行動規範にしたがうことは、自分の共同体と隣の谷の住人(素行か悪く、唾棄すべき所業におよび、一般に好ましくない)のあいだに明確な境界線を引くことになるのだ。


同時に、信仰心(世界観、起源にかかわる物語、道徳観かかかわることか多い)が共同体への帰属意識に与える影響を見くびってはいけない。この点において、これは友情を特徴づける基本的な次元に直接かかわるようだ。それはまるで、教理宗教が生まれるときに、きわめて大勢のまったく見知らぬ人から成る架空の共同体への帰属意識をつくるための基盤として、友情を補強する基本的な心理過程か利用されたかのようなのだ。血縁関係の重要性がここでも尊重される。ほとんどすべての教義を重んずる宗教は、近い血縁関係を意味する言葉(父、母、兄弟、姉妹)を用いて、家族的な親密性の錯覚をつくり上げようとしているかに見える。(以上)

本ではもっと細かる論じているの興味のある方は読んでみてください。“社交のための時間が不足する。すると、集団が崩壊してしまう。”“宗教は小規模社会の結束と帰属意識を強化する方法として進化したようだ”。この2点は、共同体の中で寺院が、これから展開していく重要な視点です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

完全教祖マニュアル

2017年03月28日 | 都市開教
『完全教祖マニュアル』 (ちくま新書・ 2009/11架神 恭介著)という宗教をパロディにした本があります。いがいと宗教の社会的な側面を取り上げていて一般の人が宗教を理解するには役立つ本です。特に新宗教への免疫本としては、最良です。

「教祖はこんなに素晴らしい!」「神を生み出そう」「既存の宗教を焼きなおそう」「大衆に迎合しよう」「現世利益をうたおう」「偶像崇拝しよう」「弱っている人を探そう」「金持ちを狙おう」「他教をこきおろそう」「甘い汁を吸おう」「奇跡をおこそう」など、ふざけた小タイトルが続きますが、それなりに説得力のある内容になっています。

たといえ「偶像崇拝しよう」では、次のようにあります。

偶像崇拝を禁止している宗教もあります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は偶像崇拝禁止で、特にユダヤ教、イスラム教は厳しく禁止しています。しかし、旧約聖書によれば、指導者のモーゼが一般人を残してシナイ山に籠ってしまうと、残された人々は形のある神が欲しくなり、金の子牛像を作ってそれを礼拝したと伝えられています。
これは結局、神の怒りに触れてしまうわけです。いつの時代でも人は形のある崇拝対象を求めることが分かりますね。…また、ムハンマドはメッカを征服した時に他部族の崇拝していた偶像を破壊しましたが、これは逆に言えば。それだけ偶像の力が看過できないものだったということでしょう。(以上)

「不安を煽ろう」では、次のようにあります。


ここで大事なのは、相手は今まで「困っていると認識していなかった」ことです。
「困っている」と思っていない相手に対し、「実はお前はこれこれこういう理由で、本当は既に困ってるんだぞ」というわけですから。…

 仏教で言うならば、世間の人たちが老衰や病気、死をなんとなく受け止めている一方で釈迦は老人や病人や死人を見て真剣にシ’ツクを受けたのです。「オレつて何不自由ない王子様だと思ってたけと、老いとか病気ショックとか死とか全然免れないじゃん。オレつて実はスッゲー困ってるじゃん」と彼が気付いたのが、そもそもの仏教のスタートなのです。
釈迦はこの認識に上り、「何となく受け止めていること」を「困っていること」に変え、それを解決するための宗教を作ったわけですね。普通の人は自分が老化したり病気になったりするまで、この世が苦しみばかりだとは思わないものですか、釈迦は他人か苦しむさまを見ただけで危機感を持ち、若いうちからこれへの解決に乗り出したのです。この辺りは宗教者としての彼の突出したセンスと言えるでしょう。(以上)

「神を生み出そう」では、次のようにあります。

神がいるとどんな良いことがあるのでしょう?一つ例を挙げるならば、「うまくいかなかった時に神のせいにできる」というのがあります。たとえば。現代日木には[努力すれば夢はきっと叶う]という風潮かありますよね。しかし、あれは現代日本人の勘違いです。努力したってダメな時はダメです。…もし。あなたが全知全能の神を信じていれば、「まあ。これも神の思し召しだろう」と神のせいにできるのです。(以上)

それなりに面白い本です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親鸞の思想―宗教心理学の視点から

2017年03月27日 | 都市開教
『親鸞の思想―宗教心理学の視点から』(法蔵館・寺川幽芳著)を県立図書館がから借りてきました。浄土真宗を心理学の立場から研究されている方で、龍谷大学の教授でもあった方です。この本は今までの論文を集約した本なので研究書です。

第4章に「現代真宗伝道の基底」とあり、仏教カウンセリング等について論述されています。
少しだけ転載します。

浄土系教団の活力の衰退の背景には、日本仏教の中核を成す大教団を形成してきたその根幹を揺るがすような事態か多方面にわたって生じているからであろう。それは言うまでもなく、特にここ四十年ほどの間に生じた急速かつ多様な社会的文化的変動である。
例えば、かつては「家」の観念と制度を基盤として展開されてきた伝道のシステムが、急速な都市への人口集少中や核家族化によって行き詰まりをみせ、想像を超える早さで進行する社会構造や価値観の変化に対応できないが状況か生じてきたのである。

 …また、浄十真宗では芥儀の前後や法事にさいして法話が行われるのが普通であるか、私の寡聞ではあるが「地獄とか極楽とか聞くとお伽話のようで信じられない」といった。伝統的な浄土教の表象か理解されなくなっているという現状があり、急速に進む漢字離れ・口本語離れという現状のもとでは、伝統的な仏教用語もただそれを語るだけではほとんど理解されないというのが一般的な状況になっている。(以上)

と浄土教衰退の危惧を説かれています。釈尊が入滅して500年後に仏道が誕生する。それは何らかのイメージすなわち象徴的表像のかいすることなしに、宗教的真実にかかわることがいかに至難のことであるかを物語るものであり、親鸞聖人が礼拝の対象として名号を重要視したことは、名号の視覚化であり、阿弥陀如の新しい表像であり、新しい浄土教儀礼であったに違いないと説かれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする