仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

死後の世界は?

2012年09月30日 | 日記
今日(24.9.30)、柏駅前の市民ホールで仏教講演会を予定しています。昨夜は、その講演会のご講師である龍大大学院教授・医師のT先生と、会食のひと時をもちました。

現場の医療の現状をいろいろと語っておられました。知人の前坊守さんが終末期を迎え、病床で、口に「南無阿弥陀仏…」と称えていた。看護していた人は、カルテに「気がおかしくなった」と書き込んでいたという。宗教的孝養皆無状態の現場を嘆いておられました。

大学は実践真宗研究科です。3年間の就業期間を経て、論文を提出する。ある学生が社会事業についての論文を提出したので、諮問会の折、「その事業と浄土真宗の関係は?」と訊ねると、何も答えられなかったという。先生は、社会事業の研究だけならば他の大学で充分といっておられました。学生の真宗理解絵の踏込の甘さを、いくつか語っておられました。

また釈尊は死後の世界を問われた時、「無記」(どちらであるともいわない)という態度で、また「無記」と返答されたところあります。

学生が、往生浄土についての論文を書いてきたので、やはり諮問の折、釈尊は死後について「無記」だと言われるが、その釈尊の答えと、浄土に生まれるということと、矛盾するのではないか。それをどう答えるのか。と訊ねると、やはり返答はなかったという。

先生は、僧侶でもなく、宗門人でもないので、浄土真宗を見つめる角度が新鮮です。また昨夜は貴重なご意見を沢山いただきましたが、憶えていないのが残念です。
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“もののあわれ”は共感的な悲しみ

2012年09月29日 | 日記
小出しですみません。昨朝のNHK深夜便の次きです。大江健三郎氏が、対談の最後に紹介されて言葉も重要だと思われました。

それは『古典基礎語辞典』などをあらわされた国語学者の大野晋さんが、人間の感情で“悲し”と“もののあわれ”の違いを指摘しているという話です。ネットで探ったものを加味して紹介します。

大野晋さんは「もののあわれ」のモノは「決まり、運命、動かしがたい事実」で、アハレは「共感の眼差しで対象をみるときの人間の思い」、思いといってもそれは喜びではなく、むしろかなしさを含んでいる。それは自分の動かしがたい運命が悲しさである。

大江氏が対談の最後に語られたのは“「もののあわれ」という共感的な悲しみへの視座に感動した”(意趣)という話でした。

“悲し”が主観的な思いであるとすると“もののあわれ”は共感的な思い。これは重要だと思いご紹介しました。
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一番ではなく本質的なもの

2012年09月28日 | 日記
今朝(24.9.28・AM5時)の柏は、台風の影響で風が強く霧雨状態です。ウオーキングを止めてパソコンに向かっています。さっき聴いたNHKラジオ深夜便「明日へのことば」ノーベル賞作家、人生と日本を語る(2)で、大江健三郎氏でした。聴いていて印象に残っている言葉があります。

『星の王子さま』はフランス人のアントワーヌ・ド・サンの小説で1943年の出版です。

大江氏が、ある本で読んだと紹介されたのは、この『星の王子さま』の原稿は、3稿までの3本あって、2本目から3本目になるとき、ある文字を訂正して書き加えられている箇所があるとのこと。

それは、星の王子さまは最後の地球に来て、キツネと仲良しになります。そしていよいよ最後、キツネは星の王子さまに告げます。最初の稿では「一番大切なものは、目に見えないものなのだよ」、この“一番大切”という言葉を消して“もっとも根本的、本質的なものは”に変えてあるという。もちろん原文はフランス語で、ラジオではフランス語を紹介していました。

この表現の違いは重要だと思われます。一番というは、ほかのものと対立的に考えてしまいます。本質的という表現だと、すべての根底にあるといった意味となります。

私自身、法話等で“一番”という対立的表現をしがちです。参考までにウィキペディアで『星の王子さま』のキツネとの会話は次の通りです。(ウィキペディアより転載)

地球の砂漠に降り立った王子は、まずヘビに出会う。その後、王子は高い火山を見、数千本のバラの群生に出会う。自分の星を愛し、自分の小惑星の火山とバラの花を愛おしく、特別に思っていた王子は、自分の星のものよりずっと高い山、自分の星のバラよりずっとたくさんのバラを見つけて、自分の愛した小惑星、火山、バラはありふれた、つまらないものであったのかと思い、泣く。
泣いている王子のところに、キツネが現れる。悲しさを紛らわせるために遊んで欲しいと頼む王子に、仲良くならないと遊べない、とキツネは言う。キツネによれば、「仲良くなる」とは、あるものを他の同じようなものとは違う特別なものだと考えること、あるものに対して他よりもずっと時間をかけ、何かを見るにつけそれをよすがに思い出すようになることだという。これを聞いた王子は、いくらほかにたくさんのバラがあろうとも、自分が美しいと思い精一杯の世話をしたバラはやはり愛おしく、自分にとって一番のバラなのだと悟る。
キツネと別れるときになり、王子は自分がキツネと「仲良く」なっていたことに気付く。別れの悲しさを前に「相手を悲しくさせるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」と思う王子に、「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるなら、仲良くなった事は決して無駄なこと、悪い事ではなかった」とキツネは答える。別れ際、王子は「大切なものは、目に見えない」という「秘密」をキツネから教えられる。(以上)

上記では「大切なもの」と表記されていますが、他のあらすじで検索して読むと「一番大切なものは」と表記されているものが多いようです。

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房総半島最南端での正信偈

2012年09月27日 | 日記
今朝(24.9.27)は、千葉県房総半島最南端、白浜にて朝焼けを体験しました。昨日、今年は初めての京都龍谷大学での講義、そして一路新幹線で東京へ。駐車場に止めおいていた自家用車でアクアラインを走って現地へ5時30分の到着でした。東京ビハーラの一泊旅行への合流です。

朝、一人で最南端の碑がある岩浜で、声明と正信偈を太平洋に向かって一節。昼は市原市にある都市開教寺院である、手ずくりピザを、一人一人がグザイをトッピングしたものを焼いてくれました。

西光寺の住職は、勤行後の挨拶で、ピザのきじを3日前から段取りして今日を迎えたことを紹介しながら、私たちが仏教の教えにあうこと、念仏申すこと、すべてが段取りが整ったことであるといった話をしてくれました。

私は住職の、都市開教でのご苦労を多少知っているので、一瞬、「住職のご苦労は、私が今ここで念仏申すためのご苦労であった」受け止めていく世界もあるが。しかし、そのように実感できない自分の甘さを思いました。でも事実はその通りでしょう。

3日前の24日、ご門徒の87歳のSさんが一年ぶりに参拝に来られました。お身体がかなり弱っていて、聴けば脳梗塞で入院、その後、お連れ合いも背骨を折って入院、今は介護を受けながらの日常であるという。

お焼香を整えると、合掌しながら如来さまと語らっておられました。「妻も私も、今は介護の生活で、参拝もままなりません。今日は、ご本尊にお参りでできて良かった。ご住職さまにお会いできてよかった。老いの苦労は、今まですべての人が体験してきたことで、妻とは辛抱して暮らしていこうと語っています。南無阿弥陀仏…、今日は、本当におまえりできてよかった…」。横に控えている私を意識せず、阿彌陀さまにお礼をされていました。

私は、Sさんの仏さまとの会話を聴きながら、今この方が、念仏を称え、お礼をする場を整えるために、私の今までの都市開教の歴史があったと思い「よかった、よかった」と念仏しました。3日前の、そのことが今日の西光寺のご挨拶に繋がりました。

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映画に学ぶ現代宗教

2012年09月26日 | 日記
私立図書館で『映画で学ぶ現代宗教』(井上順孝編)を借りてきました。邦画洋画82編の中に見えてくる宗教性を、いろいろな方が解釈している本です。発想が面白いと思って借りてきましたが、肝心要の映画をほとんど見たことがない私とっては、ちんぷんかんぷんでした。

登場してくる映画のタイトルをご紹介すると(アイウエオ順)、「愛のイエントル」「愛より強い旅」「明日なき抱擁」「アフガン零年OSAMA」と続いていきます。邦画も「里見八犬伝」他、採用されています。

たとえば「おくりびと」、私は見ていないのですが、宗教というフイルターをもって物語を見ていくという視点は、新鮮に感じました。せっかくなので「おくりびと」のコメントだけ紹介します。

まずストーリーが紹介され、納棺とは、死者の送り方など解説が入ります。そして次のようにあります。(以下転載)

描かれない宗教者(小見出し)

 この映画では、目常的に死に向き合う職業である納棺師を描いている。(中略)、ここで気になるのが葬儀で重要な役割をはたすはずの僧侶ら宗教者の姿がほとんど描かれないことである。画面に映ってはいるか、完全に背景化され、無視されているといってよい。(中略)死を扱う映画で宗教者が描かれない、そのことに注目したい。(以上)

言われてみればの世界です。
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