仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

正しい絶望のすすめ㉝

2018年03月31日 | 正しい絶望のすすめ
「虚仮(こけ)諂偽(てんぎ)にして真実の心なし」(『顕浄土真実教行証文類』親鸞聖人)
「虚仮諂偽―いつわり、へつらい

真実に出遇うことは、いつわりとへつらうわたしに見切りがつくことです。

 「仏教の教えはとても分かりづらい」といわれます。なぜ分かりづらいのかといえば、さまざまな要因があるからです。
例えば「五種不翻(ごしゅふほん)」といって、サンスクリット(梵語)やパーリー語の原典から漢訳するとき、元の意味を訳さないで、サンスクリットやパーリー語の音に相当する漢字を当てている(音訳)箇所が随所にあるため、漢字を見ただけでは意味の分からないところがたくさんあるのです。例えば「阿弥陀」や「阿羅漢(あらかん)」などです。
「五種不翻」とは、玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)法師が翻訳をするときに定めた約束事で、簡単に言えば〝名前などの固有名詞〟〝ひとつの単語の中に意味がたくさんある言葉〟〝言語のほうが響きが良い言葉〟〝すでに一般に使われている言葉〟〝翻訳すると真意が失われてしまうおそれがある言葉〟の五つの場合、無理に翻訳せず、原語のままを用いています。
 しかしそれ以上にお経を分かりにくくさせているのは、〝わたしは分かった〟とか〝わたしは分からない〟といった主観にとらわれ、思い込みで理解するからです。お経の役割は、わたしの〝分かった〟という分別(ふんべつ)心(しん)を木端(こっぱ)微塵(みじん)に壊すことにあります。
 例えば、『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に、主人公である韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)が阿弥陀仏の浄土の現出を乞い願ったとき、「そのとき世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」とあります。普通に読むと、〝ああ、にっこりされたのだな〟と理解します。これが、経典を分かりにくくさせてしまうのです。〝この笑いは何か〟と伺っていくことが大切なのです。
『大智度論(だいちどろん)』(『般若経(はんにゃきょう)』の注釈本)には、「笑いには七通りがある」と示されています。
すなわち〝歓喜(かんぎ)の笑い〟〝怒りの笑い〟〝軽蔑の笑い〟〝変わったことを見ての笑い〟〝照れ笑い〟〝違った風俗を見ての笑い〟〝稀有なことに出会ったときの笑い〟です。
前述の「世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」は、〝いま、韋提希夫人の上には稀有なことが起きている〟と伝えているのです。
お経が難しいのは、〝わたしの経験値で理解する〟からです。このわたしのとらわれを壊す。これがお経の役割なのです。
 東日本大震災の発生から三か月ほど経ったころ、「生きているだけで良かった」「命があるだけで良かった」という言葉をよく聞きました。
 人は何かを失ったとき、〝あることの有難さ〟を知ります。これは誰もが体験するところです。若さにしろ、職業にしろ、伴侶にしろ、名誉にしろ、失ってはじめて有難いと思うのです。ではなぜ、失うことを通して、あることの有難さを知るのでしょう。
それは、失うことを通して、〝あって当たり前〟というわたしの思いが壊されるからです。そうであるならば、仏教では〝失う〟という経験を経ずに、〝あって当たり前〟という思いを壊していこうとするのです。その方法が説かれているのが「お経」です。
 ところが、浄土真宗という仏道は、まったく考え方を異にしています。このわたしのとらわれを壊していこうとは考えません。これは、「わたしは〝壊れようがない、構造的に変えることのできないもの〟を抱え込んだ凡夫である」と認め、だからこそ「阿弥陀如来によって無条件に救われなければならない存在」だと認めていくのです。その体験を通して、〝自分は絶対唯一〟とする思いから解放されていく。それが浄土真宗の考え方であり、〝無条件でなければ救われない。それほどにわたしの闇は深い。その闇の深さが明らかになる〟という教えです。
ここから〝凡夫こそが救われていく〟という物語が生まれてくるのです。
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声が20歳若返るトレーニング

2018年03月30日 | 日記
図書館で『上手にあがりを隠して人前で堂々と話す法』(丸山 久美子 著) と『声が20歳若返るトレーニング』(上野 実咲・上野ヴォーカルアカデミー)を借りてきました。

両書とも、声の出し方のトレーニングが説かれていました。
ベロを上唇とハグキの間に挟み、左右に10回づつ、ぐるぐると回すトレーニングは両書とも書かれいました。

『上手にあがりを隠して人前で堂々と話す法』に、ガムを使った滑舌をスムーズにするトレーニングは役に立ちます。

『声が20歳若返るトレーニング』は、上野式トレーニングが示されています。


■第3章 スラスラとしゃべれるようになる
口がうまく回らない原因
割りばしトレーニング
滑舌と声の響き
滑舌がいいとキレがいい
滑舌と舌の位置

■第4章 滑舌に抜群の効果!「らたなかさ体操」
「らたなかさ体操」とは?
「らたなかさ体操」のやり方

■第5章 声に力を出すための喉を作る
声帯って鍛えられるの?
割りばしで声帯トレーニング
強い声を出す声帯強化トレーニング
地声と裏声
声帯は縦に伸びるほど高音が出る
高音と舌根の関係
高い声を出すためのトレーニング(以上)

口輪筋を鍛える割りばしトレーニング
「おあ・おい・おう・おえ』(×2回)
「うあ・うい・うえ・うお)(×2回)
・割りばしを2膳縦にして、左右の奥歯でくわえて発声
・一連の発声を3回繰り返す(以上)


といった具合です。お朝事の後、トレーニングした次の日、割り箸が捨てられていました。

古典的ですが、なんといっても早口言葉が有効です。

ビュッフェで 美人に ビールをつぐ 美少年
ビルの屋上で ビスケットをかじる 美少年
ビキニ姿で ビーチを走る 美少年
便せんを びりびりにやぶく 美少年
ビーズ細工のビワを ビンに詰める 美少年
貧乏でも ビーバーを飼っている 美少年
びくびくしながら 美術品を扱う 美少年
ビヤガーデンの ビラを配る 美少年

東京特許許可局 許可局長の許可


この竹垣に竹立てかけたのは 竹立てかけたかったから 竹立てかけたのです

少女シャンソン歌手 新春シャンソンショー 

服作る夫婦 靴作る夫婦 古服売る夫婦 古靴売る夫婦

一里二里七里 一日にぎりぎり七里行った

お綾や親にお謝り お綾や八百屋にお謝りとお言い

抜きにくい釘 引き抜きにくい釘 釘抜きで抜く釘

新人手術師 手術中

(以上)
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築地場外市場が寿司屋街

2018年03月29日 | 都市開教
昨28日は、都市開教専従員、OBの会合。昭和52年から現在まで布教の開設は51、今年は3カ所開設、拠点を探している人が専従員が3名。専従員候補者として研修中の人がひとり。昨日は研修会も兼ね、わたしが「現代の病理」をテーマに一時間ほど話しして懇親会。懇親会場は築地場外市場内にある寿司屋でした。夜に場外市場に入るのは10年ぶり、場外市場のメインストリートが、寿司屋街になっているのに驚きました。
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現代の社会と宗教

2018年03月28日 | 都市開教
図書館で借りてきた『年表でわかるー現代の社会と宗教』に、上田紀行、池上彰、弓山達也、中島岳志の特別座談会が掲載されており、その中で中島岳志氏が、次のように語っています。ご参考までに。

昔は60年代のアメリカへ行くと、みんなか地域でボウリング大会をやっていた、でも今は他方のボウリング場に行くと、おじさんが一人でボウリングをやっている。こういう状況になったのはなぜなのか。アソシェーションというものが弱くなってきた。こういったときに2つの答えの出し方があって。だから昔に戻ろというのがトランプ現象ですよね。あの頃の輝けるアメリカを取り戻そう。けれともパットナ厶は、それじゃだめだと言うんです。彼はアソシェーションのあり方を、ボンディングとブリッジングという2つに分割します。ボンディングは強いつながりを待った「絆」の関係性です。これは確かに多くの人を社会的に包摂するのですが、どうしても排除の論理が含まれる。…そういうようなボンディングの関係だけに戻るのではなくて、もちろんボンディングは重要だけれと、もう1つブリッジングというのが新しい社会には必要であると。

 つまり、町内会がだめなんじゃなくて、町内会しかない社会がためなんだ。町内会の社会が終わると世界が終わってしまうように感じる。そうではなくて、町内会にも行っているし、別の日はNPOにも行っているし、別の日は習いごとの友達がいるというように、梯子がかかりている社会、そういうのをどう構築するかということなんです。お寺はボンディングに絞り過ぎてきたんですよね。ブリッジンクというのを、ボンディングである檀家を否定せずに、どう外からり人を取り込みながらやっていくのか、なんですよね。

 檀家制度があるがゆえに寺に入りにくいんですよ。居酒屋で常連ばっかりの店って入りにくいのと同じなんてすね、「あそこ、行きたくないな」という感じというのが寺の行きにくさということであって、今はむしろ交わりながら、どういう相互閃係を打ち立てるか。仏教というのは、むしろに伝統的には、そっちたったはずなんです。たとえば網野善彦が書いた「無縁」という空間としての寺。この「無縁」というのは、縁がないという意味じゃないんです。無限の縁ぐらいの意味であって、無縁と無限というのはセットなんです。

 今、復活させなければいけないのは、ある種の寺の無縁性.無限の人間関係、開かれたトポスとしての寺ですね.そういうものと檀家制度をどういうふうに組みひわせるかというのが、お寺の開き方。
(以上)
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報恩講

2018年03月27日 | 都市開教
送られてきた『中外日報』(2018.3.23日号)に次のようにありました。

「一般寺院を対象に実施された第10回宗勢篷本調査でも、ほとんどの寺院が報恩講法要を勤めている。法要日数が2日間が40.1%で最も多く、3日以上は17・!%。北陸・東海は2日間、近畿・東北・東京・新潟・国府などは1日間のところが多く、沖縄は全てが1日間。また、3日以上勤めるのは九州地方の寺院が多かった。
 「14年の報恩講で最も参拝者が多かったは」との設問では、20~49人が最多で52・9%だった。かつては3日以上勤めていた報恩講も2日間、1日間が主流となり、参拝名数も減少傾向か続いている。また真宗教団連合か門徒を対象に実施したアンケートでは、報恩に講に参拝したことがある人は23・7%で、なんと29・1%の人が「報恩講を知らない」と回答している。(以上)

感想は、寺院の活動が文化として地域社会になじんでいたが、しだいに文化からカルチャーに移行しつつあるということです。文化とは生活の一部でしが、カルチャーは、チョイスするものです。都市部の寺院は、多種多様な活動をすることによって、お寺が、門信徒の生活の一部となるような努力が必要です。
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