「虚仮(こけ)諂偽(てんぎ)にして真実の心なし」(『顕浄土真実教行証文類』親鸞聖人)
「虚仮諂偽―いつわり、へつらい
真実に出遇うことは、いつわりとへつらうわたしに見切りがつくことです。
「仏教の教えはとても分かりづらい」といわれます。なぜ分かりづらいのかといえば、さまざまな要因があるからです。
例えば「五種不翻(ごしゅふほん)」といって、サンスクリット(梵語)やパーリー語の原典から漢訳するとき、元の意味を訳さないで、サンスクリットやパーリー語の音に相当する漢字を当てている(音訳)箇所が随所にあるため、漢字を見ただけでは意味の分からないところがたくさんあるのです。例えば「阿弥陀」や「阿羅漢(あらかん)」などです。
「五種不翻」とは、玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)法師が翻訳をするときに定めた約束事で、簡単に言えば〝名前などの固有名詞〟〝ひとつの単語の中に意味がたくさんある言葉〟〝言語のほうが響きが良い言葉〟〝すでに一般に使われている言葉〟〝翻訳すると真意が失われてしまうおそれがある言葉〟の五つの場合、無理に翻訳せず、原語のままを用いています。
しかしそれ以上にお経を分かりにくくさせているのは、〝わたしは分かった〟とか〝わたしは分からない〟といった主観にとらわれ、思い込みで理解するからです。お経の役割は、わたしの〝分かった〟という分別(ふんべつ)心(しん)を木端(こっぱ)微塵(みじん)に壊すことにあります。
例えば、『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に、主人公である韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)が阿弥陀仏の浄土の現出を乞い願ったとき、「そのとき世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」とあります。普通に読むと、〝ああ、にっこりされたのだな〟と理解します。これが、経典を分かりにくくさせてしまうのです。〝この笑いは何か〟と伺っていくことが大切なのです。
『大智度論(だいちどろん)』(『般若経(はんにゃきょう)』の注釈本)には、「笑いには七通りがある」と示されています。
すなわち〝歓喜(かんぎ)の笑い〟〝怒りの笑い〟〝軽蔑の笑い〟〝変わったことを見ての笑い〟〝照れ笑い〟〝違った風俗を見ての笑い〟〝稀有なことに出会ったときの笑い〟です。
前述の「世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」は、〝いま、韋提希夫人の上には稀有なことが起きている〟と伝えているのです。
お経が難しいのは、〝わたしの経験値で理解する〟からです。このわたしのとらわれを壊す。これがお経の役割なのです。
東日本大震災の発生から三か月ほど経ったころ、「生きているだけで良かった」「命があるだけで良かった」という言葉をよく聞きました。
人は何かを失ったとき、〝あることの有難さ〟を知ります。これは誰もが体験するところです。若さにしろ、職業にしろ、伴侶にしろ、名誉にしろ、失ってはじめて有難いと思うのです。ではなぜ、失うことを通して、あることの有難さを知るのでしょう。
それは、失うことを通して、〝あって当たり前〟というわたしの思いが壊されるからです。そうであるならば、仏教では〝失う〟という経験を経ずに、〝あって当たり前〟という思いを壊していこうとするのです。その方法が説かれているのが「お経」です。
ところが、浄土真宗という仏道は、まったく考え方を異にしています。このわたしのとらわれを壊していこうとは考えません。これは、「わたしは〝壊れようがない、構造的に変えることのできないもの〟を抱え込んだ凡夫である」と認め、だからこそ「阿弥陀如来によって無条件に救われなければならない存在」だと認めていくのです。その体験を通して、〝自分は絶対唯一〟とする思いから解放されていく。それが浄土真宗の考え方であり、〝無条件でなければ救われない。それほどにわたしの闇は深い。その闇の深さが明らかになる〟という教えです。
ここから〝凡夫こそが救われていく〟という物語が生まれてくるのです。
「虚仮諂偽―いつわり、へつらい
真実に出遇うことは、いつわりとへつらうわたしに見切りがつくことです。
「仏教の教えはとても分かりづらい」といわれます。なぜ分かりづらいのかといえば、さまざまな要因があるからです。
例えば「五種不翻(ごしゅふほん)」といって、サンスクリット(梵語)やパーリー語の原典から漢訳するとき、元の意味を訳さないで、サンスクリットやパーリー語の音に相当する漢字を当てている(音訳)箇所が随所にあるため、漢字を見ただけでは意味の分からないところがたくさんあるのです。例えば「阿弥陀」や「阿羅漢(あらかん)」などです。
「五種不翻」とは、玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)法師が翻訳をするときに定めた約束事で、簡単に言えば〝名前などの固有名詞〟〝ひとつの単語の中に意味がたくさんある言葉〟〝言語のほうが響きが良い言葉〟〝すでに一般に使われている言葉〟〝翻訳すると真意が失われてしまうおそれがある言葉〟の五つの場合、無理に翻訳せず、原語のままを用いています。
しかしそれ以上にお経を分かりにくくさせているのは、〝わたしは分かった〟とか〝わたしは分からない〟といった主観にとらわれ、思い込みで理解するからです。お経の役割は、わたしの〝分かった〟という分別(ふんべつ)心(しん)を木端(こっぱ)微塵(みじん)に壊すことにあります。
例えば、『仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に、主人公である韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)が阿弥陀仏の浄土の現出を乞い願ったとき、「そのとき世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」とあります。普通に読むと、〝ああ、にっこりされたのだな〟と理解します。これが、経典を分かりにくくさせてしまうのです。〝この笑いは何か〟と伺っていくことが大切なのです。
『大智度論(だいちどろん)』(『般若経(はんにゃきょう)』の注釈本)には、「笑いには七通りがある」と示されています。
すなわち〝歓喜(かんぎ)の笑い〟〝怒りの笑い〟〝軽蔑の笑い〟〝変わったことを見ての笑い〟〝照れ笑い〟〝違った風俗を見ての笑い〟〝稀有なことに出会ったときの笑い〟です。
前述の「世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」は、〝いま、韋提希夫人の上には稀有なことが起きている〟と伝えているのです。
お経が難しいのは、〝わたしの経験値で理解する〟からです。このわたしのとらわれを壊す。これがお経の役割なのです。
東日本大震災の発生から三か月ほど経ったころ、「生きているだけで良かった」「命があるだけで良かった」という言葉をよく聞きました。
人は何かを失ったとき、〝あることの有難さ〟を知ります。これは誰もが体験するところです。若さにしろ、職業にしろ、伴侶にしろ、名誉にしろ、失ってはじめて有難いと思うのです。ではなぜ、失うことを通して、あることの有難さを知るのでしょう。
それは、失うことを通して、〝あって当たり前〟というわたしの思いが壊されるからです。そうであるならば、仏教では〝失う〟という経験を経ずに、〝あって当たり前〟という思いを壊していこうとするのです。その方法が説かれているのが「お経」です。
ところが、浄土真宗という仏道は、まったく考え方を異にしています。このわたしのとらわれを壊していこうとは考えません。これは、「わたしは〝壊れようがない、構造的に変えることのできないもの〟を抱え込んだ凡夫である」と認め、だからこそ「阿弥陀如来によって無条件に救われなければならない存在」だと認めていくのです。その体験を通して、〝自分は絶対唯一〟とする思いから解放されていく。それが浄土真宗の考え方であり、〝無条件でなければ救われない。それほどにわたしの闇は深い。その闇の深さが明らかになる〟という教えです。
ここから〝凡夫こそが救われていく〟という物語が生まれてくるのです。