仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

阿含宗のキャンペ-ン

2009年10月31日 | 新宗教に思う
産経朝刊(21.10.31)に保守論壇の中核的月刊誌である『正論』の広告記事が出ていた。先月、先々月と新宗教「阿含宗」の桐山靖雄氏の対談記事が出ていたので、今月号はどうかと探したが見当たらない。そして新聞の次のページをめくると、なんと阿含宗の全面PR記事。

その広告記事を見て、これは一連のパフオーマンスであったかと理解した。どのようなパフオーマンスであったかというと、7月頃、やはり産経新聞の一面広告で桐山氏が靖国神社に参拝する写真入り全面広告記事が掲載された。そして正論への対談記事が9月.10月と続く。内容は戦中の青年の国家を思う理想への賛同と憂国の念を語ったものであった。おそらく正論自体が執筆者に幸福の科学や光言社(統一教会)など、反共宗教団体・ミニコミ紙主宰の言論人や評論家が多く、最近は広告もフジサンケイグループ系列各社と靖国神社崇敬会、「戦争博物館」、印刷製本を請けている大日本印刷の広告のみの状態である。スポンサーの靖国神社崇敬会からの後押しもあって対談記事掲載となったのであろう。そして今日のニューギニヤでの戦没者慰霊護摩法要の全面広告である。過日の広告では戦没者の御英霊を無事、靖国神社へお連れしましたとあった。

この一大キャンペーンで先祖供養の阿含宗というイメージ広告であろう。
桐山靖雄氏は、その経歴は華々しい。詐欺で2回、酒税法違反・私文書偽造行使で1回、計3回の逮捕歴で、昭和35年5月(39歳)から1年服役している。

私が桐山氏の名に接したのは学生時代で『密教誕生』です。強烈な印象が記憶にある。密教誕生は小説風仏教解説書といった本です。仏典には成仏するまでに必要な時間の長さを「三阿僧祇劫」(さんあそぎこう)という形で示されている。僧祇劫とは途方もない長い時間です。あなたがなぜ成仏できるのか。その秘密は「三阿僧祇劫の最後の日が今日です」とあった。だからあなたは明日、成仏しますという論法です。

この論法は官僚の人もよく使う。「100年に一度の災害、その災害は明日かもしれません」と。確かに間違いではない。でも、なにかそこに論理のすり替えがあるように思われる。災害の大きさを100年という数字を用いて語っているのであって、明日、災害が来るか、また災害が2度と来ないかもしれない。

成仏を三阿僧祇劫という時間の長さで語ることは、時間の長さが本質ではなく、成仏しがたい人間の体質を時間の単位をもちいて示したものです。三阿僧祇劫経過したらだれしも成仏するものでもない。

ともあれ、新宗教の動静によって社会が持っている価値観の揺らぎや不安、恐れなどの見えてくるので、興味がある。
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あたり前のことへの驚き

2009年10月30日 | 日記
このブログを書き始めて新聞を読む時間が長くなった。興味を引く記事はないかという物色のためです。
ありました。今日の読売(21.10.28朝刊)医療ルネッサンスに以下のような記事が載っていた。

新聞のその写真を見た時、静岡県の主婦B子さん(57)は、「心臓が飛び出しそうに」驚いた。
 昨年10月16日の本欄で取り上げた「皮膚がん」。写真には、まゆ毛の上に黒いイボが写っていた。日本人に最も多い「基底細胞がん」転移はまれという皮膚だ。転移はまれだが、放っておくと筋肉や骨などを侵していく。B子さんにも、みけんのやや右寄りの皮膚に、写真とそっくりのイボがあった。黒い表面の真ん中が割れているように見えるのも、まさに同じ。15年ほど前からあったように思う。
(中略) 11月、メスで患部を中心に皮膚を丸く切除し、縫い合わせた。2週間後に聞いた細胞検査の結果は、やはり基底細胞がん。「がんは取り切れた」と聞き、ホツと胸をなで下ろした。(以上)
 
私がこの記事に目を止めたのは、日常に中でいつも見ていたなんでもない光景や出来事、現象が、実は深い意味を持ち、あるいは命に関わる疾病現象だったりする。このなんでもない日常ととんでもない現象だったという光と影のコントラストが面白く思われた。

仏教を説かれた釈尊についても言えることです。釈尊在世の頃、欲や怒りは対象物によって心の中から現れ出る心の動きとして欲の対象となるものを求めた。欲望そのものを考えることはなかった。ところが釈尊はこの欲と怒りなどの苦しみの中で、外部に心の充足を求めず、欲と怒りそのものを見つめた。そしてこの苦しみは思い通りにならないと安心できないという心の闇が原因であると人間の闇の深さに出会って行かれた。「欲しい、腹が立つ」という何気ない心の現象を通して、その心の動きの底に流れている人間の愚かさに出会っていったのです。

親鸞聖人も日ごろ称えていた念仏が、これはただ事でないできごとですと、念仏の根底に流れている阿弥陀如来の深い智慧と慈悲に出会われた。ともに当たり前と思われて行動していた、その行動そのものの中に、個人の自由意思を超えた深い道理に出会って行かれた。

すべての現象において原因と結果を導き出す縁(影響力)がある。そう考えて社会の事件や出来事を見ていると先のB子さんが述懐された「心臓が飛び出しそうに」驚くまではいかなくても、世の中が立体的に見えてくるような気がします。
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嬉しい心使い

2009年10月29日 | 浄土真宗とは?
昨日、ホテルで朝食をとっているとウエイトレスがきて、紙のひざかけ用ナプキンを差出し、「どうぞ新しいものをお使い下さい」という。言われて床を見ると私のナプキンが落ちている。私は「結構ですよ」とナプキンを拾いひざにかけた。

そして食事をしながら、さすがにこのホテルの接客マナーは良いと感心した。ナプキンが下に落ちていると見苦しいので、「ナプキンが落ちています」と欠点を告げる言い方もある。私は私の非を認めて「ありがとう」か「すいません」とでも言うだろう。ところが私の非を告げる言い方ではなく「新しいものをお使い下さい」と、浄土真宗的に言うならば救いを告げて、その言葉の中に私は自分の行為の過ちを知らせるという方法です。

これはホテルでなくてもよくあることです。いつぞや県立の図書館のロビーで携帯が鳴ってあわてて応答に出た。図書館は静寂な場所なのでマナー違反です。そのときも幹部職員らしき年配の方が来て「あちらに電話のコーナーがございます」と告げてくれた。これも「館内での携帯はご遠慮ください」と否定系で伝えてもよかった。私の非を告げることなく、あるべき姿を告げられ、私は電話をしながら「そうだ、ここは携帯は禁止だ」と自分の過ちを知ったことがある。

私はホテルの接客の行き届いた文言を回想しながら、「ほおー、阿弥陀さんと同じことをするか」と思った。阿弥陀如来も私は凡夫であることの罪を告げずに、私に無条件の救いを告げられた。救いを告げられた私は、聴聞というお育てを頂きながら「救われなければならない罪悪性」に気付いていく。

その後、ホテルの売店で品定めをしていると年配の方がこられて「何か欲しいものはないかな」と独り言を言われている。この言葉まわしは現代日本の消費者を象徴していると思った。通常買い物は欲しい物があるから買うのです。しかし欲しいと思うものはないかと見て回る。政府も民衆が購買意欲をそそるような製品を作れと指導している結果だと思う。ここ100年間、貧しさが欲望のブレーキになったことはあるが、欲望にブレーキをかけることのない消費文化が続いてきた。内需拡大も分からないではないが、果てしない欲望をどう考えていくのか。これは政治家ではなく仏教者が語っていかなければならない問題だろう。
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善悪二元論の危うさ

2009年10月28日 | 日記
鳩山さんの国会の演説報道を聞いていて、「自民党をぶっ壊す」と語った小泉元首相の言葉がなぜか思われた。破壊的カルト教団は、この世のあり様を善か悪かの二元論に落として、情報の遮断とマインドコントロールによって、絶対善を説くわが教えこそ唯一無二の教えであると洗脳する。

そのカルト教団の手法と「自民党をぶっ壊す」「官僚体質をぶっ壊す」など、善悪二元論に集約して演説する政治家の主張が同質のように思われる。これはマスコミ報道が常に正義に立場で善悪、良不とジャッジした報道を垂れ流すので、そうした思考パターンに私をはじめとする多くの国民が洗脳されてしまっているのかも知れない。


善悪二元論で語った方が明快だしはぎれもいい。ご門主の『愚の力』にも同様な指摘があります。

30項
最近のスピリチュアルブームや癒しブームには割り切れないことを割り切ったことにして思考停止するという危うさを感じることもあります。
 あなたにとりついた霊が悪いなどといって、悪者を仕立てあげ責任を全部押し付けるようなことをする、あるいは安易な癒しを救いとする。すぐに解答が得られるものに飛びつくのです。そうしたものがブームになるのは、私もふくめ既成の宗教界が不安の中にいる人々の要望にこたえていないということがありますが、やはり安易な解決策は危険です。(以上)

善悪で割り切っていく報道のあり方にも、「割り切れないことを割り切ったことにして思考停止するという危うさ」を感じます。本来、すべてが不完全なのだから、その不完全さを認め、それを指摘してより良い国をつくっていけばよい。これは不完全の勧めではなく、完全でなければならないと、自分を完全である側に置いているところに闇を感じるということです。それを鬼の首を取ったがごとく、不完全であると断罪するので、すべてが完全であるべきだという考え方に洗脳されていってしまう。

私のつたないブログも「愚の自覚」が考え方の基調にある。物事を完全であるべきだという絶対視をしないということであり、愚を認めていくところにより広やかな世界がある。小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」といった時に、その言葉の底にある偏執にすぐ気付くべきであったが。
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南無阿弥陀仏の美しさは機能美です

2009年10月27日 | 日記
昨日は、世話人のNさんに当寺の阿弥陀如来像の写真を撮って頂いた。来年『仏の姿―32のメッセージ』(仮称)出版に向けて、その本の表紙案としての撮影会でした。

わたしもデジカメでわが寺の阿弥陀さんを何度も撮影した。今年2月に『わが家の仏事・仏教―浄土真宗』(東方出版)を出版しましたが、その本の中にその阿弥陀如来は収まっています。

阿弥陀如来を正面から撮影した場合、同じ正面でも撮影する目線に違いによって、仏さまの表情がすごく変わります。正面の仏さまの眼の高さより少し上から撮影すると、すごく仏様が優しく感じられます。これは大きな発見でしたが、これが思想的にどういう意味を持つのかは、まだ思案していません。

通常の考えでは下から見上げたほうが、やさしく感じられてもいいと思うのですが。

プロの写真家でしたら光と影で、さまざまに表現するところでしょうが、表情に表現されている精神的な領域までとなると、名のあるプロでも難しいかもしれません。


「仏の姿は沈黙のなかにある。その沈黙を通して、“静寂の美”と、姿かたちがもっている“しなやかな美”そして仏の願いを表現した“機能美”が伝わってきます。経典や仏像はわたしのこころの映す鏡だともいわれています。いずれの美しさもわたしの心の底に流れている“まこと”に触れさせる力をもっているようです。」

これは「仏の姿」(出版予定)の頭の部分です。南無阿弥陀仏は機能美の美しさがあります。
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