『孤独と居場所の社会学~なんでもない〝わたし″で生きるには』(2022/10/21・阿比留 久美著)からの転載です。
もともと居場所という言葉は「居るところ」「居どころ」という意味をもつだけで、特にそれ以上の意味合いはありませんでした。ですが、現在では「ありのままの自分でいられる場所」とか「ほっとできる場所」といったイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。
そのようなイメージをもたれるようになったきっかけとして、1980年代、不登校の子どもが昼間に行くことのできる場所としてフリースクール・フリースペースが登場し、その活動の中で居場所という言葉が使われるようになって広まっていった経緯があります。
学校に行っていない不登校の子どもにとって、昼間に安心していることのできる場所はほとんどありませんでした。フリースクール・フリースペースは、そんな不登校の子どもたちの「居場所のなさ」に対応して、安心してありのままの自分でいられる場所としてつくられました。それは、まさに居場所としか表現できないものだったといえます。
その後、居場所という言葉は、様々な人たちを対象とした、様々な種類の場所について、多様な文脈で用いられるようになっていきました。その背景としては、社会が流動化する中で、わたしたちの所属する場や、他者との関係性が変わり、「個々人が自分のアイデンティティをどのように保っていけばいいのか」「どこでアイデンティティの承認を得ていけばいいのか」ということについての揺らぎが生まれたことがあげられます。そのため、「アイデンティティや承認を磑認できる居場所」に対する関心が高まってきたのでしょう。
現在、わたしたちは新自由主義社会の中で、自分の好きなように生きる自由が保障される一方で、その自分の選択の結果を一身に引き受けなければならないという、自己責任化した社会の中を生きています。
そのように自分で自分の身を成り立たせていく生き方というのは、孤立した生き方にもつながっていきます。それは、自由でありながらも孤独で、よりどころや居場所を感じづらいものです。
そういった孤立化・自己責任化した社会の在り方に対して、居場所という言葉は、孤独や不安にさいなまれることなく居場所を実感しながら生きていきたいという人びとの思いを反映し、「このような社会の在り方はおかしいのではないのか」というアンチテーゼとしても存在しているのではないかと考えられます。(つづく)