仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

『宗教を「信じる」とはどういうことか』②

2024年08月24日 | 日記
『宗教を「信じる」とはどういうことか』(ちくまプリマー新書・2022/11/10・石川明人著)からの転載です。


 よくわからない「信仰」という言葉
 これまで宗教学者たちは、こうした傾向をどのように理解すべきか、さまざまに議論してきました。ある宗教学者は、日常的に心から信じているわけではないけれどもゆるやかな情緒や関心から伝統的宗教と関わり続けることを、「信仰のない宗教」と表現しました。また別の宗教学者は、特定の示教団体には所属しないけれども広い意味での宗教的関心はあるといった状態のことを指して「所属なき信仰」と呼びました。また逆に、厳密な意味での信仰すれも「信じる」という言葉で代替することが可能な場合が多いと思われます。しかし、「信じる」の方は、必ずしもそれらと置き換えられるとは限りません。日本語の「信じる」という動詞は、わりと多様な使われ方をするからです。
 例えば、「遭難者の無事を信じる」「チームの勝利を信じる」「正しい判決が下されると信じる」のように、「信じる」という動詞は何らかの意味での「願望」を語る際にも使われます。また、「宝くじで三億円か当だったなんて信じられない!」とか、「そんなひどいことを言うなんて信じられないー」のように、感情表現に「信じられない」という言葉が使われることもあります。これらの場合の「信じる・信じない」は、「信用する・しない」「信頼する・しない」などと置き換えることはできません。さらにまた、ヤクザの親分が子分たちを前にして、低い声で睨みをきかせながら「俺はお前らのことを信じているぞ」と言う場面などを想像してみましょう。この場合の「信じているぞ」は、立場が上の者が下の者に対して「俺の言うことに従え」というメッセージを威圧的に伝えるために使われています。こうした意味での「信じる」でしたら、人閃か神さまに対して言うのではなく、むしろ神さまが人間に対して言う方がしっくりくるかもしれません。
 このように、「信じる」という言葉は意外と広い意味を持ち、実際にはとても柔軟な使われ方をしているように観察されます。私は日本語学の専門家ではありませんので、この「信じる」という動詞について、あまり込み入った議論はできません。でも、このように、ざっと見ただけでも、「信じる」という言葉が意味しているものは、普段思っている以上に複雑といいますか、曖昧といいますか、はっきりと捉えることが難しいものなのではないかと思うのです。

正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは
 私が日本語の「信じる」という動詞の意味が難しいと感じるのは、このようにその言葉の用いられる文脈が多様であることに加えて、素朴に「そもそも正しいものについては信じる必要がないのではないか」とも思ってしまうからです。簡単に言いますと、次のような意味です。
 一般に、何かを「信じる」と言うときは、その対象や事柄を「正しい」と判断しているという意味で使われることも多いと思います。「私はAさんよりもBさんを信じる」と言う時は、すなわち「私はBさんの方が正しいと考えている」という意味になります。しかし、本当にどう考えても正しいものについては、それを「信じる」必要はないはずです。例えば、目の前で火が燃えていたら、「火が燃えている」と言えば十分で、わざわざ「火が燃えていると信じる」と言う人はいません。三角形の内角の和は二直角であるとか、平行する二直線は交わらないということも、それらは「正しい」ので、わざわざ「信じ」る必要はありません。明らかに正しいことは、信じなくていいのです。
 では、「正しいことは信じる必要がない」といたしますと、「私は神を信じる」のように、あえて「信じる」と囗に出すことは奇妙であるようにも思えます。本当に心から「神が存在する」と考えているのならば、わざわざ「信じる」と囗に出す必要がないからです。ひょっとしたら神などいないという可能性もあることを内心では認めていて、神の存在に十分な自信は持てないからこそ、「信じる」と口にしているのでしょうか。
 そういう場合もあるかもしねませんが、すべてがそうであるとも限りません。私たちはある事柄について、それが正しいことや真理であることを微塵も疑ってはいないけれども、客観的に証明するのは難しいことや、証明はできないけれども疑う必然性や理由が思いつかない事柄については、「信じる」と表現するしかないからです。私たちは、愛、正義、平和などを尊重することの理由を、いちいち背理的に説明することはしません。しかし、それにもかかわらず多くの人々がそれらの価値を自明だと考えているという状況は、つまりは「信じている」ということになるのではないでしょうか。宗教・信仰に関しても、客観的にはその真理性や妥当性を証明できない事柄ですから、やはり「信じる」という表現を用いるしかないのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コーダ」のぼくが見る世界③

2024年08月21日 | 日記
『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(五十嵐 大著/文)からの転載です。


「ふつうの家族ではない」という世間の眼差し

 世間一般の物差しで測ったとき、どうやらぼくの家族はふつうではないようだ。そんな事実に気がついたのは、小学生の頃たった。
 ぼくの祖父は元ヤクザで、気が短く、酒に酔うと手がつけられないほど暴れる人だった。そのパートナーだった祖母は穏やかな人ではあったものの、とある宗教に心酔し、人生のすべてを神様に捧げるかのように暮らしていた。
 そして両親はふたりとも耳が聴こえない、一般的には「聴覚障害者」と呼ばれる人たち。
 こんなちょっと変わった大人たちに囲まれて育つぼくには、いつからか偏見がぶつけられるようになっていった。
「大ちゃんも大変よね。でも頑張るんだよ」
「本当に可哀想に、なにかあったら相談してね」
「ふつうのおうちだったら良かったのにね」
 第三者からのそういった言葉はまるで善意の刃だ。こちらを心配してくれているのはわかるけれど、それ以上に傷をつけていく。
 たしかに、ぼくは自分の境遇が疎ましかったし、周囲から偏見をぶつけられることによる絶望感や孤独感に苛まれる瞬間も少なくなかった。あまりにも苦しくて、いますぐにでも助けてはしいと手を伸ばすのに、その手を掴んでくれる人はどこにもいなかった。口先では心配しても、みんなぼくら家族を遠巻きに見るだけで、実際に関わろうとはしない。まるでぼくらは見世物だった。「可哀想なもの」として、周囲の人たちの下世話な好奇心を満たすだけの存在だ。
 世の中には見過ごされる絶望や孤独が数多くある。そしてぼくは、たまたまそちら側に生まれついてしまった。それはもう、どうしようもない。仕方ないことなのだ。
 そんな風に考えて、ふつうの家族を持たない自分に折り合いをつけていくようになった。
 世の中には、聴こえない人たちのことを憐れんだり、腫れ物に触るように接したりする偏見、が根強く残っている。コーダはその視線を敏感に察知し、親以上に傷ついてしまうことだってある。(以上)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コーダ」のぼくが見る世界②

2024年08月20日 | 日記
『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(五十嵐 大著/文)からの転載です。

そしてもうひとつ、感動的な出来事があった。
先日、ぼくの手話を見たろう者から、こんなことを言われた。
〈五十嵐さんの手話って、お母さんの手話なんてすね〉
女言葉、男言葉と表現するのが正しいかどうかはわからないけれど、手話にも女性が使いがちなもの、男性が使いがちなものかあるらしい。また、指先を繊細に使っているかどうか、あるいは豪快な動きをしているかどうかによっても、印象が変わる。
 その人はぼくの手話を見たとき、やや女性的であることに気づいた。それはすなわら「母親の手話を見て育った」ということではないか。そう思ったという。
 それを指摘されたとき、目頭が熱くなった。
 これまで親のことを散々傷つけてきたし、手話を毛嫌いして遠ざけていた時期もあった。そんな自分が、意図せず、母の手話を受け継いでいたのだ。
 ぼくのなかに毋の手話が息づいているー。
 胸が一杯になっているぼくに、そのろう者は続けた。
 <五十嵐さんの手話を見ていると、お母さんに大切に育てられたんだなと思います。とても素敵ですね>(以上)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コーダ」のぼくが見る世界

2024年08月19日 | 日記
月に一度くらい、アマゾンで本を購入することがあります。あとは図書館です。下記の本は、図書館になく購入しました。『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(五十嵐 大著/文)、コーダとは「CODA」と書き、チャイルド・オブ・デフ・アダルト、耳の聞こえない親の子という意味です。
以下転載です。

ラベルがもたらす安堵感

「ラベリング」という言葉がある。これは特定の属性を持つ人物を類型化し、「あなたはOOだから」とそのラベルをもって仕分けてしまう行為を指す。ラベリングは「レッテルを貼る」とも言い換えられ、ここ最近は否定的な意味合いを持つ言葉として使われている。もちろん、それは当然だろう。人にはそれぞれにバックボーンがあり、考え方や価値観はグラデーションのようになっていて、同じ人なんて誰ひとり存在しない。共通する属性がめったからといって、雜に類型化するのは乱暴なことだ。
 ところが、それが固定的に作用する場面もあるようだ。さまざまな社会的マイノリティの方々とお話をすると、「自分の立ち位置に名前があることに安心した」という声を聞くことが少なくない。他者から貼られたラベルによる偏見を伴う類型化は当事者を傷つけることにつながる一方で、本人が自分自身にラベルを貼る行為は「居場所の発見」というプラスの意味をもたらすこともある。

それはコーダであるぼく白身が実際に体験し、強く感じたことでもあった。

 「コーダ」という言葉を知る前、半ば本気で「ぼくは孤独な人間なんだ」と思っていた。その感情が特に強く表れていたのは中学生から高校生の頃。いわゆる思春期だ。
 一般的に悩みが増える時期ではあるが、ぼくは輪をかけて悩んでばかりいた。その大半は、耳の聴こえない親に関することだ。たとえば、複雑な胸の内をうまく手話で伝えることができない。囗話や筆談を用いたとしても、それはまるで伝言ゲームのように歪曲して伝わってしまう。結果、本当に理解してもらいたいことが、一番身近にいるはずの両親に届かない。そのもどかしさが募り募って、やがては爆発する。
 「どうして聴こえないんだよ…」
 言っても仕方ないことを何度も囗にした。そうやって両親を傷つけては、同時に自分も傷ついた。彼らがぼくのことを大切に育ててくれていることは理解しているはずなのに、どうしても聴こえないという事実を呑み込むことができない。そんな自分に嫌気が差した。
 でも、その悩みを打ち明けられる相手はいなかった。それはなぜか。右を見ても左を見ても、どこの家庭の親も聴こえる人だったからだ。小学校・中学校の同級生でひとりだけ、聴こえない親を持つ女子生徒がいたものの、彼女はどうやら両親とうまくやっているように見えた。やはり、親の耳、が聴こえないことでこんなに悩み、苦しんでいるのは自分だけなのだ。そう思えば思うほど、ぼくが孤独な人間であることを強く突きつけられるようだった。

このように悩むコーダは決して珍しくない。2009年に出版された『コーダの世界』には次の一節がある。

ろう者や手話に関わらない生活をしているコーダの大半は、「コーダ」という言葉も知らず、そこに共有する体験や独特の文化があるという意識も持たないまま、自分と親との個人的な関係を生きている。ろう者や手話に関わっているコーダの場合でも、それぞれの地域ではあまりコーダと出会う機会がなく、さまざまな折に「自分はほかとは違う」ということを感じている。だから、聞こえない親を持つ聞こえる人と出会い、話をするようになると、相手の経験のなかに自分と似たような点を見つけ、急速に親近感を持つのだろう。

著者の渋谷智子さんが指摘する通り、思春期の頃のぼくは、自分に誰かと「共有する体験や独特の文化がある」だなんて思ってもみなかった。ぼくと両親との問で起きた出来事-つまり、聴こえない親との間に起きたすれ違いや衝突、あるいは理不尽にさらされる彼らを「守りたい」と切に願うこと、そして偏見という社会からの眼差しによる葛藤-そのすべてが極めて私的なもので、誰にも理解されないと思っていた。ゆえに、孤独感を募らせていたのだ。しかし、閉鎖空間にいるようだった人生が少しずつ開けていくのを感じたのは、コーダという言葉に出合ったことがきっかけ社会人向けの手話サークルで知り合った、ひとりの難聴者から「あなたはコーダなんだね」と言われたとき、生まれて初めて感じるような衝撃を受けた。自分のような生い立ちを持つ者を総称する言葉かおる。その事実は、たしかな安堵をもたらした。
名前が付けられるということは、同じ境遇にある人が一定数以上存在することを意味するだろう。つまり、ぼくはひとりではないということだ。
 そのとき、ぼくは自分自身にコーダというラベルを貼った。それにより、聴こえない親との間に起きた、誰にも理解されないと思っていたごく私的な体験が、他者と共有できる体験に昇華されていったのだ。(以上)

「煩悩具足の凡夫」と自身の存在が指摘されることと、近い感覚があります。それは煩悩具足の凡夫にたったときに見える世界があるということでもあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本全国ゴミ清掃員とゴミのちょっといい話③

2024年08月17日 | 日記
『日本全国ゴミ清掃員とゴミのちょっといい話』(滝沢秀一著)からの転載です。

徳島県上勝町は、65歳以上の大が50%以上を占める人口約1500人の町である。このデータだけを客観的に見れば、決して元気があるようには思えない自治体だが、とても活気がある。
 ここの自治体もまた右ページで挙げた問題点を抱えた町たった。予算がない。これは地方の自治体の永遠のテーマである。お金がないので、焼却炉を建てられないから、どこかでお金を工面して焼却炉を建てよう、と考えないで、焼却炉なしでどうやってゴミを処理していこうかということを考え、全国で最も早く「ゼロウェイスト宣言」をした自治体である。
 具体的には、燃やさなければならないゴミを極端に減らし、おむつやゴム、塩化ビニルなど以外は全て資源として考え、13品目45種類のゴミ分別をしている。この分別の数はもちろん日本で一番分別の種類が多い。
 ここ上勝町は、清掃車も走っていない。つまりみんなが目にするような集積所という概念がない。上勝町にあるのはゼローウェイストセンター内のごみステーションのみで、町民は皆ここに資源を持ってくる。町民1500人全ての人が協力してこのリサイクルをしているので、リサイクル率は驚異の81%である。日本全国のリサイクル率が19%なのでそのすごさがおわかりいただけると思う。
そんでね、このリサイクルの数が話題になったので、日本全国はもとより、世界中から視察が来るようになった。人が来るのならば、ホテルを作ろうとなったのだから、これは立派なゴミビジネスなのではないのかなと僕は思う。僕もいつか泊まりに行ってみたい。
 僕は他書ではあるが、ゴミと収入は関連性があるという仮説を立てたことがある。僕はいろいろな場所にゴミを回収に行くが、お金持ちの地域ほどゴミが少ないということを以前から繰り返し言っている。詳しい話はそちらの本を読んでいただきたいが、簡単に言うと、ゴミに配慮している者にお金が集まってくるということは自治体にも言えるんじゃないか説。確かに生活の末端、最後の最後まで考えたくないゴミにここまで配慮しているということは、さまざまなことに気がつくということだと僕は思う。
 ここ上勝町で、ゴミ分別以外に有名なのは葉っぱビジネスである。これは何かというと、上勝町にあっても全く価値はないが高級料亭に行ったら価値が出るものをお金に変えている。それは何かといったら形のよい葉っぱである。葉っぱをお金に変えるってすごくない? たまたまでしよ? いやいや、実は近年、多くの実業家がこの土地に移ってきて、上勝町で事業を展開しようとしている。その事業の数、20種類以上。
 ゴミをなくすとお金が入ってくるかもって言ったら大袈裟かな?‥ いや、僕はそう確信している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする