芸術家の故岡本太郎さんの誕生日が(2011)2月26日であったことから100歳の誕生日を祝うイベントが盛んです。
岡本太郎は、漫画家の岡本一平、歌人で作家のかの子との間に長男として生まれたことは昭和時代を生きた人には知られています。
私は昭和29年生まれなので、かの子さんの書物は仏教関連の本を通して、一平さんは、大正年間にアインシュタイン博士が日本に滞在した折、一平さんが毎日、博士に遂行して、その記録を新聞に掲載していた。以前、博士の日本滞在での一部始終を調べる機会があり、その折に、マンガと随行記録を読んだだけなので、昭和30年代以後の人は、あまり縁のない人が多いのではないかと思います。
拙著『緑陰ポケット詩篇 光 風のごとく』(探究社)にかの子さんの詩を2遍掲載しています。
年々にわが悲みは深くしていよよ華やぐいのちなりけり
[岡本かの子(おかもと かのこ)]『かの子の記』(岡本一平著・近代作家研究叢書)より。
[一八八九~一九三九]小説家・歌人。東京の生まれ。漫画家岡本一平と結婚。仏教研究家。歌集『かろきねたみ』、小説『鶴は病みき』『母子叙情』『老妓抄』『河明り』『生々流転』ほか。
〝悲しみが深くて華やぐ〟宗教的心境に接した人でないと理解しにくい歌かも知れない。この思いは、教えに接する者のおごりかも知れない。しかし、そのおごりさえも包んでくれる豊かさがこの歌から響いてくる。
この歌と対峙していると、経験の「経」の文字は「タテイト」という意味であると聞くが、まさに経験とは長さではなく、深さ(タテ)だということに思いが至る。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ったものなのだろう。
梅の樹に梅の花咲くことはりをまことに知るはたやすからず
[岡本かの子]『光をたずねて』(潮文社刊)より。
〝健康であたりまえ、幸せであたりまえ、あってあたりまえ〟と、物ごとがあたりまえになったとき、その本来が持っている色彩は色あせてくる。かといって、不思議を観る眼差しもなく、あたりまえのなかに埋没し損得に始終している。そんな私が、阿弥陀さまの願いの起こった理由であると聞かされると、あたりまえに埋もれている私にも値打ちのあることに気づかされる。
岡本太郎は、漫画家の岡本一平、歌人で作家のかの子との間に長男として生まれたことは昭和時代を生きた人には知られています。
私は昭和29年生まれなので、かの子さんの書物は仏教関連の本を通して、一平さんは、大正年間にアインシュタイン博士が日本に滞在した折、一平さんが毎日、博士に遂行して、その記録を新聞に掲載していた。以前、博士の日本滞在での一部始終を調べる機会があり、その折に、マンガと随行記録を読んだだけなので、昭和30年代以後の人は、あまり縁のない人が多いのではないかと思います。
拙著『緑陰ポケット詩篇 光 風のごとく』(探究社)にかの子さんの詩を2遍掲載しています。
年々にわが悲みは深くしていよよ華やぐいのちなりけり
[岡本かの子(おかもと かのこ)]『かの子の記』(岡本一平著・近代作家研究叢書)より。
[一八八九~一九三九]小説家・歌人。東京の生まれ。漫画家岡本一平と結婚。仏教研究家。歌集『かろきねたみ』、小説『鶴は病みき』『母子叙情』『老妓抄』『河明り』『生々流転』ほか。
〝悲しみが深くて華やぐ〟宗教的心境に接した人でないと理解しにくい歌かも知れない。この思いは、教えに接する者のおごりかも知れない。しかし、そのおごりさえも包んでくれる豊かさがこの歌から響いてくる。
この歌と対峙していると、経験の「経」の文字は「タテイト」という意味であると聞くが、まさに経験とは長さではなく、深さ(タテ)だということに思いが至る。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ったものなのだろう。
梅の樹に梅の花咲くことはりをまことに知るはたやすからず
[岡本かの子]『光をたずねて』(潮文社刊)より。
〝健康であたりまえ、幸せであたりまえ、あってあたりまえ〟と、物ごとがあたりまえになったとき、その本来が持っている色彩は色あせてくる。かといって、不思議を観る眼差しもなく、あたりまえのなかに埋没し損得に始終している。そんな私が、阿弥陀さまの願いの起こった理由であると聞かされると、あたりまえに埋もれている私にも値打ちのあることに気づかされる。