仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

岡本太郎の母 かの子

2011年02月28日 | 日記
芸術家の故岡本太郎さんの誕生日が(2011)2月26日であったことから100歳の誕生日を祝うイベントが盛んです。

岡本太郎は、漫画家の岡本一平、歌人で作家のかの子との間に長男として生まれたことは昭和時代を生きた人には知られています。

私は昭和29年生まれなので、かの子さんの書物は仏教関連の本を通して、一平さんは、大正年間にアインシュタイン博士が日本に滞在した折、一平さんが毎日、博士に遂行して、その記録を新聞に掲載していた。以前、博士の日本滞在での一部始終を調べる機会があり、その折に、マンガと随行記録を読んだだけなので、昭和30年代以後の人は、あまり縁のない人が多いのではないかと思います。

拙著『緑陰ポケット詩篇 光 風のごとく』(探究社)にかの子さんの詩を2遍掲載しています。

年々にわが悲みは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

[岡本かの子(おかもと かのこ)]『かの子の記』(岡本一平著・近代作家研究叢書)より。

[一八八九~一九三九]小説家・歌人。東京の生まれ。漫画家岡本一平と結婚。仏教研究家。歌集『かろきねたみ』、小説『鶴は病みき』『母子叙情』『老妓抄』『河明り』『生々流転』ほか。

〝悲しみが深くて華やぐ〟宗教的心境に接した人でないと理解しにくい歌かも知れない。この思いは、教えに接する者のおごりかも知れない。しかし、そのおごりさえも包んでくれる豊かさがこの歌から響いてくる。
この歌と対峙していると、経験の「経」の文字は「タテイト」という意味であると聞くが、まさに経験とは長さではなく、深さ(タテ)だということに思いが至る。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ったものなのだろう。

梅の樹に梅の花咲くことはりをまことに知るはたやすからず

[岡本かの子]『光をたずねて』(潮文社刊)より。

〝健康であたりまえ、幸せであたりまえ、あってあたりまえ〟と、物ごとがあたりまえになったとき、その本来が持っている色彩は色あせてくる。かといって、不思議を観る眼差しもなく、あたりまえのなかに埋没し損得に始終している。そんな私が、阿弥陀さまの願いの起こった理由であると聞かされると、あたりまえに埋もれている私にも値打ちのあることに気づかされる。
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雛人形の左右

2011年02月27日 | セレモニー
家庭へ出勤すると、雛段を飾ってある家庭に出会うこともあります。雛人形は向かって左に男雛、右がわに女雛が鎮座まします。

以前このブログで、別冊国文学60号「左右/みぎひだり」所収の榎村寛之さんの論文「宗教に見る右左(みぎひだり)」を紹介して、左をマイナスとする意識は、奈良・平安時代には定着していたが、左大臣や、神仏の序列において左を優先する考え方、たとえば奈良の薬師金堂の本尊の脇侍である日光(左脇侍)・月光菩薩(右脇侍)、右、(左と言っても本尊を主体としている)など左の右への優先は、東の西への優先という意識と関係があることを紹介しました。

過般、何かの本で「ひな人形の飾り方まで大混乱」という記述に接しました。

明治になって、天皇家が英国風を採り入れ、家庭で天皇・皇后の写真を飾る風習が生じた。
 その折、当時の英国ではビクトリア女帝の時代で、向かって男性は右に、女性は左に立つものとされていた、それに日本の皇室も倣った。

日本では古来、雛人形は向かって左に男雛、右がに女雛と決まっていたが、これに混乱が生じ、進歩的な人が天皇家に倣って、男雛を向かって右に、女雛を左に飾ることを奨めたため、両説双方から異議が出た。

天皇が向かって右、皇后が左という位置関係は、大正時代、当時もそうで、昭和天皇も皇太子時代、御成婚時の写真も同様であったそうです。
 しかし、昭和天皇が即位され、天皇になられたときには、天皇が向かって左、皇后が右と変わったのだとのことです。

右か左か、どちらが上位かの問題は、仏教では向こう側に祭られている仏さまを中心に考えるので、ややこうしい問題です。
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西郷隆盛と念仏

2011年02月26日 | 日記
さて西郷隆盛と念仏の話しです。先の重助との一幕です。

西郷隆盛の従者に重助という者いた。彼はいつの頃よりか念仏の信者となっていた。いつも念仏を称えていた。しかし薩摩の国は、長らく念仏は禁止されてきた。

西郷はある日、重助に向かい
「重助、日頃お前が口の中でぶつぶつ言っているのは何か」
重助はぎくりとして、口ごもった。
「いや、何でもございません。私の癖でございます」
「何でもないことはなかろう。おそらくは念仏であろう。ありていに白状せよ」
重助も、今はかくすにすべなく、
「仰せの涌りにこざいます」                     
と言ってため息をついた。

「重助、この薩州は、念仏禁制の国であることは、よく承知のことであろうのう」
「存じて居ります」
「事、露見すれば、お前が打首になるは勿論、主人のおれまで罰を受けねばならぬ。以後、念仏など、申す事、相成らぬぞ」
重助も今は止むなく
「心得ました。以後はきっと慎しみます」
と云わねばならなかった。

しかし、申してならぬと思うほど、心に浮ぶのは本願の尊さ。
「ナム………。」と、又しても重助のロをついて流れ出る念仏であった。

それが西郷感づかれない筈になかった。
「重助ッ、この間、あれほど厳しく申渡してあるに、そなたはまだ止める気はないか」
「恐れ入りました、以後、心得ます」
そう誓う言葉の下からも、思いだされうのは、この浅ましき悪人を助けたもう阿弥陀仏の本願です。またいつの間には念仏が口をついてでる。

西郷もあたかも自分が重助からからかわれているような感じをもったので、ある日、言葉鋭く、
「この間からソチの振る舞い、この西郷も肚に据えかねた。念仏を止めぬ限り、何時かわ、露見してお上の成敗を受けねばならぬ身のうえ、情をもってこの俺が成敗を致してやる。それとも、そちが念仏さえ止めてくれれば無用な殺生もせずにすむ。たたその口癖の念仏を申さぬこと。話しは至極簡単ではないか。それもとわしの命に逆らって成敗の刃を受けるか。二つに一つじゃ。返答せよ」
「旦那様、誠に申しわけございません」
「いや、申しわけないではすまされぬ。覚悟せよ」という。重助もやむなく「それでは、今晩一晩、考えさせていただきます」
「よし、それでは明朝までに、念仏を絶対申さぬか、それとも成敗の刃を受けるか、きっぱりの返答せよ」

 荒々しく云い渡して奥に入って行く主人の姿を見て、重助もホロリの涙ぐむ。
 「他の事では、やさしい主人も、このことだけには、どうして厳しいのであろうか、こちらの身になれば、他の事ならどんなにつらいことでも我慢は成るが、このことばかりは請負われぬ………」
 一夜まんじりともせずに考えた重助は、翌日、西郷の前に呼び出され

 「重助、覚悟のほどはどうじゃ」といわれ
 「ハイ、覚悟致しました」
 「それではい念仏はやめるか」
 「いぇ、止められませぬ。命の方を差し出します」
 西郷も驚いた。
 「フム、そうか、それではやむをえぬ。成敗してやる、そこへなおれ」
とござの上にすわらされ、後に回って太刀の鞘を吹き払った。重助も覚悟の上とて、悪びれる様子もなく合掌して瞑目した。
と、突然、重助は手をつかえ
  「檀部様、いまわの際にお願いがございます。私に十分間程、腹一杯の念仏を称えさせて下さいませ」
  「許す」

 重助は、誰はばかることなく声の限りに念仏した。あと一瞬にして浄土と思えば歓喜の念は、いよいよ高潮してくる。涙ながらな
「もう思い残すこともございません、どうぞ存念にお仕置き下さいませ。ナム………。」
その覚悟の様子を打ち眺めていた西郷は、太刀をピタリと鞘におさめ、
 「さてさて重助、そちは偉いやつじゃ。富貴をもって淫すべからず。威武をもって屈すべからず、これをこれ大丈夫というと、聖賢の言葉にもあるが、うらやまきは、そちのその覚悟。それにしても合点がいかぬのは、命に代えても念仏がとめられぬとは、どういうわけであろうか」

「旦那様、それは訳がございます。この重助の念仏には、申させ手かおるのでございます。」
「ふむ、念仏に申させて手があるとは、いよいよ合点がゆかぬ」
「申さぬ方には合点がゆきますまいが、申す私にとりましては、申させる仏がついておいででございます。ひとたび本願のことわりを聴聞し、お慈悲のほどが心にしみてまいりましてからは、なにか申さずにはいられぬこころになるのでございます。それで旦那さまの仰せにたびたびそむきまして申し訳ござりませぬが、私の計らいごとではどうしてもとまらぬのでございます」

ぽつりぽつりと語り出す重助の覚悟を聴き
「ああ、これこそ志を立てる大丈夫の心得ねばならぬ教えである」
と感嘆した西郷は、それより念仏の道を深く景仰するようになった。

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西郷さん②

2011年02月25日 | 日記
昨日の、西郷隆盛に関わる話です。西郷さんは、明治九年の鹿児島における真宗念仏解禁に積極的な役割を果たしたことから、故西本宗助先生などは、西郷さんは念仏の徒ではなかったかと、どこかの本に書かれていました。

西郷さんが念仏に好意的であったことを裏打ちする逸話があります。重助の会話です。この重助さんが、昨日の清水寺に墓がある大槻重助と同一人物かどうか、定かではありません。

もしかしたら大槻重助は、「丹波国何鹿郡綾部村字高津の人なり」とあり綾部市高津町の人で、隣の中筋町に教願寺という本願寺派の寺院があるので、その門徒であったのかもしれません。(続く)



おまけ、拙著『光 風のごとく』より

非凡なる人のごとくにふるまへる
後(のち)のさびしさは
何(なに)にかたぐへむ

[石川啄木]『われを愛する歌』(啄木歌集)

[一八八六~一九一二]歌人・詩人。岩手の生まれ。口語体3行書きの形式で生活を短歌に詠む。評論「時代閉塞の現状」、歌集「一握の砂」「悲しき玩具」ほか。

小さなカラを大きく見せて生きる。そんなとき、ふと虚しさがよぎる。この虚しさは虚実を歩んでいることへの虚しさなのだろう。
かといって小さい自分を小さいままに受け取り歩むこともできそうにない。右か左か、左か右か。思いを重ねる姿の中に〝非凡なる人のごとくふるまえる〟自分が見えてくる。
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清水寺の茶屋

2011年02月24日 | 日記
鹿児島の続きで西郷隆盛にまつわる話です。

20歳のころ京都にいた。そして毎月第3日曜日(?)は、清水寺へ当時管長であった104歳になる大西良慶師の講話会へ顔を出していた。毎月、乃木大将の葬儀へ出勤した話など、ユーモアを交えての話しに聞き入っていた。

そして帰りにたまにではあるが、清水寺の境内にある茶屋でうどんを食べて帰った。境内で茶屋営業が許可されている店は「舌切茶屋」と、その西にある「忠僕茶屋」です。両店とも、店の名前に由来と逸話がある。

「忠僕茶屋」は、清水寺の月照(成就院の第24世住職)の下僕・大槻重助(-1893)が開設した店です。重助は、幼少の頃より月照に仕えた。月照は、文化10年 (1813) に生まれ14歳の時に成就院に弟子入りし、 天保6年 (1835) に住職の座に就いた。 その後、 弟の信海に住職の座を譲り、 自らは幕末期の尊王攘夷運動にかかわります。

安政5年 (1858) の 「安政の大獄」 で幕府側からにらまれる存在となった月照は、 身を守るため京都を離れて薩摩藩へ下る。そのとき重助も伴をします。

苦労の末にたどり着いた薩摩藩であったが、受け入れ拒否にあい、月照は、 西郷隆盛と一緒に錦江湾で入水自殺を図ります、重助らが二人を懸命に救い上げ、近くの民家にかつぎ込んで介抱しますが、西郷はたすかりますが月照は死去します。今でも 清水寺では毎年、 月照の命日の11月16日に 「落葉忌」 法要を営んでいると聞きます。

清水寺境内で重助が茶屋を営み始めたのは、 月照入水事件後、 幕府側に捕らえられ、 京都で約半年間の獄中生活を送ったあと、月照を慕う気持ちから」同寺境内にあった茶屋 「笹屋」 を買い取り、 店を営みながら月照の墓を守り続けたといいます。

 その後、重助は、 西郷隆盛らの援助を受けて茶屋を改装。 同寺から茶屋の営業権を保証され、 屋号は 「忠僕茶屋」 と改めて今日に至ったお店です。重助の子孫が営業しているそうです。


その重助の墓所は 「清水の舞台」 の南に位置する 「子安の塔」 横の道を下った所にある墓地。
そこには、 就院住職だった月照と信海、 そして清水寺貫主だった大西良慶の墓。 その東側に重助と妻・いさの自然石を使った墓石が立っている。

碑の正面には、西郷隆盛の弟で、 明治政府の海軍相や元帥、 元老も務めた西郷従道の揮毫(きごう)によって、「忠僕重助碑」 と文字が刻まれている。  
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