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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

川柳が語る生老病死

2021年07月31日 | 日記

『笑いの世紀 日本笑い学会の15年』 (日本笑い学会)は、本格的に多方面から笑いについて考察した本でした。話の種になりそうな下記の章から川柳のみ転載しておきます。

 

「現代川柳が語る人の生老病死」

隠岐和之(医師)

 

肥満

 

石油危機!使って下さい皮下脂肪(八方美人)

中年脂肪つき易くガクガクなり易し

順調にお金だけは減るダイエット(石井曜子)

内臓脂肪とはわたしのことかと布袋さん(隠岐)

 

生活習慣病

成人病成人式より先になり(坊ちゃん)

習慣病身から出たさびと責められる(隠岐)

昔ならみんな歩いた一万歩

 

病院

病院でハワイへ行くほど待たされる(平田寂光)

義歯に効きかつらに効かぬ保険料

風邪引いて卵酒飲む薬剤師(那須市泉﨑病院職員)

この中で効いているのはどの薬(岡田こっき)

診察の三日前から禁酒する(つと無)

 

健康食品・酒・たばこ

万病に効くというので止めました(長廣鴨平)

好物を食うな飲むなと鬼の医者

やめへんで酒こそわいのバイアグラ(中垣正文)

軽くならいいよと医者も左利き

 

老化

お若いと言われて若くないと知る(新藤征子)

若造りそれでも席を譲られる

共白髪誓った二人禿と染め

誰よりも先に雨知る禿げ頭

 

おばさんと何度も呼ばれ左右見る(オールドミス)

骨粗鬆症字を書くだけで骨が折れ(隠岐)

老いの旅三日出かけて五日寝る(橋口正信)

 

老人性痴呆症

 

立った訳座り直して考える(金丸国男)

わしは今何を探しているのやら(大山登美男)

ときめいて生きる心にボケはなし(金子満雄)

 

長寿

どう見ても命が余る預金帳

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誰一人取り残さない

2021年07月30日 | 現代の病理

「今回のオリンピックSTAFFが、過去の言動を蒸し返されて、辞任するという事案が数件ありました。これは、真宗ではどのように考えるのでしょうか?」という質問がありました。

 

質問にはいくつかの問題点があります。まずは「真宗ではどう考えるか」という質問自体を、まずは問題にする必要があります。ここでいう「真宗」とは、どのような考え方を言うのかということです。

 

それと「過去の言動を蒸し返されて、辞任するという事案」をどう考えるかにも、いくつか問題点があります。一つは個人的に発言者の言動、および辞任をどう考えるかと、過去の言動によって辞任に追い込む社会をどう考えるかという点です。

 

このなかで一番の問題点は、辞任に追い込む社会をどう考えるかという点でしょう。現代社会は「犯罪の厳罰化」に傾向にあると言われています。犯罪を個人の罪に負わせ、厳罰化により罪びとを排除する傾向にあります。本来、犯罪責任は、個人と社会の双方に求められるべきものです。

 

「過去の言動を蒸し返されて」でいえば、過去の差別発言で笑いを取っていたという社会は、罰せられることなく個人の問題として、その個人を排除して、発言はなかったことにするという構図です。

 

最近、出席した会議で、話題のSDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)について話題にのぼることがありました。SDGsの「誰一人取り残さない」という理念は、仏教本来の共生の考え方や、「十方衆生を救う」という阿弥陀仏の願いに立脚して行動すべきではないかという意見でした。

 

過去の言動を蒸し返されて、辞任した人が、本当に救われていくということは、どういうことなのか。また社会には、その事実に対してどう向き合うべきなのかが問われるべきでしょう。

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僧僕和上②

2021年07月29日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

僧僕和上②

 

 

 中の一人か「いや先生、有難かったといわれますが話はなかったんではないですか」と尋ね直したら「お前たちはどう聞いたか知らないけれども、私は今日ほどこたえたご縁はなかった。有難かった。身にしみた」と、いわれるものですから「先生、それは一体どういうことなのですか」と弟子がたずねてますと、「生死の苦海ほとりなし……というご和讃を私はよく存じております。

生死の苦海と聞いたら、もう後のご文が頭にうかんできます。よく知っていますし、今すぐにこのご文の解釈をせよといわれたら“生死”生き死にと書いて生まれて死ぬまでの人生々と味わうこともできる。生まれ死に生まれ死にする生死輪廻の姿を表わす言葉だとも解釈できる。その私たちの生まれては死に、生まれては死にをくり返して生きていく人生そのものが苦しみの海のようなものである。その苦しみの海にはほとりがないんだ。一つ苦しみがすんだらもうこれでがしまいということではなく私たちの人生というものは苦しみの海のようなものである。それもほとりのない苦しみの海のようなものである。どこへ逃げようが、どこに隠れようがこの娑婆の中にいて苦しみから逃げることができない。その苦しみをふまえて、どう私か生きるかということが本当に問題なのだ。

 私たちは何か苦しいことかあると、あちらの方に何かいいことがあるのではないか、こちらの方にいいことがあるのではないかとよそ見ばかりしている。

半分逃げ腰で日暮らししているが、生死の苦海にはほとりがない。どこへ逃げようが、どこに隠れようが、この人生を生きる限りどうしても苦しみというものから逃げることはできない。逃げるのでなしに、その苦しみにぶつかって、この人生をどう生きたらいいのかということになって、「弥陀弘誓のふね」が本当に必要になるのだ、力になるのだ。そのことを説いて下さったのか、親鸞聖人のこのご和讃のこころであります。

 私はこのご文をよく知っており解釈もこのようにできます。しかし、知っておりながら生死の苦海ほとりなしという逃げ場のない人生を逃げよう逃げようとしてきました。私の人生は本当の人生になっていなかったのです。

 『もういいかげんに自分の人生に腹をすえ、腰を下ろして、この人生にどう立ち向かうかということを本当に真剣に考えなければならんぞ』といいきって下さるこのご和讃の文を、私はどう読んでいただろうか。言葉は確かに知っており、解釈もできるが、その一言が胸にとどいておったかとなるとあやしげな自分の生活というものを考えてみたときに“生死の苦海ほとりなし……”といわれた、たったこの一言さえも、私の胸にとどいていなかったということを今日しみじみと知らされました。

 あの若いか坊さんは“生死の苦海ほとりなし”“生死の苦海ほとり左な”“生死の苦海ほとりなし“と、「わかりましたか、わかりましたか、生死の苦海にはほとりがないんですよ。もうそろそろよそ見ばかりせずに、逃げにかかるのはやめて、自分の人生に腹をすえ、この人生を生きぬくことを本当に考えなさいと」と、教えて下さったのです。

 弥陀弘誓の船、如来さまの願いというものがなければ生さていけないということが本当に受けとれていたかというと、私は受けとれててなかったようです。あの若いか坊さんが赤くなったり青くなったりして、くり返しくり返し“生死の苦海ほとりなし”“生死の苫海ほとりなし ”と、これでもか、これでもかと説いて下さったので、にぶい私でも本当にそうだそうだと受けとることかできました。今までわかったつもりでいろんな話をし、又聞いていましたが“生死の苦海ほとりなし”のこのたった一言すら、よくわかっていなかったということに、今日気づかしてもらって、帰ってくるなり、早速気になるご文を頂いていたのです。今日のご緑は本当に有難いご緑でありました。といわれたそうであります。

 この僧僕和上の言葉を聞いて弟子たちは恥ずかしくなりました。聞いた聞いたといいながらにお互いは何を聞いてきたのだろう。今日の話は長かった、短かった、うまかった、へただった、面白かった、悲しかったと話の表面だけ聞いで、いつのまにやら仏法聞いたつもりになっていたのではないか。

 ご和讃一つがまともにいえないような者がご法義を衰えさせるというが、考えてみると聞いた聞いたといいなから話の表面だけを聞いて、聞いたつもりになっていたお互いがご法義を疎かにし、ご法義を衰えさせる原因を作っていたと、弟子たちは非常に恥じいったということであります。(以上)

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僧樸和上①

2021年07月28日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

僧僕和上①

 

江戸時代の方でありますけれども、僧樸という和上さんがおられた。僧僕                             和上は当時の新門様の教育係をしておられた。今のように交通の便利か良くありませんから毎日通うということでなしに、月のうち何日か、ご本山の前に宿をとって新門様にお勉強を教えておられました。

 いつも若いか弟子を二、三人巡れては上山し、宿をとっておられました。いつものように新門様のお勉強をしてあがられたときに、たまたま本願寺の前の「常楽台」というお寺でご法座が開かれるという貼り紙を見られました。

 和上は、「こうしてご本山に出て来ておりながらご法座があることを知って、このままご縁に会わないということはない。せっかくのいい機会だからご縁に会おうではないか」と弟子たちをさそってお参りされたのであります。昼は勿論新門様とのにお勉強がありますので夜分にお参りされたわけですが、何やかやと用をすませてお参りされたものですからもう勤行はすんでいました。ご法座に遅刻されたわけです。

 昔のことですから一流といわれる布教使さんには必ず随行といいまして、若いお坊さんがついておったのです。そして、その布教使さんの前に時間を頂いて前席を勤め、布教の勉強をしていたわけです。

 丁度僧僕和上が本堂に入られると、前座を勤めるか坊さんが「高座」に上ろうとしたところでした。すなわち、これから「高座」に上ろうとしたときに丁度僧僕和上が本堂に入られたのです。

 慣れていない時には相当に緊張するものです。その若いか坊さんも相当に緊張しておって、「高座」に上ろうとした時に、僧樸和上とは知らなかったでしょうけれども、立派なお坊さんが若いお坊さんを連れて入って来られたのです。

 丁度「高座」に上ったときに入ってこられたものですから 非常に緊張した。

 

  ご讃題に

生死の苦海ほとりなし

ひさしくしづめるわれらをば

弥陀弘讐のふねのみぞ

のせて必ずわたしける(高僧和讃)

 

という親鷽聖人のお作りくださったご和讃を頂こうとなさったのです。昔のことですから多少「節」もついていたことでしょう。「生死の苫海ほとりなし……」と「節」をつけてご讃題を頂かれたわけです。非常に緊張していた割には、ご讃題をあげだすと思ったよりも滑らかに声が出ました。緊張して固くなっていたのに声を出してみると案外とスウッと出たのです。

  「生死の苦海ほとりなし……」と緊張していてホッと息をついたものですから、後のご文を度忘れしてしまったのです。それでどうしたのかといいますと、途中からではどうしても思い出せないので、もう一度やり直したわけです。初めからいい直して「生死の苦海ほとりなし……」と今度は息を切らないように伸ばしたのですが、度忘れした言葉は出て来ません。「こんはずはない、これは緊張しているからだ。おちつけ、がちつけ」と、若いか坊さんは胸の中でいい聞かせたと思うのです。そこで、また始めから「生死の苦海ほとりなし……」といい直してみるけれども忘れたものが思い出せません。あせればあせるほど何が何だかわからなくなります。若いか坊さんは何べんも何べんも大きな声でいったり、小さな声でいったり「生死の苦海ほとりなし……」「生死の苦海ほとりなし……」とくり返したのです。

 そうこうするうちに「高座」の上に坐ってうる方も苦しいけれども、聞いているお同行の方もシンドクなったというのです。何やら顔を見ているのが気の毒になり、みんな顔をみないように下を見てしまったのです。早いところ何とか思い出してくださればいいのにと下を見ていたのでしょう。何度も何度も「生死の苦海ほとりなし……」「生死の苫海ほとりなし……」とくり返されているうちに声がしなくなりました。どうしたんだろうかと一人、二人と顔を上げてみたところが、「高座」の上に座っていたはずのお坊さんがいなくなっているのです。ご讃題を途中でほかっておいてお話しするわけにもいかないし、とうとういたたまれなくなって「高座」から下りてしまったのでしょう。

後で出て来られた布教使の方が「若い時には二度、三度とあのような失敗をするものです。沢山の方々がお参りくださったのでついつい緊張して、いいお話しをしなければと力みすぎ、あんなことになってしまいましたが、あんな失敗をくり返しながらお取り次ぎできるようになるのです」とことわられて、話に入られたのです。誰も責める気はありませんから、みんな喜んでお話を間いたのです。

 ご法座が終り、それはそれなりにみんな感激して帰りました。

 僧樸和上も弟子を連れて宿に戻って参りました。宿に戻ると僧樸和上は自分の部屋にこもられ、ついて行った弟子達は隣の部屋で火鉢を囲んで「今日のご法話                            

は有難かったね。あのように話してもらうとワシらのようなものでもよくわる。ああいうふうに表現してもらうと胸にシーンとくる」と、喜んでいましたが、、中の一人が「そうはいうものの後から話した方の話は確かに有難かったけれども、前に話した若いか坊さんの話をみんなはどう思うか」と問いかけますと、みんなが「あれはケシカラン。大体袈裟、衣をつけて『高座』に上る者がお同行の人でも覚えているようなご和讃を忘れてしまうとは実にケシカラン。大体ああいうが坊さんか出て来たということ自体、ご法義が衰えた証拠だ」。今まで喜んでいたと思ったら今度はみんなでクサしはじめたのです。「自分達は衣をつけて後に坐っているだけで恥ずかしくて恥ずかしくておれなかった」ああでもない、こうでもないとクサし出したら、みんな褒めるよりもクサす方が上手ですから、かなり長い時間クサしていたようです。

 その内に中の一人が隣の部屋にいる和上に声をかけました。「先生、まだ起きておられますか」というと「起きているよ」「先生は今日のご法座をどう思われますか」と、声をかけると、しばらくして和上が部屋に入って来られ、輪に入られました。

 すると一人が「先生は新門様にみ教えを教えられるようお立場にありますが、そのような先生から見て、あのように「高座」に上って和讃一ついえないようなか坊さんが出て来たということをどう思われますか。」と尋ねますと、和上は「今日のご法座は有難かったね」といわれたのです。さっきからみんながさんざん悪口をいっていたものですから、たしなめられたのかなと思い「先生、確かに後の方のか話は有難かったのですが、先に話して下さった若いか坊さんをどう思われますか。話といえるような話はたかったのですが、あれを一体どう思われますか」と聞くと、和上は「後の方のか話も有難かったか、先にお話下さった方のお話も有難かったね」といわれるのです。(つづく)

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福沢諭吉と七里恒順

2021年07月27日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

福沢諭吉と七里恒順

 この念仏の生涯をおくられた高憎が福沢諭吉の無二の親友にいたのである。彼の伝記ではほとんど問題にしていないが、浄土真宗の人であればほとんど知らない人のない七里恒順師であった。七里恒順師も同じように中津の月珠和上の門人である。福沢諭吉は、一八三五年、天保五年の出生であるが、十二才から十四才までは月珠和上の恵日閣で学んでいる。また彼は明治三十四年、一九〇一年六十六才で入寂されている。しかるに七里恒順師は天保六年の出生で明治三十三年に入寂されている。まったく同時代である。恒順師の修学時代は十四才から三十才までといわれるが、彼は越後の出身であり、月珠和上に師事したのは二十才の年齢であったので、福沢諭吉は五、六年以前に入門し、先輩ともいわれる。それゆえ、月珠師のところでは論吉の方が先輩であり、直接恒順師に会う機会はなかったようである。

 元治元年、一八六四年五月福沢諭吉は欧米から帰り、七里恒順師と大論争をしていることは『梅霖閑談』に出ている。両者とも三十才ごろで、学問的にも充実した年齢である。この出会い以後、両者は親しくなり、七里恒順師は福沢諭吉を「諭」といい、また福沢諭吉は七里恒順師を「恒」と呼びすての名でいう仲であったといわれる。福沢諭吉の生涯でもっとも尊敬した高僧は七里恒順師であった。しかも共に月珠和上という近世にないほどの真宗学者の教えをうけているところに共感するものが多かったのであろう。

 福沢諭吉の伝記をみると、母親お順はあまり仏教には関心のない人であったようである。しかし父百助は実家の正面にある妙蓮寺の門徒であり、浄土真宗の家に生れているのである。

 当時、中津市を中心に本願寺の学事史の中でももっとも優秀な真宗学者が数名も出ているのである。特に福沢諭吉の直接師事した月珠和上の師、道隠師も近隣の長久寺に大阪から帰って住持したのである。さらに真宗教学において、特に行信の大成者ともいわれる空華学派の善譲師も一八八六年、明治十九年に八十一才で入寂し、福沢諭吉よりも三十才ほど先輩であり、善譲師の隣寺の摂受吐月(とげつ)勧学も明治二十七年。一八九四年八十四才で入寂している。師も福沢諭吉よりも二十四、五才先輩であり、吐月師も諭吉と同門の月珠師の門弟である。さらに月珠師の高弟東陽円月勧学は文政元年、一八一八年の出世であり、福沢諭吉より二十才ばかり先輩であり、彼の月珠和上の恵日閣に入門したときはこれらの月珠門人の高弟がいたことが考えられる。まったく中津市を中心とする二十Km以内には本願寺史に稀にみる学僧が輩出したのである。この影響を無視しては彼の生涯を考えることは出来ない。父百助が彼の出生と同時にお坊さんにさせたいという念願をもっていたのもこのような環境にあるからである。

 『福沢諭吉の一生』には次の如く述べている。

 そのころ、父百助は大坂にある中津藩の藩倉(こめぐら)の廻米方元締役という役人でしたが、当時下級武士の子どもはいくら賢くても出世ができないので、この子はいっそ「お坊さんにして自由に学問をさせ、人から敬われる高僧にでもしよう」といつも口癖のように云ってたたのしんでいまし。父百助は彼の生後六ヶ月で亡くなっているが、月珠和上は安政三年、一八五六年に入寂され、さらに、少し前の教覚寺崇廓師も天明六年一七八七年に入寂され、月珠師の師、道隠師も文化十年一八二八年に入寂している。これらのすばらしい学憎がほとんど近隣に在住し、同時代の方々であった。これら学僧の直接的な影響をうけていることは否定出来ない。

 元来、僧侶に在家からなる場合は周囲の環境に影響されるのである。筆者の生家、安芸門徒の中心、呉地方をみると、中津を中心とする学僧とその趣きを異にする。中津中心の学僧はほとんど寺院出身のものが多い。しかし、呉中心の学僧は在家出身の学僧が大半である。浄土真宗の学僧がふえることは、他の学問と異なり、教えがそのまま普及されるのである。教えの普及によって仏法を敬うものが多くなる。仏法を敬う心はそのまま僧侶を敬うことにもなる。

 ここに在家の出身者でも僧侶になりたいという希望をいだくこととなる。自ら生死問題や人間苦に悩む純粋な宗教的要求によるものよりも、少年時代の僧侶を敬う態度から希望するものが動機となっている場合が多いようである。それゆえ、現在でも浄土真宗の法義の盛んな所には在家出身の僧侶も多い。

 このようなことを考えると、福沢諭吉の生家の環境が、浄土真宗の法義の盛んなところであることは実証されるのである。しかも彼ともっとも親交のあったのが七里恒順和上であった。師との関係を次の如く『七里和上言行録』に述べている。(五二頁)

和上と福沢諭吉翁との間は実に奇遇にて千歳の好知己ともいふべきだ。福沢諭吉氏が少壮の頃、新に泰西より帰朝し、さかんに欧米の文明を唱導するや、気えん万丈ほとんどあたるべからざるの慨があった。当時和上は豊後の高僧南渓師のもとにあって、苦学せしが、福沢氏たまく豊前に帰郷し来り、さかんに仏法を非難せし時、豊前の僧侶これに向って辯難を試みたものは多かっだけれど、忽ち氏の雄辯に説破されて、一人のよくこれに敵するものがなかったので、人々は和上に勧めて福沢氏にあたらしめた。和上、年少気鋭すなはちこれを諾して、中津妙蓮寺において福沢氏に会見、妙蓮寺は福沢氏の菩提所である。一見談論雲の如く互いにかたくとって相くだらず、しかれどもこの時、既に福沢氏は和上の博学宏辞に驚き、和上亦ひそかに福沢氏の理論に推伏し、しかも双方これを口外せられなかった。……その後東西に相わかれ、和上と福沢氏との間には一回の文通さへ、なかりしが、明治生命保険会社陣多支店長鈴木手巻氏が明治三十三年上京して福沢翁に会し、談話の末、翁は鈴木氏に向ひ、和上のことを問ふて頻りにその人物を賞嘆し、余も晩年大いに悟るところあり、仏教革新のことについても大いに意見をいだけるが、ただ今一度逢ってこの抱懐を語りたきは博多万行寺の恆順師である.……

とあり、両師ともに尊敬しあったようである。しかし両者ともに晩年は中風症にかかり、福沢諭吉の最後の著作といわれる『新女大学』の新書を鈴木氏のことづけたと、七里恒順和上は、その日の朝、入寂されたといわれる。

 このように七里和上との交流のあったことは否定出来ない。彼の生涯は幼少の時から生涯、浄土真宗の教えをその教えをバックボーンとしていることは否定出来ない。それゆえ、彼は蓮如上人の『御文章』を一生手もとから離さなかったといわれる。この『御文章』の中でも、特に彼の愛読したものが八万法蔵の章であったといわれる。(以上)

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