仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ことわざから出会う心理学

2023年09月30日 | 日記
『ことわざから出会う心理学』(2022/7/1・今田寛編集)、ハウツー本だろうと思って借りてきましたが、本格的な心理学の学術書でした。例えば2章は「親の特徴は子にどれほど受け継がれるのか?」―「血は争えない」では30頁にわたって論説されています。最後の部分だけ転載します。

「皿は争えぬ」というように、親の特性が子に受け継がれることはよく知られています。本講では人の特性を、知能と性格に分け、それぞれに関して、遺伝と環境の及ぼす影響について近年の行動遺伝学を背景に講じました。その結果、第3節に要約したように、知能への遺伝の影響は52%、性格への遺伝の影響は40%となりました。残りが環境の影響ですが、知能の場合には家庭などの共有環境の影響が34%、友人・仲間などの家庭外の環境(非共有環境)の影響が14%でした。他方性格の場合は、環境の影響の60%はすべて非共有環境の影響でした。つまり性格形成に家庭環境は影響がないという事実です。この最後の事実は、心理学において遺伝-環境問題が従來(天性)-(養育)問題として取り上げられてきたことの妥当性を疑わせるごとになります。
(以下省略)
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門扉の杉

2023年09月27日 | 日記
本堂建設途上で大方の図面が完成したところです。先日、玄関の扉4枚に組み込む杉の板を検品に江東区の建具店へ行きました。この店に70年寝かせてあるという杉です。来年創業100年を迎えるこの店の初代店主が70年前に、静岡県の山住神社(浜松市天竜区・創建709年)の樹齢500年のご神木が雷で倒れ、その杉を引き取ったという杉です。縦180cm、幅92.5cm、厚さ10数cm、これを上下半分、厚さ半分にして門扉の下部分に使いまます。どう仕上がるか楽しみです。
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「領解文」肯定派の意見②

2023年09月26日 | 浄土真宗とは?
昨日の続きですが、おなじ『中外日報』(2023.9.15日号)にあたらしい「領解文」肯定派の意見が掲載されていました。

 
外部からの視点を大事に新しい。

「頷解文」について肯定派の僧侶は、教学の問題を中心に議論されていることを危惧し「教学論争をするのではなく、外部からの視点が大事」と訴える。
 -多くの指摘がある「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」はどう理解されますか。

 僧侶 この文言については「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」「本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩・菩提体無二と すみゃかにとくさとらしむ」「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおおきに徳おほし」「十方無碍光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」という和讃があります。
 また勧学寮による解説や、勧学の満井秀城・総合究所所長が解説をされていますので、基本的にはこれでいいと思います。「本覚思想だ」という反対派からの批判もありますが、それなら反対派の人々は「本覚思想とは何か」「新しい『頌解文』のどこが本覚思想なのか」「本覚思想の何が問題なのか」を明らかにする説明責任があります。仮にも天台教学の核心ですから、これは相当の覚悟をもって批判しなければなりません。
 ただ、根拠として和讃を挙げたりして細かく教学論争をすることは、あまり意味がないと思います。新しい「領解文」は「難しい教学用語を用いず、わかりやすい言葉で丁寧に」(西本願寺・慶讃法要特集『中外日報』2023年3月17日付)という目的で作られたはずですから、それに対する批判自体が「難しい教学用語を用い」て「わかりにくい言葉で重箱の隅をつつくように」なされたのでは意味がありません。
 あそらくご門主は「旧領解文」の表現もさることなが、特定の教学の専門家たちが自分たちにしか分からないような議論をして自己満足し、宗学というコクーン(繭)の中で自己完結している、しかもそれに気付いていない、そのこと自体がもう完全に現実社会から遊離していて、人々の苦悩や不安に寄り添っていない、ということをおっしゃったのだと思います。

―外部からの視点を意識すべきだと。

僧侶 社会からどう見られているか。少し硬い言葉で言うと、教団の社会的存在意義に敏感であれ、ということです。問題は、外部からの視点によって示された姿に誠実に向き合うという「客観性」の担保であり、自分の思いや正義感などの「主観性」の貫徹ではありません。比喩として正確かどぅかは分かりませんが、前者はM・ウェーバーのいう「責任倫理」、後者は「心情倫理」といえるかもしれません。いま私たちが聞かれているのは「責任倫理」です。
 ご門主は様々な場で、宗門が戦争協力や差別や偏見を温存助長してきたことに触れられています。これはまさに「外部からの視点」です。教学者の発言が、教学者自らの意図ではなく、それがもたらした結果から(外部から)逆に聞かれたわけですから。この問い掛けの延長線上に新しい「領解文」があるし、読んでほしいという、ご門主の願いではないかと思います。外部の視点を含めて「新しい鴒解文」を読む必要があります。
 また外部からの視点に関係したことですが、議論に「ご門徒の視点」がほとんど登場していません。教学者や僧侶にとって大事なことは、教えの正確な理解や儀式の厳格な執行ですが、これらはやはり内向きの営みであって、そんなことばでは外部からの視点は持てない。ご門徒というのは、一方で教団の内部にありながら同時に外部にも関わっているという極めて貴重な存在です。この貴重な人々の視点を取り入れるべきです。(以上)
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新しい「領解文」を肯定す意見

2023年09月25日 | 浄土真宗とは?
『中外日報』(2023.9.15日号)に、日本宗教学会の第82回学術大会(9月8~10日・府中市の東京外国語大府中キャンパスで開催)で「新しい領解文」について浄土真宗本願寺顫の4人の僧侶が、発表したと記事になっていました。以下転載。

パネル発表の主催者の深水顕真・広島文教大非常勤講師、稲城蓮恵・大阪府光蓮寺副住職、藤丸智雄・武蔵野大仏教文化研究所研究員、ケネス田中同大名誉教授がそれぞれ発表し、全体での議論を行った。
 深水氏は「新しい『領解文』は現代語を用いているので一見分かりやすいが、その内容は分かりにくい」と述べ、二項対立による構造分析を行った結果、従来の頷解文は自力と他力の二項対立構造でメッセージ性が明確だが新しい「領解文」は対立項があいまいで救いが何かが不明確であると指摘した。
 田中氏は、新しい「領解文」には問題点もあるが、これまでご縁のなかった人々を対象に作られたものとして評価できるとし、同じような考え方で制定され、米国の浄土真宗において多くの人々に親しまれている「Gold en Chain」と比較して論じた。新しい「領解文」が発布された際に大谷光淳門主が述べた「制定の趣旨」に基づき田中氏は①若い人やこれまで仏教や浄土真宗に親しみのなかった多くの方々に分りやすく伝える②時代状況や人々の意識に応した伝道方法③「信心」を正しく分かりやすく伝えるーの三つを評価基凖として、それと「Gold en Chain」を照らし合わせた。
 田中氏は「アメリカ社会では宗教がポジティブで『良いもの』と捉えられている。現代人の多くが宗教に求めるのは日常生活で自分にとって精神的有意義な体験で、『出世』より『世間』(日常生活)の領域をより大事に感じている」と話し「Gold en Chain」は宗教教育学的視点で入り口付近にいる人々を対象としたもので、①と②の評価基準を満たしていると説明。③については「乏しいと言わざるを得ない。従来の領解文は二の点て効果的であるが、入り口付近にいる人々には難しく感じる可能性が高い」と述べた。
 その上で新しい「領解文」について「Gold en Chain」のように入り口付近にいる人々が対象であるなら、評価基準を大体満たしていると言える。③の『信心を正しく伝える』についても、批判はあるが「Gold en Chain」より勝っている」と評価した。
 誤解を招くことなのないよう文言を編集する必要性や、教相や生活信条的要素が含まれているため「領解文」とせず別の名称を勧めることなどに言及しながらも「これを契機に真宗の弱点と思われる生活論(日常生活)への対応をより充実させるべきだ。『今世』の二―ズに対応することて、既に『来世』に関して卓越した教えを有する浄土真宗は、より充実した生き方を現代人ご提供できるだろう」と語った。(以上)

新しい領解を肯定する意見が少ない中、価値ある発言だと思う。
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宗教と日本人-葬式仏教からスピリチュアル文化まで②

2023年09月24日 | 現代の病理
『宗教と日本人-葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書・2021/4/19・岡本亮輔著)からの転載です。



消費される宗教
 近年ブームになっている坐禅、ヨガ、プチ修行、御朱印集め、宿坊、パワースポットなどは、いずれもスピリチュアル・マーケットを通じて、宗教実践が道具として消費される現象である。最後に見ておきたいのは、こうした状況の中で、宗教体験の質や語られ方も変わりつつあることだ。
 例を挙げればきりがないが、たとえば『プチ修行できるお寺めぐり』というガイドブックがある。全日本仏教青年会が監修し、吝宗派の総本山の全面協力を得て制作されたもので、寺院と僧侶のチェックを経たものと言えよう。北海道から沖縄まで、全国50の「修行休験ができる寺」がリストアップされている。だが、そもそも宗派を問わずに寺院をカタログ化すること自体、信仰は問題ではなく、消費者優位のスピリチュアル・マーケットが広がっていることを示唆しているだろう。
同書のテーマは、坐禅・寺ヨガ・写経・精進料理などで心身をスッキリさせることで、各寺院がおすすめの修行と共に紹介される。浄土宗大本山の増上寺は、毎朝の法要が公開されているため、ビジネスマンが心を調えてから仕事場に向かったり、近隣ホテルに宿泊する外国人に絶好のジョギングコースだという。
 日光の輪王寺では、複雑化して混沌とした社会にあって、世界遺産の境内での坐禅によって、心を無にして自分を見つめ直せる。世界遺産という世俗の文化財制度が、坐禅という宗教実践と結びつけられている。そして埼玉県の蓮光寺では、鍼灸マッサージ、心理カウンセリング、チャネリングなどが受けられ、ユニークな御朱印で知られる神奈川県の広済寺では、自己を見つめる、スキルアップするとしった目的で坐禅ができるというのである。
 第2節冒頭で、心を落ち着かせるために礼拝に行くという宗教の道具化について紹介したが、こうした寺院と実践の語り方は、そこからさらに一歩進み、スピリチュアル・マーケヨトでの競争力を得るため、自己の見つめ直しや心身の癒しとしった目的に合わせて、寺社側か実践を商品化する状況として理解できるだろう。
 
 そして、こうした傾向は、神仏との合一や劇的回心としった従来の宗教体験のイタージを掘り崩してゆくだろう。世俗礼会で求められているのは、死後・の生や魂のゆくえといった救済ではない。現在の世界のあり方を悲観し、それを根本的に変えたり、来世に期待したりする人は少数である。あるいは、現状に問題があると感じても、多くの人は、それが信仰によって解決されるとは考えていない。
 消費者優位のスピリチュアル・マーケットで主題になるのは、魂の救済ではなく、心身の癒やしや気分転換だ。瞑想で集中力が高まり仕事が捗る、宿坊に泊まってリフレッシュする、滝行体験で自己を見つめ直す、週末修験で自然に癒やされる。様々な寺社とそこで提供される実践は、現代の消費的な宗教需要に応えるための商品なのである。問題のある世界を作り変えるのではなく、そうした世界を少しでも快適に生きるための道具として宗教が利用されるのだ。
 

気分転換したりするための清涼剤のようなものだ。そうであれば、その体験についても、たとえは観光や映画と同じような、一般メディアで流通しやすいガイドブック的な語りがますます広がり、宗教は世俗社会の文化としての性格を強めてゆくだろう。
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