仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「花咲き山」

2024年01月31日 | 正しい絶望のすすめ

知人から、「能登半島地震以後、子どもが死ぬ事に怯えているが、僧侶として何か語ってくれ」といわれて、どう説明したらいいか」という問い合わせを頂いた。電話だったので「100万回生きたネコ」「花咲き山」などの絵本を親が読んであげたら良いのではないか。と提案しました。また古い本だが『死ぬってどういうこと?―子どもに「死」を語るとき』(1992/7/1・アール・A・グロルマン著・重兼裕子翻訳)も参考になるとアドバイスをしました。

 

日頃から「100万回生きたネコ」「花咲き山」など死に関わる絵本を読みきかせておくことの大事さを考えさせられました。

 

以前、「花咲き山」をブログで紹介したので、転載しておきます。

「花咲き山」(斉藤隆介作)の話は、法照師の「この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。」というお言葉を童話にしたものです。

県立図書館の近くを通ったので図書館の小学校の教科書のコーナーで見ると、3.4年生のほとんどの道徳の本に掲載されていました。まずは物語です。本文は「おどろくんでない・。おらはこの山にひとりですんでいるばばだ。山ンばというものもおる。山ンばは、わるさをするというものもおるが、それはうそだ。おらは何にもしない。」といった方言で書かれています。以下概要です。
  
あやは、山菜取りに山へ入り、やまんばのいる山奥まで来てしまいました。すると一面、見たこともない、きれいな花が咲いています。その花が、どうしてこんなにきれいなのか・・・やまんばは、その訳をあやに話すのでした。
 この花は、ふもとの 村の にんげんが、やさしいことを ひとつすると ひとつ さく。
あや、おまえの あしもとに さいている 赤い花、それは おまえが きのう さかせた 花だ。あやの家は貧乏で、祭り用の着物を、あやと妹のそよの二人に買ってやることは出来ません。あやは自分はいいから、そよに買ってやってくれと母に言ったのでした。そして今、咲きかけいる青い小さい花。それは双子の赤ん坊の兄の方が、母親に抱かれたいのを我慢して、弟に譲っている為に咲いていると・・・兄は目にいっぱい涙をためて辛抱している・・・その涙が花にかかっている露だと。
 自分の事より人の事を思って辛抱すると、その優しさと健気(けなげ)さが、花となって咲き出す。それがこの花さき山の花だと、やまんばは言いました。そして優しさは、花だけでなく山もつくった、と。
 やさしいことを すれば 花がさく。いのちを かけて すれば 山が うまれる。うそでは ない、ほんとうの ことだ・・・。
 山から帰ったあやは、やまんばから聞いた話を皆にしましたが、誰も信じてはくれませんでした。でもあやは、その後、時々「あっ、いま 花さき山で、おらの 花が さいてるな」って思うことがあるのでした。

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共感革命: 社交する人類の進化と未来③

2024年01月30日 | 日記

『共感革命: 社交する人類の進化と未来』(河出新書・2023/10/24・山極壽一著)からの転載です。

 

なぜ人間だけに白目があるのか

人類が持つ大きな特徴として、白目が挙げられる。

 相手の目の微細な動きから、他人の気持ちを推測できるのは、白目があるからだ。白目によって、黒目の向いている方向がわかり、相手がどこを見ているかがすぐわかる。人間だけが持っている能力、視線共有である。人間以外の霊長類で、こうした白目を持っているサルや類人猿はいない。類人猿も少し離れた相手とコミュニケーションをとる場合もあろか、白目を使うようには進化しなかった。

 相手が見ている方向や対象には、何らかの意図が含まれているケースが多い。つまりそれには、相手の関心を引く何かがあるということだ。それは美味しい果実だったり、危険な外敵だったり、あるいは交尾の相手だったりする。その気持ちを仲間が瞬時に理解できるからこそ、集団的な行動が可能になる。

 ここで間違えてはいけないのは、白目によって私たちは、相手の「考え」を読んでいるのではなく、相手の「気持ち」を読んでいる点だ。考えを読むのは「セオリー・オブ・マインド」といって、認知の向上が伴わなければできない行為だ。人類は言葉の獲得によってその能力を格段に高めた。しかし相手の気持ちを読むのはそれよりずっと前に進化した能力だろう。その結果、相手と一体化し、お互いの壁を乗り越えて行動を共にできるようなったのだ。

 白目は視線共有をもたらして、相手の気持ちの読み解きに貢献し、共感力を高めるために使われている。白目は軟部組織のために化石としては残らず、いつ人類に現れたのか、正確にはわからない。だがゴリラやチンパンジーに白目がないことから、共通祖先から分かれたあとに現れた、人間だけの特徴だと考えられる。しかも世界中の人間がこの白目を持っていることから、ホモ・サピエンスが世界中に広がる前に、この自日が現れたと考えられる。共感力を高めながら、同時に人類の身体的特徴も変わっていったのだろう。

 また、人間は簡単に真似する能力を持っている。悪口として「サル真似」という言葉があるが、サルに見たまま真似をする能力はない。人間は、頭の中であれこれと考えなくても、見たものをすぐに真似できる。それは相手の身体と自分の身体を即座に共鳴させられるからだ。つまり、すぐ相手の立場に立てるのだ。相手の立場に立つというのは、相手の身体を乗っ取るようなイメージに近い。真似は、人問だけに備わったとても優れた能力なのである。(以上)

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共感革命: 社交する人類の進化と未来➁

2024年01月29日 | 日記

『共感革命: 社交する人類の進化と未来』(河出新書・2023/10/24・山極壽一著)からの転載です。

 

遊ぶ人間、ホモ・ルーデンス

 オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは一九三八年に『ホモ・ルーデンス』を発表し人間社会における遊びの重要性を説いた。

 遊びは経済的な利益を求めないし、目的も定めない自由な活動だ。また楽しさを追求するもので、遊び自体が目的になる。しかも、日常を離れた「虚構」でもあり、遊びの中けで通じる独自のルールがつくられる。遊びという行為は、人間のどの文化や文明にも存在しており、一見、無為に見える遊びこそが、社会を発達させた源ともいえるのではないか。

人間の遊びに関して、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワの優れた考察がある。一九五八年に出版された『遊びと人間』という著書においてカイヨワは、文化が遊びを通じてつくられることを指摘している。

 遊びは、競争(アゴン)、偶然(アレア)、模擬(ミミクリ)、眩暈・ままい(イリンクス)という四つのカテゴリーに分けられ、そのどれもが時空問的な虚構の中で制定されたルールに基づき実施される。この遊びは、常に予測できない要素を含んでいなければならない。競争的な要素の強い遊びとしてスポーツがある。また偶然的な遊びは賭け事などで、模擬的な遊びはモノマネ、眩暈的遊びとしてはジェットコースターのような一歩間違えれば生命にかかわるような冒険的行為である。

 これらの遊びは他の動物にもあるのだが、偶然的な遊びは人間にしか見られない。人間以外の動物は、自分の意志でコントロールできない偶然性では遊ばないのだ。

 ゴリラの遊びを観察してみると、アゴンは追いかけっこやレスリング、ミミクリは木の枝などを赤ちゃんに見立てる遊び、イリンクスは木の枝にぶら下がりぐるぐる回るような遊びが当てはまる。しかし、憫然が伴うアレアは存在しないことがわかる。アレアという偶然を伴う遊びには、未来を想像しながら、あえて偶然に賭ける人間独特の意識と認知が必要なのだ。

 人間の場合、たとえ自分に不利な状況でも、いつか幸運が転がり込むかもしれないと信じる心がある。そう考えると、宗教もアレアの一種なのかもしれない。宗教には天国や地獄があると教えるものも多いが、実際に天国や地獄を見た人はいない。それなのに、天国や来世など、次の世界で報われると信じて、この世の苦しみを引き受けようとする人が大勢いる。これは人間ならではの現象だ。

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共感革命: 社交する人類の進化と未来①

2024年01月27日 | 日記

『共感革命: 社交する人類の進化と未来』(河出新書・2023/10/24・山極壽一著)からの転載です。

 

二足歩行が共感革命を起こした

 類人猿の子ども特有の遊びに、ピルエットと呼ばれるものがある。

 ピルエットとはぐるぐると回転することだ。この遊びはサルには見られず、類人猿にしか見られない。フランスの社会学者ロジエ・カイヨワが分類した四つの遊びの中で最も自由な、浮遊感に満たされ冒険的な緊張感に包まれる遊びで、類人猿が人問に進化するにつれてこの遊びは拡大し、ダンスという音楽的な才能と結びついていった。

 私は人類が直立二足歩行を始めた理由の一つに、この「踊る身休」の獲得があったと考ている。

 かつて人類はジャングルを四足で歩行していたが、やがて二足歩行へと変化する。歩行様式が変わった理由として、二足のほうがエンルギー効率も良く、遠くまで食物を集めにいけたからという説と、安全な場所で待つ中間の元へ栄養価の高い食物を運びやすかったからという、二つの説がこれまで有力だった。

 しかし、私は別の考えを持っている。

 四足で歩行すると手に力がかかり、胸にも圧力がかかって自由な発声ができない。しかし二足で立てば支点が上がり、上半身と下半身が別々に動くので、ぐるぐる回ってダンスを踊れるようになる。

 また二足で立つと胸が圧力から解放されて、喉頭が下がり様々な声を出せるようになる。

言葉を獲得する以前の、意味を持たない音楽的な声と、音楽的な踊れる身体への変化によって、共鳴する身体ができる。この身体の共鳴こそが人間の共感力の始まりで、そこから音楽的な声は子守歌となり、やがて言葉へと変化する。人間はそうやって共感力を高めながら、社会の規模を拡大していったのではないか。

 『サピエンス全史』で知られる歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、ホモ・サピエンスが言葉を獲得し、意思伝達能力が向上したことを「認知革命」と呼び、種の飛躍的拡大の最初の一歩と考えた。しかし私は「認知革命」の前に「共感革命」があったという仮説を持っている。

 もし七万年前に言葉が登場したという説が正しければ、人類はチンパンジーとの共通祖先から分かれた七〇〇万年の中でわずか一パーセントの期間しか言葉を喋っていないことになる。その点を踏まえれば、まず身体があり、次に共感という土台があった上で言葉が登場したと考えるほうが自然だろう。

 イギリスの霊長類学者ロビン・ダンバーは「社会脳仮説」を唱え、言葉は脳を大きくすることに役立っていないと指摘している。人類の脳は二〇〇万年前に大きくなり始め、ホモ・サピエンスが登場する前に、すでに現在の大きさになっていた。つまり言葉が脳を大きくしたわけではなく、むしろ先に脳が大きくなり、その結果として、言葉が出てきたと考えられるのだ。(つづく)

 

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30年間で、ひとりの時間を大切にする傾向が高まる

2024年01月26日 | 現代の病理

博報堂生活総合研究所 「ひとり意識・行動調査 1993/2023」 結果発表 |ニュースリリース|博報堂 HAKUHODO Inc.

 

上記より転載です。

2023年 「ひとりでいる方が好き」な人は56.3%。1993年からは+12.8pt増加して過半数に

 

「社会的孤独」「少子化」などの社会問題を背景に、最近ひとりに関する話題を耳にすることが増えています。そして、多くの生活者がコロナ禍をきっかけにひとりで過ごす経験をしたことで、ひとりに対する価値観が変わってきているようです。
博報堂生活総合研究所は、1993年に25~39歳男女に対して「ひとり意識・行動調査」を実施。それから30年経った2023年に前回と同様の調査を再度実施しました。その結果、ひとりを志向する生活者が大幅に増加し、その意識と行動に大きな変化が起きていることを発見しました。

「ひとり意識・行動調査1993/2023」調査結果のポイント

 
【意識編】30年間で、ひとりの時間を大切にする傾向が高まる
●「意識してひとりの時間をつくっている」が、30年間で大幅増
●特に、趣味や遊びについて、ひとりで楽しむ人が増加
 

【行動編】生活の様々な場面で、ひとりで行動したい人が増加
●「ひとりで行きたい場所」は、「喫茶店・カフェ」「ファストフード」「映画館」などが30年前と比べ2倍以上に。以前は誰かと一緒が多かった場所でも「ひとりで行きたい」が増加
●「ひとりでしたいこと」は、仕事や食関連を中心に多くの分野で増加
●「喫茶店・カフェにひとりでいてもつらくない時間(待ちあわせ以外)」は、「120分以上」が大幅増
(以上)

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