仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

円成祝賀会

2024年04月30日 | 都市開教

昨29日、日本橋パークホテルで「親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年記念慶讃法要円成祝賀会」で、350人程の人がつどい、祝賀会がもうよされました。7人座りの円卓がびっしりと設営されていました。興味深いのは、上席中央テーブルから、教区の寺院の方、来賓と、座る位置によって、自分は主催者から、どう値踏みされているかが明らかになるところです。私は、最初から友人が気を利かせて「西原さん、下座のテーブルでけど仲間と一緒のテーブルにしておきました」と配慮してもらいから、お喋りを楽しむことが出来ました。

十列くらいあるテーブルの二列目に私の名があったので、知っている人があるテーブルの方が良かろうと配慮してくれたものです。

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思考停止という病理③

2024年04月29日 | 現代の病理

『思考停止という病理: もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』(平凡社新書・023/5/17・榎本博明著)からの転載です。

 

 

相手の期待を裏切りたくない、という心理

 私たち日本は騙されやすかったり、交渉において相手のぺースに巻き込まれやすかったりするのは、前項で指摘したように性善説にたち、人を疑ってはいけない、相手を信じるべきである、と心に刻まれてしることに加えて、相手の期待を裏切りたくななという心理か働いているためでもある。 そうした心理的特徴は、日常のコミュニケーシションの様式のみならず、たとえば動機づけにもあらわれている。

 教育心理学者ハミルトンたちは、日本とアメリカの小学校5年生を対象に、成績や勉強に対する意識についての比較研究を行っている。そのなかで、とくに日米で違いがみられたのが、勉強をしたり、良し成績を取ろうとしたりする理由であった。

 アメリカの子どもには、自分の知識が増えるなど、自分のためという反応が多かった。それに対して、日本の子どもには、「お母さんが喜ぶ」など、両親や先生を喜ばすため、あるいは悲しませないためという反応が目立った。

 教育心理学者臼井博は、このハミルトンたちの子どもの達成動機に関する知見は、デヴオスによる日本の大人の達成動機についての知見と一致するという。達成動機とは、ものごとを成し遂げたいという心の動きを指す。

 デヴォスは、日本人が何かを成し遂げたいと思って頑張るとき、その心の深層には母子の絆があると指摘する。

 日本の母親は、子どものために自分自身の利己的な欲求を抑える。いわば、子どものためなら自己犠牲を払う。このような母親のマゾヒスティックな行動を見ている子どもに、母親が自分のために犠牲になっていることに罪悪感をもつ。そのため母親を楽にさせてあげたいと恣って頑張って勉強したり、仕事に精を出したりする。

 デヴォスは、このような罪悪感に基づく達成への義務感のことをモラルマゾヒズムと呼んだ。

 日本人は、「頑張らないと申し訳ない」といった気持ちに駆り立てられて頑張るのだというわけである。

 近頃は、政府がやたらと自己愛をくすぐり、自分の活躍のたにめだにけに生きるのがよいといったマッセージを流すため、自己犠牲的に子どもに尽くすという母親像が今の時代にどれほどあてはまるのかはわからない。だが、今ときの学生たちと話しても、サボると親に悪いといっか言葉をよく囗にする。

モラルマゾヒズムは、相手が母親とは限ららないが、現代でも日本人の心の深層に刻まれているのではないだううか。

 実際、頑張る理由として、私たち日本人は、自分にとって大切な人物を喜ばせたいとか、

悲しませたくないとしった人間関係的な要因をあげることが多い。頑張れないときや成果を上げられないときは、そういう人に対して「申し訳ない」という思いに駆られる。

 スポーツ選手が勝利インタビューなどで、お世話になっている監督やコーチのために頑張った、恩返しができたというようなコメントをする光景をしばしば見かける。そこがいかにも日本的と言える。

 私たちは、何事に関しても、絶えず相手の期待を意識して、それを裏切らないように行動しようとするようなとこうかあるのである。

 そのため、人を疑わないだけでなく、嫌と言いにくいということにたりがちである。たとえば、取引相手から、向こうに都合のよい条件を求められたときなど、海外の人なら即座に「それは無理」と言えるが、日本人の場合は柏手の期待を裏切りたくないという気持ちが働くため、即座に拒否するということができない。それで不利な契約を結んでしまったりする。人の気持ちにとらわれるあまり、条件面についてじっくり検討する余裕を失ってしまうのである。

 日本社会に「忖度」がはびこるのも、相手の期待を裏切りたくないという思いが強いからと言える。

 相手の意向を配慮しつつ行動するのは、私たち日本人の基本的な行動原理となっている。

 自分の意向に従って動き、相手を説得するのが基木的な行動原理となってしる欧米人には信じかたいことだろうが、私たち日本人にとっては相手が何を期待しているかが重要なのだ。このことも良かにつけ悪しきにつけ思考停止に陥らせる要因と言えるだろう。(以上)

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対称性バイアス

2024年04月28日 | 日記

『読売新聞』夕刊(2024年4月27日)に掲載されていたコラムです。編集委員 三井誠。

 

 自然豊かな山奥の地面に細長くニョロニョロとしたくぼみを見つけたら、背筋が寒くなるかもしれない。「近くに蛇がいるのでは……」。実は、こうした想像は人類特有で、言葉を覚える能力にも関係しているらしい。今年の新書大賞を獲得した中公新書「言語の本質」の共著者、今井むつみ慶応大教授か教えてくれた。

 ちょっと複雑だが、次のような仕組みになる。

 蛇がはうとニョロニョロとしたくぼみができるが、逆に、ニョロニョロとしたくぼみは蛇だけが作るわけではなく、何かが転がったために出来だのかもしれない。くぼみと蛇を結びつけるのは論理的には正しくないが、人類は想像を巡らせ、蛇を警戒する知恵がある。

 特別な能力とは思えないが、ほとんどの動物はこうした想像力を持たないらし。子供が言葉を覚える時、似たような、論理的には正しくない思考が生かされるという。例えば、赤い果物を見せて「リンゴ」と教える。すると、逆に「リンゴ」は赤い果物だと思い込むことで言葉を習得していく。

これは厳密に言うと間違っている。リンゴといっても、青リンゴもあるし、皮をむいたリンゴもある。

 「AならばB」であっても、「BならばA」とは論理的にならない。「イワシならば魚」だが、「魚ならばイワシ」ではない。「逆も真なり」と思ってしまうのは、「対称性バイアス」と呼ばれている。

 バイアスというと、あまり良い印象がない。例えば、「確証バイアス」は自分の考えに固執し、それを支持してくれる情報ばかりを集めてしまう傾向だ。「正常性バイアス」では、災害など危険な状況に遭遇しても、いつも通り大丈夫だろうと安心してしまう。

 一方、対称性バイアス。今井さんは「人類の生存に欠かせない、ありがたいバイアスです」と話す。 森林にすむチンパンジーなど生息環境が限られる動物なら、目の前の対象を誤解なく認識するのが大事だろう。ところが、危険あふれる未知の環境に踏み出した人類は、そうはいかない。

十分な情報がない中、まずは直感や想像力でその場をしのぐ能力を獲得した。間違うかもしれないけど、そこそこうまくいく。そして、言語の獲得にも結びついた。逆にいえば、必ずしも論理的ではなく、人類が時にリスク対応を誤るのは、こうした柔軟さの代償なのかもしれない。(以上)

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築地の慶讃法要

2024年04月27日 | セレモニー

昨26日から29日迄、築地本願寺において「親鸞聖人誕生850年、立教開宗850年記念慶讃法要」です。昨日、10人で団体参拝、庭儀があり荘厳さな法要でした。満堂で700人といった参会者でした。記念冊子が無料で配られましたが、その冊子の中に、当日、ライブ配信されているE映像を参拝しながら見られるようにQRコードでも印刷してあれば、ラジオを聴きながら野球観戦するように楽しめたと思いました。

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思考停止という病理②

2024年04月26日 | 現代の病理

『思考停止という病理: もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』(平凡社新書・023/5/17・榎本博明著)からの転載です。

 

 

 アメリカの教科書の209篇、日本の教科書の211篇を分析の対象としているが、「強い個人」というテーマはアメリカでは53篇もあるのに対して、日本ではわずか7篇にすぎなかった。細かく見ていくと、「自己主張」というテーマはアメリカの7篇に対して日本では皆無、「自立心・独立心」というテーマもアメリカの7篇に対して日本では皆無、「強い意志」というテーマはアメリカの15篇に対して日本ではわずか1扁であった。

 アメリカの教科書で多く取り上げられている「自己主張」というテーマが、日本の教科書ではまったく取り上げられていない。このように、「自己主張」をよしとするアメリカ文化と「自己主張は慎むべし」:とする日本文化の対照性か端的にあらわしてしる。

 また、人間関係の描かれ方が非常に対照的であった。アノリカでは「暖かい人開関係」と「緊張感のある人間関係」が均等に描かれているのに対して、日本ではすべて「暖かい人間関係」になっている。「緊張感のある人間関係」というテーマは、アメリカでは24篇あるのに対して、日本では皆無だった。「暖かし人間関係」というテーマは、アメリカの23篇に対して日本では54篇と非常に多くなっていた。このように、日本の教科書では、良好な人間ばかりが描かれ、対立的な人間関係はまったく描かれていないここがわかる。

 人と人とが対立するのは当然とみなすアメリカ文化と、人との対立を極力避けようとする日本文化、その対照性が、ここにも如実にあらわれている。

 「やさしさ、相手の気持ちになって」といったテーマも、アノリカの2扁に対して日本では16篇と非常に差が大きく、このような性質が日本独自の特徴であることを示している。 また心理学者塘利枝子は、東アジア4ヵ国の小学校の教科書の分析を行っているが、そのなかの日中の比較結果には両文化にふさわしい人物像の対照性が見事にあらわれている。 日本の教科書では、敵とは知らずに無邪気に善意を信じて懐に飛び込んだ結果、本来、敵であったはずの相手の気持ちが変わり、味方になってくれたという作品かみられる。

 たとえば、小学校2年生用の「ニャドゴ」では、3匹の子ネズミが、本来、敵であるおじさんネコのことを無邪気に信じて親切にするため、このネズミたちを食べる機会を狙っいたおじさんネコも、その無垢な行為に心を動かされ、子ネズミたちに好意を抱くようになる。

 同じく小学校2年生用「きつねのおきゃくさま」では、ひよこをもう少し太らせてから食べようと企んでいる狐が、親切を装っている自分のことをすっかり信じ込み、やさしいお兄ちゃんと慕うひよこの無邪気さに心を打たれ、いつの問にかひよこを食べようとしう気持ちをなくす。そして、ついにはひよこの命を狙い襲しかかってきたオオカミに立ち向かい、

命を落としてまで狐はひよこを守ろうとする。

 一方、中国の教科書では、敵はぱあくまでも敵であり、うっかり同情すると痛い目に遭う         

ことを諭し、けっして命を救おうなどとしてはならないことを強調する作品がみられる。

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