仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

無常を知るとは?

2012年08月31日 | 仏教とは?
先に紹介しました『現代仏教論』を読んでいて関心をもった点を記します。

第一章で、大震災に対する仏教者たちの発言を転載しています。その中に、テーラワーダ、チベット仏教の意見として、雑誌『サンガジャパン』第六号(11年7月)で「震災と祈り」より転載しています。下記のその部分です。

 テーラワーダは上座部とも言われ、スリランカや東南アジアで行われている仏教の形態である。日本では、アルボムッレースマナサーラ長老を指導者とする日本テーラワーダ仏教協会の活動が盛んである。『サンガジャパン』もまた、テーラワーダ系を主体とした仏教の総合雑誌である。
 そのスマナサーラ(以下、敬称略)は、同誌に掲げられた被災者に向けてのメッセージ「東日本入震災で被災された皆様へ」で、「皆様方に『天罰』が落ちたわけではないのです。神様が怒ったわけでもないのです。かつて悪業を犯したから、その報いを受けたわけでもないのです。今の災害は誰のせいでもありません。自然法則なのです」と、明快に述べている。
 震災には人為的な要素も考えられるが、それに関してスマナサーラは「我々は自然法則に従って、できる範囲で努力して身を守って生きているだけの存在なのです。人間のいかなる努力もきかない場合は、精神的に落ち込むのではなく、世の常であると理解して、冷静な態度をとるしかないのです」と、人間にできることは小さなことだとして、「一切は無常であることをこの機会に身をもって理解して、智慧を開発すること」を求めている。(以上)


ここに示されているのは、筆者とも言うように“無常の理解から「こころ」の問題へと向い、「智慧」の開発を目指すという筋道”です。

確かに、無常を知って真実に向かうという考え方があります。しかし、私が味わっている仏教は、無常を知ることがそのまま智慧の訪れであるという考え方です。

以前にも、紹介しました豊原大成元本願寺派総長の言葉です。(光風のごとくより転載)

先の阪神大震災で三人の肉親を失われた豊原大成師(当時本願寺派総長)は、「諸行無常はいわば建前、涙こそ本音。私は今もこの建前の無常と本音の涙との間を行きつ戻りつしています」と率直に語られていた。そして「しかし無常という教えがなかったら、いつまでも涙からのがれることができなかった」とも言われる。
人の世に、涙の縁は尽きない。涙と言えば、釈尊に次のような逸話がある。
ある時、釈尊はお弟子に対して、「今までに人々が悲しみのために流した涙と、大海の水とどちらが多いいか」と訊ねます。日頃から釈尊の教えに接している弟子たちは「涙」と答えます。その答を受け釈尊は、「善(よき)きかな、善きかな」と仰せられたと聞く。
阿弥陀如来の慈しみは、こうした大海のような涙の中に誕生したに違いありません。阿弥陀如来の大悲の深さは、涙でできた大海の深さでもある。(以上)

世の出来事を、涙と共に無常と受け入れる。そこに仏語に導かれて世界があるように思われます。無常という仏語そのものが、智慧の発露でもあるのです。
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現代仏教論

2012年08月30日 | 仏教とは?
上野駅の書店で『現代仏教論』(新潮新書・末木文美士箸)を見て購入しました。内容は、ここ数年の間に読売新聞等の媒体で発表してきたエッセイや短めの論考をまとめた本です。第一章は、先の震災をめぐる「震災は天罰」的な議論について、その思想的な根拠について述べられている。

また震災を「さまざまな被害を含めて考えたとき、それを純然たる自然現象と言えるかというと、僕はそうでないと考えています」と、地震災害を単に「自然現象」としてとらえるのではなく、人間の側が作り出した災害でもあるとする著者の考えは、興味深い。

下記は同書からの転載です。

寒川旭『地震の日本史』(中公新書)の[はじめに]に、こういう文章があります。 
「ひとたび大地震が発生した場合、日々の暮らしを豊かにする文明の産物が、牙をむいて襲いかかってくる。家族の団欒の場である住居や家具、電車や自動車などの交通機関、橋梁や高速道路などの建造物が、私たちの生命を脅かす凶器に一変し、石油などのエネルギー資源が大災害を引き起こす要因となる。このように、都市化が進むにつれて被害の規模が拡大して複雑さを増すことになり、同じ地域が地震に襲われても、古代と現代では被害の様相が異なる」
 この言い方は非常に分かりやすいと思います。地震の被害は、かならずしも純然たる自然現象だけではありません。地震が起こり、津波が襲うところに人が家を作り、産業を興し、生活していることによって、はじめて被害が起るのです。(以上)

と自然現象である地震によっておこる災害は、人災である側面を語り,仏教の共業(くごう)という、社会が作り出した業であるとも語っておられます。

その他、現代思想の中で仏教をとらえ、現代の中で仏教を考える姿勢は、教団人にない新鮮さがあります。
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婦人公論が仏教特集

2012年08月29日 | 日記
『婦人公論』(2012年9月7日号)が仏教の特集を組んでいたので、話のタネに書店へ行きました。私の中に『婦人公論』のイメージは、中央公論、文芸春秋タイプで、探せど見つかりません。店員に聴くと、すぐ持参してくらました。

見ると今風の女性週刊誌タイプです。特集は“仏教は女の人生と相性がいい”と特集タイトルが付き、「女性の人生後半には、転機と悩みがいっぱいです。さらには、更年期や老いなど体にも不調を来しやすい頃。そんな時期でも毎日を穏やかに、健やかに暮らす秘訣を、「仏教」に探ってみました。日本人が長く育んできた、深遠なる文化の扉を開いてみませんか」とあります。

私にとっては興味のないものでしたが、イラストをふんだんに用い、購買意欲をそそる内容でした。

他にも上野千鶴子さんの対談(ゲスト田中真紀子)や、小コラムも多く、体裁、内容に感心しました。読売新聞に吸収されたとは聴いていましたが、編集者の力量でこうも変わるかと思ったことです。
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宗教的な善に生きるとは

2012年08月28日 | 日記
教育プログラムの中では、教育的配慮について、しっかりと研究されっていると思われます。素人の私が、とやかく言う筋合いのものではないことでしょう。

実は、教育者ではなく、私を含めた僧侶の中にも、道徳と宗教の善についての未消化の人が多いように思います。

10年ほど前、ご門主の組巡教で福岡県の田川へお供をした時のことです。私の職分は、随行講師です。


行事寺院へ行く車中、私の質問でした。「教書には大谷光真とあり、ご消息には釋即如とある。その違いは何かと質問された。教書は世界へのメッセージで、ご消息は宗派内の人へのメッセージと応えたが。如何なものでしょうか」(意趣)
基本的にはその通りだとのことで、それから法名の話しに花が咲きました。

そしてご門主いわく、俗名を改名して違う漢字の法名を頂く。そしてよく戸籍を法名に改名する人があるが、これはどうしたものであろう。苗字の下に、法名を組み込むのは、本来ではないのではないか。法名を苗字の下に置くことは、国家管理の下に、法名を置くこと。釋○○と俗名は異なっていても良いのではないか。云々。(以上)

どうも現代の仏教徒は、宗教的な世界を精神性だけのものとして、実際生活では国家の法べったりと言う生き方をしているように思われます。社会の中で、宗教的な善に即して生きるとは、いかなることなのか。問われているのは私です。
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教育的配慮

2012年08月27日 | 日記
いじめ報道で、警察への被害届が多いとあります。

以前、悪を扱う場合、法律と道徳(良心)と宗教の見方の相違について書きました。

一番粗い網の目は法律です。法律は結果責任で、結果としての事実が法律で定められたあるラインを超えると、その行為は悪となります。道徳は、差別発言のように結果が法律を犯さしいなくても、悪という名が付きます。師を敬い、友達を大切にしなくても、逮捕されることはありませんが、道徳的には×です。道徳は法律よりも悪に対する感覚が鋭いと言えます。
宗教という物差しは、さらに悪に対する感覚が鋭くなっていきます。たとえば仏教などでは、道徳では悪とされない欲望なども、悪の自覚を持つことがあります。慢心も悪のレッテルが付きます。(以上)

そして“最低限、法律が守られていて、その上に道徳教育があります。道徳は、個人の良心をあてにしています。良心が破たんしている以上、警察への通報は躊躇すべきではないでしょう。”と書きました。でもこの問題は、本当は、私の中では未消化のままです。


未消化も問題点は、法律と道徳(良心)と宗教の善についてです。

一般論として法律では、悪は言いますが善についてはいいません。法律を犯さないのが消極的な善と言ったところでしょうか。道徳では、真善美で、悪を裁くという側面もあります。宗教での善は、悪を抱き取るという側面があります。

『寺門興隆』(2012.8月号)に、「宗教者は警官境内立入りを拒めるか」という記事か掲載されていました。
内容は、カトリック教会で礼拝中に、警官が教会に無断で境内にいる犯罪疑惑者に職務質問し、逮捕。教会は所轄署へ抗議して、これを受け警察は「立入行為の不適切」を認め謝罪したという内容です。

確かに、教会は、犯罪者であってもなくても、その罪人を受け入れるという性格をもち、実際に、罪人であっても礼拝中であれば、そのまま受け入ることでしょう。それが社会的なモラルとして暗黙の了解があるように思われます。まして精神的な面では、悪を受け入れる豊かさ、それが宗教的な善の内容のようです。

道徳教育を身につける場である学校においても、教育的配慮という悪を裁くという道徳を超えて、悪を受け入れ育てるという宗教的な善を視野に入れた教育がなされます。

この当たりの問題の未整理が「いじめという犯罪者の警察への被害届」の有無の混乱をきたしているようです。(続く)
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