先に紹介しました『現代仏教論』を読んでいて関心をもった点を記します。
第一章で、大震災に対する仏教者たちの発言を転載しています。その中に、テーラワーダ、チベット仏教の意見として、雑誌『サンガジャパン』第六号(11年7月)で「震災と祈り」より転載しています。下記のその部分です。
テーラワーダは上座部とも言われ、スリランカや東南アジアで行われている仏教の形態である。日本では、アルボムッレースマナサーラ長老を指導者とする日本テーラワーダ仏教協会の活動が盛んである。『サンガジャパン』もまた、テーラワーダ系を主体とした仏教の総合雑誌である。
そのスマナサーラ(以下、敬称略)は、同誌に掲げられた被災者に向けてのメッセージ「東日本入震災で被災された皆様へ」で、「皆様方に『天罰』が落ちたわけではないのです。神様が怒ったわけでもないのです。かつて悪業を犯したから、その報いを受けたわけでもないのです。今の災害は誰のせいでもありません。自然法則なのです」と、明快に述べている。
震災には人為的な要素も考えられるが、それに関してスマナサーラは「我々は自然法則に従って、できる範囲で努力して身を守って生きているだけの存在なのです。人間のいかなる努力もきかない場合は、精神的に落ち込むのではなく、世の常であると理解して、冷静な態度をとるしかないのです」と、人間にできることは小さなことだとして、「一切は無常であることをこの機会に身をもって理解して、智慧を開発すること」を求めている。(以上)
ここに示されているのは、筆者とも言うように“無常の理解から「こころ」の問題へと向い、「智慧」の開発を目指すという筋道”です。
確かに、無常を知って真実に向かうという考え方があります。しかし、私が味わっている仏教は、無常を知ることがそのまま智慧の訪れであるという考え方です。
以前にも、紹介しました豊原大成元本願寺派総長の言葉です。(光風のごとくより転載)
先の阪神大震災で三人の肉親を失われた豊原大成師(当時本願寺派総長)は、「諸行無常はいわば建前、涙こそ本音。私は今もこの建前の無常と本音の涙との間を行きつ戻りつしています」と率直に語られていた。そして「しかし無常という教えがなかったら、いつまでも涙からのがれることができなかった」とも言われる。
人の世に、涙の縁は尽きない。涙と言えば、釈尊に次のような逸話がある。
ある時、釈尊はお弟子に対して、「今までに人々が悲しみのために流した涙と、大海の水とどちらが多いいか」と訊ねます。日頃から釈尊の教えに接している弟子たちは「涙」と答えます。その答を受け釈尊は、「善(よき)きかな、善きかな」と仰せられたと聞く。
阿弥陀如来の慈しみは、こうした大海のような涙の中に誕生したに違いありません。阿弥陀如来の大悲の深さは、涙でできた大海の深さでもある。(以上)
世の出来事を、涙と共に無常と受け入れる。そこに仏語に導かれて世界があるように思われます。無常という仏語そのものが、智慧の発露でもあるのです。
第一章で、大震災に対する仏教者たちの発言を転載しています。その中に、テーラワーダ、チベット仏教の意見として、雑誌『サンガジャパン』第六号(11年7月)で「震災と祈り」より転載しています。下記のその部分です。
テーラワーダは上座部とも言われ、スリランカや東南アジアで行われている仏教の形態である。日本では、アルボムッレースマナサーラ長老を指導者とする日本テーラワーダ仏教協会の活動が盛んである。『サンガジャパン』もまた、テーラワーダ系を主体とした仏教の総合雑誌である。
そのスマナサーラ(以下、敬称略)は、同誌に掲げられた被災者に向けてのメッセージ「東日本入震災で被災された皆様へ」で、「皆様方に『天罰』が落ちたわけではないのです。神様が怒ったわけでもないのです。かつて悪業を犯したから、その報いを受けたわけでもないのです。今の災害は誰のせいでもありません。自然法則なのです」と、明快に述べている。
震災には人為的な要素も考えられるが、それに関してスマナサーラは「我々は自然法則に従って、できる範囲で努力して身を守って生きているだけの存在なのです。人間のいかなる努力もきかない場合は、精神的に落ち込むのではなく、世の常であると理解して、冷静な態度をとるしかないのです」と、人間にできることは小さなことだとして、「一切は無常であることをこの機会に身をもって理解して、智慧を開発すること」を求めている。(以上)
ここに示されているのは、筆者とも言うように“無常の理解から「こころ」の問題へと向い、「智慧」の開発を目指すという筋道”です。
確かに、無常を知って真実に向かうという考え方があります。しかし、私が味わっている仏教は、無常を知ることがそのまま智慧の訪れであるという考え方です。
以前にも、紹介しました豊原大成元本願寺派総長の言葉です。(光風のごとくより転載)
先の阪神大震災で三人の肉親を失われた豊原大成師(当時本願寺派総長)は、「諸行無常はいわば建前、涙こそ本音。私は今もこの建前の無常と本音の涙との間を行きつ戻りつしています」と率直に語られていた。そして「しかし無常という教えがなかったら、いつまでも涙からのがれることができなかった」とも言われる。
人の世に、涙の縁は尽きない。涙と言えば、釈尊に次のような逸話がある。
ある時、釈尊はお弟子に対して、「今までに人々が悲しみのために流した涙と、大海の水とどちらが多いいか」と訊ねます。日頃から釈尊の教えに接している弟子たちは「涙」と答えます。その答を受け釈尊は、「善(よき)きかな、善きかな」と仰せられたと聞く。
阿弥陀如来の慈しみは、こうした大海のような涙の中に誕生したに違いありません。阿弥陀如来の大悲の深さは、涙でできた大海の深さでもある。(以上)
世の出来事を、涙と共に無常と受け入れる。そこに仏語に導かれて世界があるように思われます。無常という仏語そのものが、智慧の発露でもあるのです。