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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

人間の動物化

2015年05月16日 | 日記
早朝の雨は久しぶりです。ウオーキングを中止して、パソコンに向かっています。

『動物化するポストモダン』). 東浩紀著(講談社新書 1575)を図書館で借りてきました。この本の発行は2001年11月で14年前の出版です。
1995年以降、日本では、人間が動物化し、虚構の時代から動物の時代への転換を向かえた。とあります。

“人間の動物化”という言葉が紹介されています。転載してみます。

動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏─満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。

人間は欲望を持つ存在であるのに対して、動物は欲求しか持たない存在である。
欲望はその充足に他者の存在を必要とし、最終的な満足に到達しない。例えば、恋愛においてわれわれは、その対象の身体を手に入れることで満足するわけではなく、所有していることを他者に欲望されたいと願う。また、他者が所有している対象を欲望する。すなわち、人間は他者の欲望を欲望するのである。
これに対して、動物の欲求は、他者の存在を必要とするものではなく、最終的な満足にいたるものである。例えば、空腹になる。食べる。満たされる。というように。
したがって、人間の動物化とは、人間が他者の欲望を欲望しなくなり、生理的欲求を即物的に満たすようになること、言い換えれば、人々が他者とのコミュニケーションなくして自らの生理的欲求を孤独に満たし始めることをいう。

また、虚構の時代とは、フィクションとしての物語をあえて信じる人々の時代であり、動物の時代とは、物語を必要とせず、データベースから自分に必要な物語を生成する人々の時代である。だから動物の時代においては、「私」は虚構の物語に規定されるのではなく、データベースから自分に都合のいい物語を創造する。

「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な欲望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。…したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーブが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった…。アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。(P125-127)

70年代までの「大きな物語」が有効だった時代に対し、80年代はイデオロギーや「大きな物語」が消失し、その空白を埋めようとして生じた「物語」消費の時代となった。しかしポストモダンが全面化した90年代に入ると、そうした「物語性」ではなく、深層にある情報(データベース)とその情報の組み合わせである「小さな物語」を消費するというデータベース・モデルに移行したという。この本の出版から14年、現代は?

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