仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

七回忌

2020年03月31日 | 日記
仏教婦人会総連盟の講師をしていますが、大分、岐阜での研修会への出講を予定していましたが、中止の連絡が入りました。5月に、長崎と新潟への出講依頼がありますが、どうなりますか。そうした状況の折り、昨日から熊本に来ています。友人の七回忌です。

七回忌でよく、法事の折りにお話しすることです。七回忌を「ななかいき」と読む人が99%です。本来は「しちかいき」と読むべきです。
7は「なな」ですが、七と漢字で書いた場合は「しち」と読みます。それと七回忌は、下記の理由で「七」と表記するのが本来だからです。

以前紹介したことですが『NHK漢字表記辞典』に、数字を漢字で書く語が十項目書いてあります。

○数値をあいまいに示す概数
〈例〉十数人 千数百人 何十年 何百人 何千数人 二十数人

○ 固有名詞
  固有名詞として,漢数字で書くことが慣用になっているもの。
  〈例〉
  二重橋  旧制一高  十八銀行  ○○第一原発
 
○ 紙幣と貨幣
  日本のものは漢数字で表記する。
  
〈例〉
  一万円札 五千円札 二千円札 千円札
  五百円玉(硬貨)百円玉(硬貨)五十円玉(硬貨)
  十円玉(硬貨)五円玉(硬貨)一円玉(硬貨)
 
ただし,外国の通貨と併記する場合などは算用数字を用いてよい(1万円札 1000円札 100円硬貨)。

○ 日本の伝統文化や歴史,宗教,習俗に根ざす語
  
〈例〉
  一周忌(注10)三回忌(注11)四世鶴屋南北 五重の塔
  六代目尾上菊五郎 十五代目市村羽左衛門
  七堂伽藍(がらん)七五三 お七夜 絵本太功記十段目
  十七条の憲法 八十八夜

(以上)この中に「七」を「シチ」と発音するものがあるということです。


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価値観についての論義

2020年03月30日 | 現代の病理
アップ忘れで、埋もれていた文章です。

昨日(26.12.8)産経新聞に京大教授の佐伯啓思氏が「価値観についての論義欠如」というタイトルで、現在行なわれている選挙の論点で欠如している点を指摘されていた。その部分だけ転載します。


地方創生にせよ、人口1億人維持にせよ、具体的な姿が見えてこないし、そもそも成長戦略たりうるのかもわからない。まだ何かがかけているように思われる。では何が欠けているのであろうか。私には、根本にあるはずの価値についての議論が欠如しているように見える。… いくら人口政策をとっても、せいぜい減少率を緩やかにする程度のことであろう。グローバル競争を前提にする限り、実質賃金を上昇させるのかかなり困難であろう。少子高齢化社会とは人々が活発に消費にいそしむ社会とはいい難いであろう。
 これらのことは将来の社会像を描く場合の基本的な条件になる。良いも悪いもない。現実問題として日本は人口減少・少子高齢化へ向かい、おまけに巨大自然災害が予測されている。今後、多くの先進国が人口減少・高齢化へ向かうというものの、日本はその先頭を切るという意味でも相当に特異な状況に置かれているのである。とすれば、この10年、20年で、どのような社会を実現するのか、その将来像について、ある程度の見通しがなければならない。どのような価値に即して将来社会を構想するかという価値選択の問題でもある。大変難しい課題ではあるが、そうして初めてどの分野に中心的に資源を投入するかとしいう成長戦略も有効になるだろう。 (以上)

これは他人事ではない。どのようか価値観を持った社会を望むのか。「安くて便利で快適」な社会か。「安くて便利で快適」な社会は、自分中心のタコツボ的幸福を是とする社会です。「人のぬくもり、その人らしさ、人との出会い」といった“人”が大切にされる社会。まずは、それをお寺から発信していかなければならないと記事を見ながら思ったことです。

「人にやさしい」とは、仏教でなくても説きますが、では具体的にと考えると、「苦しみの中にある自分も」大切にできる社会でしょうか。いや苦しみの中にこそ、大切な出会いや未来が隠されています。
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醜形恐怖

2020年03月29日 | 現代の病理
書庫に『不幸な国の幸福論』 (集英社新書・加賀乙彦著・2009年12月16日)があり、ざっと目を通しました。その本からの転載です。

なぜ、醜形恐怖が増えているのか。その原因を、精神科医の町澤静夫は、『醜形恐怖』という本で次のように分析しています。要約してご紹介しましょう。

○「見た目」を重視する時代・社会ゆえに、美醜についての意識が過剰になっている。 テレビや雑誌などの視覚を中心とする情報の洪水のなかで生きている現代人は、どうしても外見にとらわれ、「見られる自分」の意識を強めてしまう。外見のほうが簡単かつ正確に把握できるため、内面への関心や内面を見ようとする努力が失われつつあること、顔や体の美醜を強調する情報が氾濫していること、さらに人間関係が表面的で人と人とが深く心を通じ合わせるのが難しくなっていることが、その傾向に拍車をかけている。

○「愛されたい」願望の強さと内省力の欠如。
 醜形恐怖の人は、他人に認められたい、受け入れられたい、愛されたいと思うあまり、緊張してぎこちなくなり対人関係がうまくいかないケ-スが多い。しかし、自分が受け入れられない理由を対人関係の低さや未熟者ゆえとは考えず、容姿が悪いからだと問題をすり替えてしまう。その根底には、問題に直面したときに、それをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力に欠けているという現代人特有の問題が潜んでいる。

町澤氏が指摘している二つの問題点、「見られる自分」に対する意識の強さと「悩み抜
く力」の欠如は、醜形恐怖の人ほど極端ではないにせよ、日本人の多くが共通してもって
いるのではないでしょうか。

人間には残念ながら、自分より下の存在をつくることで不安や焦りを解消する性向があります。自分に自信がなく、人と自分を比べて心のなかで優劣をつけている人ほど、いじめという行為に走ってしまう。しかし、他者との比較や競争、他者からの評価と無関係な「好き」を見つけられれば、それを核にして少しずつ他者を気にすることから解き放たれていきます。「自分は自分」と思えるようになり、健全な自尊心が育っていくのです。

幸福を定義してはいけない
幸福を定義しようとしてはいけない、幸福について誰かがした定義をそのまま鵜呑みにしてもいけないということ。
幸福とはこういうものだと考えた途端、その定義と自分の状態とを引き比べ何かしらのマイナスを見つけてしまう傾向が私たち人間にはあるのですから。(以上)

この本のとどのつまりは「他人と比べずに、生きていることに感謝」と言うことの尽きるようです。
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本願寺派と大谷派との相違

2020年03月28日 | 日記
このブログで、書いたままアップ忘れの原稿があります。下記のその一つです。

浄土真宗本願寺派と真宗大谷派との相違

浄土真宗本願寺派と真宗大谷派、分派して400年。その違いは本山へ行っても、本山の伽藍配置も、御影堂と阿弥陀堂の位置関係が逆になっていたり、堂内の外側の柱が大谷派は丸、本願寺派は角、畳の敷き方(大谷派は縦、本願寺派は横)まで違います。

お荘厳では本派にあって大派にないものとして①金張の柱 ②戸帳(仏さまのカーテン)③仏具の宣徳(真鍮でない)④輪燈・木瓜形(もっこがた)⑤人天蓋⑥翠簾などです。分派の当初は喚鐘は本願寺派でけでしたが、いつの間にか大派も使用しています。

少し箇条書きにしてみます。
仏飯 本派・蓮含形(れんがんぎょう)、大派・蓮実形 本山本派上供後勤行、大派勤行後上共
二連珠 本派・切房、大派、頭付(これは習慣です)
焼香 本派1回、大派2回(代香の場合は一回、2撮(さつ)という)
香炉 大派は透彫土香炉を用いる

西本願寺(浄土真宗 本願寺派)では「な"も"あみだぶつ」、東本願寺(浄土真宗 大谷派)では「な"む"あみだぶつ」と発音するのが一番大きな違いです。
本尊 本派、大派ともに光明は48本だが大派の上の光6本に対して本派は8本

衣にいたっては、かなり相違します。これは大派が古い様式を継承しているからです。たとえば足袋は、襪子(したうづ)という足の指割れのない足袋も使用も可能ですが、実勢にはあまり利用されていないようです。でも皇室などでは、足袋は襪子(したうづ)です。七行袈裟の下に着ける衣も袍裳(ほうも)といって、上依の袍と腰に巻く裳が二分されています。本派も江戸時代は、大派の形式でした。
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スピリチュアルケアの要諦

2020年03月27日 | 苦しみは成長のとびら
柏市の図書館は、相変わらず閉鎖ですが、県立の図書館は特別の窓口でリクエストした本の貸し出しだけは行っています。県立の図書館で『生――生存・生き方・生命 (自由への問い 第8巻)』 (加藤 秀一編集)を借りてきました。この本の中に、奥山敏雄筑波大学教授〔死にゆく過程の構築と生の意味をめぐる自由〕という論文が目当てでした。
奥山敏雄筑波大学教授は、
「スピリチュアルケアにおける死にゆく患者と医療者との対話」「死の受容と最後の成長−−キュブラー=ロスの死にゆく過程論の変容—」「近代ホスピスの形成とシシリー・ソンダースの位置」「宗教的ケアとスピリチュアルケア」「田代志門著『死にゆく過程を生きる』(世界思想社)を読む」「死と社会--終末期医療の社会学的意味--」「生の意味の位相とスピリチュアルケアの深度」等の論文を書かれており、以前から読んでいた方です。

標記の本から、気になる部分だけ転載しておきます。

 特定の自己実現への固着、特定の自己-他者関係への固着ではなく、そうした固着が解体させられ、何かを達成することによる意味の調達が不可能となるなかで、生きることがわれわれに問いかけてくる。死に直面し、苦しみと向き合い、この苦しみを与える《今ここ》の生こそが、「全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだ」と感受されねばならない。日常的役割自己としての生きること、その意味ではなく、そうした自己を解体させてしまうような、死に直面し苦しみにあえぐ《今ここ》の一瞬一瞬の生か突きつけてくる問いかけに、具体的に応答しなければならないのである。
 その問いかけに応答することにより、自己を超えた世界へ、世界の偶有性へと開かれていく。この自己超越性を生き抜くことは、自分自身を自己実現に関与させることによってではなく、むしろ逆に自分白身を手放すこと、自分自身の外側に関心を集中させることによってなされる。

ソンダースによれば、スピリチュアルケアの要諦は、他者を理解し他者に何かをしてあげることではなく、それらが不可能な地点で死にゆく他者との絶対的隔絶にとどまり続けることだという。なぜなら、死にゆく人はそれまで身につけてきた仮面や被いを取り払い、他者にもその人自身として目の前に立つことを求め、一切の防衛をなくし、相手の言葉に耳を傾け、傷つくことができることを求めるからだ。つまり死にゆく人は、自己物語が解体し役割存在としての自己が総じて溶解することにより、はじめて他者との絶対的隔絶に曝されることになり、自己欺瞞に鋭敏になるのだ。自己も他者も、やがて死すべき者として《今ここ》に出会っていることが感受されるからである。(以上)
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