家族が自死で悩んでいる人へのアドバイスを求められ、実際に出した手紙を、参考例として送りました。その一本目です。
「堕胎の悲しみ」への返信
「拝復 お手紙ありがとうございました。お辛い日々をお過ごしのこと、ご心痛お察し申し上げます。やっと恵まれたお子さん、ご出産の希望、将来への夢、そうしたなかでの苦渋の決断、後悔や自分に対するその怒り、失ったことの悲しみや懺悔、解決できないその思いは、経験したことのない私の計り知れるところではないほどに深いことでしょう。
思うところを、そのまま言葉としてお伝えしますので、非礼がありましたらお許しください。
私は常々、人が存在することの不思議を考えることがあります。隣に住んでおられても、縁のない方であれば、事故で死亡しても悲しみは起きません。
思うところを、そのまま言葉としてお伝えしますので、非礼がありましたらお許しください。
私は常々、人が存在することの不思議を考えることがあります。隣に住んでおられても、縁のない方であれば、事故で死亡しても悲しみは起きません。
しかし遠く離れていても、情の通った人であれば深い悲しみをもちます。人と人の関係は、距離の遠近や関係をもった時間の長さではなく、その人が私にどのような影響を与えた方なのかが、私にとってのその人の本質なのだと思います。
今、死別という悲しみのなかで、あなたの上に、この子が宿らなかったら、縁をもたなかったであろう、さまざまな出会いが、池にできる波紋のように広がっていることでしょう。今、こうしてお手紙を差し上げるということもその一つです。
今、死別という悲しみのなかで、あなたの上に、この子が宿らなかったら、縁をもたなかったであろう、さまざまな出会いが、池にできる波紋のように広がっていることでしょう。今、こうしてお手紙を差し上げるということもその一つです。
こうした亡きお子さんをご縁として生じた新しい波紋こそが、大きな意味で、先に逝ったお子さんの人格であり、存在の証なのだと思います。お子さんのエネルギーは、五体の枠を越えて縁のあった私たちに、さまざまな形で影響を与え続けています。お子さんは遠い手の届かない世界に行ったのではありません。
もし、あなたが亡き子を思い、その短かかった存在を通していのちの不思議、いのちの尊さを思うならば、今、あなたにいのちの不思議、いのちの尊さを思わせた存在として、共にここに居てくださっています。
お手紙のなかに『神様のもとへお返ししよう』と決断したとありました。おそらく神という言葉で現実を受け止められたということで、ご自身の信仰から導かれた言葉ではないのだと思います。もし間違いでしたらお許しください。
私は、『神様のもとへ』は自分を慰めるための言葉ではなく、真実なのだと思います。お子さんはあなたの上に受胎して何か月か過ごされ、また神のもとへ行かれた。
お手紙のなかに『神様のもとへお返ししよう』と決断したとありました。おそらく神という言葉で現実を受け止められたということで、ご自身の信仰から導かれた言葉ではないのだと思います。もし間違いでしたらお許しください。
私は、『神様のもとへ』は自分を慰めるための言葉ではなく、真実なのだと思います。お子さんはあなたの上に受胎して何か月か過ごされ、また神のもとへ行かれた。
その事実は、私の言葉で言えば、仏さまのお仕事をされに来られた。その仏さまのお仕事がなんであったのかを見つめていくなかに『神のもとへ』と、あなたが本当に頷いていける世界が開かれてくるのだと思います。
悲しみや苦しみには、大切な意味があります。その悲しみや苦しみを通して、今まで経験したことのない心の領域に到達していくことが、亡き子から頂いたご縁を深めていくことなのだと思います。
思うところを書きました。どうぞご自愛の上、頂かれたご縁を大切にご相続ください。」