仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

これが幸福の科学の信者実数

2009年08月31日 | 都市開教
幸福の科学、団体への投票は約45万票。まあ頑張ったというか、それが現在の教団の信者数なのだろう。新聞広告の割には票が伸びなかったなあーという感想です。

宗教教団は、一定の勢力を持つようになると、社会的な安定性を志向し、社会の常識に沿った活動をし、社会の役割も負うようになる。その分、非常識的な経説やパフォーマンスを失っていく。創価学会しかり立正佼成会しかり、平和運動や文化事業の仮面を対社会的ふるまっている。その分、直接苦しみにかかわってその人を変革していく活力が失われていく傾向にある。


それが既成仏教のように数百年となれば、人を変革していく活力のないところに知識人は安心を見出し、自己を否定するといった宗教のダイナミックな源泉に触れることなく、宗旨宗派がアクセサリーや茶道の流儀のごとき文化として生活に定着していく。

都市における開教の役割は、そうした文化人の心の壁を突破することが求められる。といって既成教団の「何もしない」ところに安心を見出している教養人に、どのようにして真宗のダイナミックな教えに出会ってもらうのか。ここに1つの課題がある。

このひと月、新宗教の布教戦略をまとめている。東京の仏教学院で講義するためです。新宗教が行ってきた布教の手立てをそのまま真宗も用いれば良いというものではない。記述したように「何もしない」ことに、伝統や安心を見出している人にとっては、お寺でジャズをやったり演劇をする程度が、安心を壊さずにすむ許容範囲だ。

もろもろを考えて都市開教の活動は、やはり平時の浄土真宗の啓発活動と、常識が無力化する老病死の苦しみとの遭遇時が廻心の機縁であり、そのためのその人と関わるための手立てとしての諸活動が重要です。―これは私の活動メモです。
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大きな物語の中に生きる

2009年08月30日 | 現代の病理
衆議員選挙の結果(21.8.30)が出る。政治家は国と国民とが現在と未来にむけて安心できる社会を提示し、そのために自分がなすべき役割を明確にして働く。その中には精神的に安寧できるシステムも入っているが、思想や信仰に必要以上の介入はしない。それが政治と分限だろう。

では宗教の機能はなんだろう。19世紀の西洋においては、宗教の社会統合的機能や宗教的権威が平和の礎としての役割を担っていた。でも現在では人間の内面の平和を提供する文化装置として扱われている。
 
創価学会のように世直しを標榜する宗教もある。それは1つの考えや信仰に対する執着(真理に対する執着)だと思う。非常な危険性をはらんでいる。正義ほど厄介なものはない。

政治家が国と国民とが現在と未来にむけて安心できる社会を提示するのならば、宗教は、国民が現在と未来に向けて安心できるコスモス(秩序のある価値観)をあたえ、生きる意味を提示することだろう。では政治や社会と無関係かと言えば、聖徳太子が「世間虚仮 唯仏是信」といわれたように、世間で起きていることは、絶対的なものではないと、物事を相対化していく。それが1つの役割だと思う。

物事を相対化させる。その1つに幸福がある。幸福は、考え方や価値観によって何を幸福とするかは相違する。それは当たり前だが、それぞれの時代によって、幸福に忍び寄っている闇があるように思う。

数日前「反省の個人化」という闇について書い。同様に消費社会の中で、消費によって「幸福」をえることが当然となり、幸福のタコツボ化、幸福の自己完結的な個別化という闇があるように思う。個人の経済的な安定など永久ではないのだから、その幸福の根底には常に喪失する危機があり不安が仕込まれている。幸せだが孤独、あるいは幸福だが幸せの実感がない人びとを生みだしている。

幸せであっても時として不幸であっても、大きな物語の中に生きている実感、大きな秩序に支えられている安心、この大きな物語と秩序を提供こそが宗教の役割だと思う。

幸福実現党の戦略、基本的に一人も当選しないことを前提としての論法です。全国で30万票取ればすごいと思う。10万票くらい、これは私の予想。
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幸福実現党ー私の推論

2009年08月29日 | 新宗教に思う
選挙一色の新聞紙面中に、女性誌「アー・ユー・ハッピー?」(幸福の科学出版)の発刊広告が掲載されていた。キャッチフレーズには、「女神のための心スタイルマガジン」という冠のついた、いまを生きる女性のための応援雑誌とある。

選挙の結果は明日(21.8.30)判明するが、幸福実現党の狙いは何か。みな興味があるところです。供託金だけで額約11億円、広報にどれだけお金がかかるかを知っている当該グループなら、公共の電波で毎日、選挙公報で流れる「幸福実現党候補者…」は、安いものだと知っているはずだ。


社会評論に主とした月刊『リバティー』誌や大川隆法主宰の著作などは、すべて書店で購入だ。書店を通さない方が利益はあるが、書店を用いることで、一般の人へのアクセスーチャンスがふえ、一般社会に幸福の科学の存在を示し、自らが威力ある情報提供者であることを誇示することができる。この巧みな布教戦略を選挙で活用しているのではないかが、私の推論です。

既成教団もメデイアを使った広報を沢山行っているが戦略がない。昨日、ふと思ったことですが、拙著『親鸞物語』が、本願寺出版社刊ならば、宗教の時間で取り上げられなかったに違いない。小さくても一般出版社の歴史小説部門の作品、これが門信徒以外の人をターゲットにするためには方法だと思う。
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かっとなって何をするか分からない症候群

2009年08月28日 | 現代の病理
「かっとなってやった」。近年、やたら多くなった。それも殺人となれば、もはや現代の病理だろう。

今日の新聞報道に
野良猫の餌やりを注意されたことに腹を立て、近所の女性を刺したとして、千葉県警船橋東署は27日、船橋市習志野台、無職林喜市容疑者(70)を殺人未遂容疑などで現行犯逮捕した。(中略)
 林容疑者は、昨年秋から野良猫に餌をやるようになり、岡戸さんに注意されていたといい、「かっとなってやった」と供述しているという。
(2009年8月27日19時55分 読売新聞)

15年前、娘が幼稚園に行っていたとき、幼稚園の父母の会の会長を仰せつかった。幼稚園でわたしの講演会もやって頂いたが、わたしが推薦して児童精神科医の佐々木正美先生をお招きして講演会を開催した。佐々木先生はエリクソン(Erikson, E. H.)の理論(http://rzt.sakura.ne.jp/shinri/2006/01/post_1.html)を継承する方です。

講演の中で、大学医学部で解剖の実験中でも、学生が叱責に相当する行為をしても、教授はまともに叱れない。後で場所を変えて注意すると言われていた。その先生の言葉を不自然におもわず聞き流したので、その当時すでに、カーとなる刺激を与えたら何をするか分からないという青年像があったのだろう。ところが現在はそれが蔓延して老若男女をとわず「なーとなったら何をするか分かれない」状態になってしまったようだ。

こうした病理を作り出している原因はいろいろであろうが、その1つに、反省が個人主義化していることがあげられるかもしれない。反省が個人化するとは、自分の誤りを正すとき、自分の理性をよりどころとすることに始終することです。以前は、無意識のうちに他者、社会、自然、歴史、神仏に照らして慚愧するということがあったと思う。その理性がかっとなりコントロール不能になれば、何をするか分からない。

精神衛生的にも毎朝、先祖や仏様に手を合わすことの利点を文化をして見直すぎりぎりの所に来ている気がする。
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私の親鸞像

2009年08月27日 | 日記
NHKラジオ「宗教の時間」の収録(西方寺にて)でした。題は「私の親鸞像」、30分番組で何分くらい録って編集するのかと思っていたら、40分の対談でした。それを編集して30分にするとのこと。

日時は9月27日(日)午後8時30分(再放送10月4日午後6時30分)とのこと。私の『親鸞物語』を読んで、元NHK宗教番組チーフディレクターである金光寿郎(写真)がいわく「今まで親鸞聖人の歴史的ことを記述した本を読んだが、その出来事の心的な情景が分からなかったが、この本でその部分がよくわかった」(意趣)といわれていて評価が高かった。

この収録で、私がこの本を書いた動機付けや、書きたかったことを見直すことができたので、良い機会でした。11月に東洋大学の文化祭で「親鸞物語」で講演をするが、そのための準備も終わってしまいました。
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