仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「尼崎事件」④

2012年10月31日 | 日記
人間にとって耐えがたいものは無秩序状態であす。精神面においても、人はその時代の秩序に染められているとも言えます。悪く言えば、その時代に常識に洗脳されているということです。

洗脳という言葉の関連から言えば、このたびの「尼崎事件」にしろ「オウム事件」にしろ、精神の領域が無秩序状態にあるよりも、たとえ洗脳状態にしろ、その方が生きやすいのだろうと思われます。

現代の日本は、国の強い柱となる秩序がなく、自由を謳歌しています。悪く言えば、ある種の無秩序状態が空気のようにあるとも言えます。

以前、「アディクション」という病理について触れました。嗜癖(しへき)、医学上は「依存」として呼ぶことが多いようですが、最近の傾向として、病的賭博、摂食障害、処方薬や市販薬への依存、アルコール問題、人格障害の併存など、嗜癖問題の多様化や複雑化が言われています。

「アディクション」には、(以下ネットからの転載)

物質嗜癖
特定の物質の摂取に関する嗜癖。酒・タバコ・向精神薬・乱用薬物が対象になりやすい。アルコールなら、ダメだとわかっていても朝から酒を飲まずにおれず、酒しか楽しみがなく、肝臓が悪くなっても酒をやめない。
過程嗜癖
特定の行動過程に執着する嗜癖。その行動を抑えがたい欲求・衝動があり、他の娯楽を無視し、有害事象が起きてもその行動をやめない。パチンコなどのギャンブル・ショッピング・日常的暴力・性行為などが対象となる。
関係嗜癖
特定の人間関係に執着する嗜癖。家族・恋人などの間に起こりやすく、共依存・恋愛依存などがこれにあたる。共依存では、「自分がいなければあの人はダメ」と信じ、献身的世話の中に高揚感を得る。
(以上)

などが言われています。この「アディクション」がなぜ現代の病理として流行るのか。それは人はある種の拠り処となる秩序が必要であり、現代日本の無秩序状態のなかでは、好ましいことではないですが、「アディクション」が仮想の秩序としての役割を果たしているとも言えます。

現代日本における浄土真宗の希薄化と、「アディクション」の流行は無縁ではなりません。
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「尼崎事件」③

2012年10月30日 | 日記
昨日の続きです。イスラム、アラブ社会で独裁者が倒され、独裁者の存在によって保たれていた秩序が失われて、さらなる混乱に至るという現象があります。独裁政治よりも、さらに恐ろしいのは無秩序だと言われます。“自由”と“無秩序”は同じ内容を持っています。わがまま、自由奔放、束縛がない状態です。それを制御するのが政治であり文化です。

その点、動植物は種の中に、無自覚的にある種の秩序を持って誕生し、成長の秩序に従って死に向かっています。ところが人間は、人間存在そのものの中に、そうした秩序を持ち合わせていないので、縁によって無限な可能性があります。その無限の可能性をコントロールするのが、言葉が重なりますが、文化であり政治であり、さまざまなご縁です。

浄土真宗では、人間のことを「機」(き)といいます。仏さまの教えを受け入れる対象という意味ですが、「機」の内容は、細かく3つの面から説いています。1.可発ーさまざまな可能性を秘めている。2、変ーさまざまに変化する。3、機関ー受容したものを表現する機関となる。ともに主としては“信心獲得する可能性”の上で語っていますが、悪い方向でいえば、人は鬼にも邪にもなるということでしょう。

あってはならないことですが、このたびの「尼崎事件」は、被告が生み出したことですが、本来人間が待っている性質が生み出したものであり、事件そのものの誘発の背景には、日本社会にある“自由”のもつ悪い面が生み出したとも言えます。
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「尼崎事件」②

2012年10月29日 | 日記
「尼崎事件」、これ以上悲惨な事件はないと思うほど、特異な事件です。人間の分限は、洗脳、殺戮と本当に縁次第であることを、報道に接するたびに痛切に感じます。

動植物には、その種のもっている分限があります。

明恵上人に「大根さま」の逸話があります。明恵上人は、常日頃から「大根さま」「人参さま」と野菜に「さま」をつけて呼称していた。おかしく思った弟子が、その点を指摘すると明恵上人いわく「お前、考えてみろ、大根は土の上にまかれて長い間、風雪に耐え、大きくなったら抜かれて、刻まれたり、熱湯に入られたり、それでも不平不満を言うことなく、大根の生涯を全うしている。様という文字は、“らしく”という文字、大根は大根の分限を守っているところに、大根さまとなる。坊主は坊主らしく、女は女らしくその分限を守る所に“さま”という呼称が付。私は、出家しながら坊さんらしいことも不十分で、大根さまにも見劣りがする…」

人間の分限は、縁次第でいかようにもなる、仏のもなれば畜生や鬼にもなる。これが人間の境界の恐ろしさでしょう。その意味での、「尼崎事件」のもつ、現代へのメッセージ性は大きい。単なる一地方の事件というだけで終わらせてしまっていいのかという感慨をもちます。
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高須克弥氏は大谷派僧侶

2012年10月28日 | 日記
ある住職と話していたら、「高須克弥氏(高須クリニック院長)は浄土真宗(真宗大谷派)で得度されている」とのことでした。時間があったので、氏のブログ記事を見たら、(http://ameblo.jp/drtakasu/entry-11071227514.html)その様子がありました。あのヘリコプターの先生です。昨年11月のことです。

ブログには、「お釈迦様は加持祈祷を好まれなかったが、民衆が天皇陛下のために祈ることは、御許しになるのではなかろうか」と一晩中祈ったとあります。
また「僧 釈克念として、仏法を広め、世の助けに一身を捧げるつもりであります」ともあります。

浄土真宗(阿彌陀さまのおこころ)は許容範囲が広いから、まあ、いいでしょう。
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今から君は石です

2012年10月27日 | 日記
ここひと月くらいの間に読んだ本だと思いますが、いずれかの本に次のような描写がありました。子どもに「はい、いまから君は、石になります」というと、子どもはジッと動かずに、石に成りきっていた、と言うものです。この描写が、どのくだりに説かれていたかは失念しましたが、昨日から思い出して面白い話だと回想しています。

子どもに、“動かないで”というよりも、“今から君は石です”とイメージを与えた方が、子どもばかりではなく大人でも効果的です。役者も、その役を演じるには、イメージを作って、その役に成りきっているのでしょう。

スポーツでも、自分が実際に行っている場面をイメージする、イメージ活用法はすでに一般的です。ヨガでもイメージ通りに、身体を動かしていくと言うものでしょう。

浄土真宗以前の浄土教は、このイメージを活用した観法でしたが、観法ではなく、このイメージを利用した、新しい伝道方が、漠然とですが、あるような気がします。こうして問題意識をインプットしておけば、いつか“ふっと”思い当たることがあるかも知れません。
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