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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

お子さんを亡くされた方への手紙

2011年10月31日 | 苦しみは成長のとびら

昨日の続きです。何かアドバイスになるようなものをとのことでしたので、本を送ろうと思いましたが、本はやめて手紙にしました。

ご法事の後、短い時間でしたが、御事情を少しお聞きしました。お辛い日々をお過ごしのこと、ご心痛お察し申し上げます。成長して自分で歩み始める矢先の出来事、苦しみを察してあげらなれかった後悔や自分に対する怒り、失ったことの悲しみや懺悔、解決できないその思いは、経験したことのない私の計り知れるところではないほどに深いことでしょう。

 思うところを、そのまま言葉としてお伝えしますので、非礼がありましたらお許しください。

 私は常々、人が存在することの不思議を考えることがあります。隣に住んでおられても、縁のない方であれば、事故で死亡しても悲しみは起きません。

しかし遠く離れていても、情の通った人であれば深い悲しみをもちます。人と人の関係は、距離の遠近や関係をもった時間の長さではなく、その人が私にどのような影響を与えた方なのかが、私にとってのその人の本質なのだと思います。
 亡きお子様は、ご家族やご両親に色々なことを残されて去っていかれたことでしょう。今は思い出となっている出来事や、いま抱いている悲しみや怒り虚しさも、故人が遺してくれたことの一つ一つだと思います。その悲しみを通して、どのような世界に出会っていくかが大切です。

 悲しみや苦しみには、大切な意味があります。その悲しみや苦しみを通して、今まで経験したことのない心の領域に到達していくことが、亡き子から頂いたご縁を深めていくことなのだと思います。

 拙著『脱常識のすすめ』(探求社刊)のなかに、当寺会員のAさんとの出来事を掲載しています。

 「Aさんは、六歳の愛児を交通事故で亡くしました。ご両親の目の前での事故、ご親族のご悲嘆はかける言葉がありませんでした。お通夜の席でのことです。
 浄土真宗では、お通夜の読経のあと、法話をすることになっています。何をお話ししても、ご両親の悲しみの慰めにならない状祝でした。そのとき、ふと何かの雑誌で読んだ話を思い出し、その話をさせていただきました。
 「B君が、まだ自然のふところに包まれているときのことだそうです。今度生まれることになっている子供の寿命は、六年しかないことを知った仏様が、B君に語りかけたそうです。『B君や、今度生まれることになっている子供の寿命は、六年しかないから、もっと長い寿命をもった人の上に生まれてはどうか』。
 そのとき、B君は仏様にこう言ったそうです。『仏様、ぼくはたとえ六年間であっても、あのお父さんと、あのお母さんと、あのおばあちゃんと、あのおじいちゃんと、そしてあの家族のいる家に生まれたい。そして六年間仏様のお仕事のお手伝いをしてきます』。
そして月が満ち、この世に誕生し六年間、仏様のお仕事をして帰って往かれた。その仏様のお仕事とはなんであったかを聞いていくということが供養ということです。
控え室に帰戻ってしばらくすると、ご両親が挨拶にこられました。目には涙をいっぱいためておられます。そしてご主人が声に力を入れて言われました。『ありがとうございました。Bが浮かばれます。仏様と受け取ります』。
 その後、このご夫婦は、阿弥陀如来とのご縁を強くもたれるようになりました。法話会がある日には会社を休み、一番前で聴間し、仏教書や法話の録音に耳を傾ける。今まで当たり前と思っていたことが、大変な価値のあることであったと、人生観が一変したと言います。
車のなかで、仏様の話を間きながら、『こんな世界もあったのか』と涙したとも聞きます。三か月ほど経ったある日のこと。一緒にお茶を飲んでいると、『あの子は、何が太切かを教えにきてくれた仏様かもしれません』とも言われました」(以上)

『涅槃経』に“人類が悲しみと苦しみのなかで流した涙は、大海の潮より多い”とあります。そうした悲しみの涙の中で、多くの人が生と死を超えた優しさや智慧に寄り添い悲しみの中にある私を生き抜いてきたのだと思われます。

 亡きお子さんは手の届かない遠いところへ行ってしまったのではありません。あなたが悲しみに涙するとき、その涙を流させた存在として、思い出に潤うとき、思い出を共にした存在として、もし悲しみを通して悲しみを超えた大きな世界に開かれるとき、そうした世界に導いてくれた存在として、身近に寄り添ってくれています。
 もしメールでよろしければ、お話をお聞きします。nishihara@jade.dti.ne.jp
どうぞ御身体ご自愛ください。

                      西方寺 住職
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oさんへの手紙

2011年10月30日 | 苦しみは成長のとびら
昨日法事の折、5分下さいとアドバイスを求められました。その方への手紙です。

0さんへ

昨日はご法事の法縁ありがとうございました。ご法事のあと、少しの時間でしたが、甥を自死で失い、「御姉さまの自責の念や深い悲しみに、なんと言葉をかけて良いか」と、ご深刻な心の内をお伝えいただきましたこと、ご心痛お察し申し上げます。

その折、お伝えしたことですが安易に励ましや希望を伝えてしまうことが多いのですが、そうした行為からは、多くの場合、その場しのぎの文言に終わり、伝えた側に虚しさが残るばかりです。といって、どのような言葉をかければよいのか。ただただ沈黙があるばかりで、何もしてあげられない無力感を覚えるばかりでしょう。

しかしこの無力感の中から光が差し込んでくるということがあります。無力感の中に身を置くということは、普通できがたいことですが、もし無力感の中に安心してわが身を置くことができる人がいるとすれば、それは自分の能力を超えた、大きな働きや大きないのちに身をゆだねる人なのだと思います。

御姉さまの悲しみに対して、二方面の行動があります。一つは、お姉さまにどのようなことをして差し上げられるかということです。これは悲しみや怒りをお聞きするばかりであろうと思われます。話を聴くということは、悲しさや怒りのその人を肯定することになるので、その人の居場所を提供することになります。安心して悲しみ怒りを表現できる関係が最良です。

もう一つは、何もしてあげられない無力な私を、どう受け入れるかというご自身の問題です。無力か場所わが身を置くことは辛く避けたいことですが、先にも書きましたが、無力感を通してしか開かれてこない世界があります。そうした可能性を信頼して、御姉さまに寄り添ってあげて下さい。
別紙で、御姉さまへの思いを綴ってみました。もしお許しがいただけるのならば、お渡しください。

平成23年10月30日     西方寺 住職

もう一通は続く
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脱成果主義

2011年10月29日 | 仏教とは?
「正解主義」→「修正主義」の続きです。大方のベンチャー企業は、「修正主義」で経営をしています。私のブログも、答えがあって書いていくのではなく、書きながら結論に近づく方法で書いています。お寺の活動も修正主義で取り組んでいます。

ところが仏教の学問となると、各大学とも、いまだに正解主義をとっています。そのあたりの学びの方法は検討大です。

少し時間が戻りますが、北海道で知人から「せいかい主義…」と聴いて、ネットで調べるまで、「成果主義…」と勘違いして、藤原和博さんは、脱成果主義を提唱しているのだと思っていました。

成果主義は、結果で物事を判断していくことで、「成果」で給与を査定したりします。しかし、従業員の会社への信頼感が低下して社員の能力の弱体化に繋がるとも言われています。また将来性といった長期的な貢献や、意欲や途中の過程(プロセス)はあまり評価されないことが多く、企業では、あまり採用されていないようです。

しかし成果主義の不採用は企業間のことで、人としての生き方となると、大方「成果主義」で生活しているのではないでしょうか。幸福イコール欲望の達成という構図です。そして目標の達成、すなわち成果によって、努力が報われたとなります。

その幸福イコール欲望の達成という成果主義を批判して、幸福は欲望を達成しようとする過程、過程のその中にある、そんなことを藤原さんが言っているのかと勝手に想像していました。

脱成果の考え方は仏教の説くところで、“結果を生きがいとしない”というものです。今を生きるとは、結果ではなく、結果に至る手段そのもののなかに息づくことだからです。

脱成果主義、藤原さんが言っていないのならば、西原祐治が言います。
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共通する発達課題

2011年10月28日 | 苦しみは成長のとびら
読売新聞(23、10、27)スポーツ欄に“挑む”と題して、ゴルフ石川令(20歳)の記事が出ていました。その掲載記事の最後に次のようにありました。(下記転載)

しかし、未勝利の今季はスーパーショットがあまり見られない。自分の中に技術が向上している確信はある。一方で「成功も失敗も、いろんな経験を積んだことで考えることが多くなった」。だから、危険を顧みずに攻めていたケースでも、ミスを恐れてしまう。「今はその怖さと闘っている」。経験を積んだ分、逆に苦しみが増すゴルフの難しさに、20歳のゴルファーがもがいている。  (以上)

興味を引いたのは、“経験を積んだことで考える事が多くなった…その怖さと戦っている”というコメントです。

これはスポーツ選手だけではなく、子どもが大人に成長するときに、感じるすべての人に共通する感覚ではないかということです。

子どもから青年に成長するに従って。経験や知識が増えていきます。幼児期は、私がすべてでしたが、自分を客観視して知識が増えるということは、ミスを恐れるという怖さと知ることになります。自分の自我がしっかりできていないと、ミスや恐れを回避する行動をとります。

たとえば土井義孝先生の論文『「優しい関係」の社会病理』(2007.3、社会ジャーナル)に、現代の若者の人間関係において、優しい関係を築こうとするのは、対立の忌避であり、自分を肯定する感覚が脆弱になっているからだと指摘されています。


子どもは反抗期やけんかなどの対立を通して、自分を確立していきます。しかし反抗期や対立が欠損していると、自分らしさの自覚が脆弱になって、他人との対立を回避する行動をとるのです。

その要因はH・エリクソンが詳しく解明しているので書きません。ただコメントにあった“経験を積んだことで考える事が多くなった…その怖さと戦っている”という構図は、どの分野においてもいえることで、自分自身、こうした発達課題を意識しながら、日々の暮らしをすべきでしょう。ミスを怖がって現状に甘んじていないか。ゴルフの石川令くんから学ぶことが多い。
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その新聞記事、本当かい?

2011年10月27日 | 日記
25.26日と山口県下関市へ出向。日々の生活に比べて時間的にはすごく余裕があり、また温泉につかっていたのですが、疲れました。やはり緊張していたのでしょうか。

25日早朝、羽田空港8時40分発のフライト、家から持参した産経新聞(23.10.25付け)を読みながらの1時間半でした。

新聞記事に“死別から立ち直る一助”“「手元供養」はアクセサリー”とき文化部・生活班の豊田真由美さんの記事が掲載されていました。

こうした記事は、記者の思惑や結論があって、その結論に導くように、コメントをとったり記事を構成していくので、売り手側の思惑一色の商品広告と同様、話半分に見る方がよい。そんな感想を持ちました。その理由は次の通りです。

記事の内容は、“遺骨や遺灰を身近に置いて故人をしのぶ「手元供養」。骨っぽなどに入れて自宅に安置するほか、アクセサリーなどにして身につける方法がある。武骨なイメージのあった遺骨ペンダントも、一般的なネックレスに近い洗練されたデザインのものが出回るようになってきた。手元供養の広がりの背景には、死別から立ち直るための「クリープ(悲嘆)ケア」の問題が横だわっている。”(上記転載)

というものです。

 記事の最後に、第一生命経済研究所の小谷みどり主任研究員のコメントが掲載されていました。(以下転載)

[日本人は欧米人より死別による悲しみからの立ち直りが早いといわれていた]と指摘する。日本には自宅に仏壇を置いたりかもいに先祖の写真を飾ったりして、死者と同居する文化かあったためだ。小谷主任研究員は「そうした死者と同居する文化が失われ、故人の死を受け入れられない遺族のグリーフケアの問題が取り沙汰されるようになった」と解説する。(以上)

記事を読んで思ったことは、“日本人は欧米人より死別による悲しみからの立ち直りが早い”とあるが、このデーターは本当か。また悲しみから立ち直るとは、どうなることなのか。はなして悲しみから早く立ち直ることは、本当に良いことなのか…などなど。

「手元供養」はアクセサリーが売れているといこと自体、供養産業の商品は、珍しいものにまずマスコミが飛びついて記事にする域を出ておらず、各町に専門店があるわけでも、仏壇店の売れすじと言ったことでもありません。

物事の本質に迫る記事よりも、興味を煽る記事の方が、読者受けるのだろうと思ったことです。
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