仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

私が私でよかったと思える生き方

2018年09月30日 | 都市開教
昨29日は、近隣寺院と共同での文化講演会。挨拶もすべて門徒の方々による年2回のイベントです。講師はお東の川村妙慶ご講師、柏市・アミュゼ柏2階 クリスタルホ-ル(400人)で、350人くらいの入りでした。講題は『私が私でよかったと思える生き方』。
 
ご講師は、現在、番組のパ-ソナリティ-や広島経済大学客員教授。NHK・読売・中日文化センタ-「心の講座」講師。産経新聞「明日へのヒント」 京都新聞「暖流」 雑誌「ファンケル 元気生活」 同朋新聞「ミカタがカワル?」連載中、などなどご活躍の方です。

お話はとっても良く、聴衆一同、満足であったのではないかと思われます。少し内容を紹介すると、産経新聞で悩みを答えるコーナーを持っているためか、一日100件くらい質問のメールが入るという。まず話の頭は、質問の悩みに共通するものがある。それは「答え」を持っていると言うこと。「あの人が悪い」等々。話の終わりは、「これからがこれまでをきめる」という言葉を残して終わりました。話の中身も知識などではなく、自分の話でした。


話が終わってから、私が考えさせられてのは、とっても良い話でだったので、逆に「有り難い話」ではなかったという印象を持ちました。もちろん「有り難い話」が良いと言うことではなりません。「有り難い話」ってなんだろうという問いを持ったことが、一番の収穫でした。そして私自身の話はどうかと、考えさせられました。
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「ゴキブリ」の語源

2018年09月29日 | 日記
『日本人のものの見方 〈やまと言葉〉から考える』〈山本 伸裕著〉のつづきです。
やまと言葉は、幼児語のように実態に即しているという。いぜん「名前のなぞなぞ」で紹介しましたが、この本に紹介され言葉を転載してみます。


「鼠」を例にとれば、訓読みでは「ねずみ」、…語源説としては、複数存在します。それらのうちでも有力と思われるものを紹介しますと、一つは、生息場所に関わるものです。すなわち。
 「根」、あるいは「穴」に棲む動物であることから、「根棲み」とか「穴棲み」などと呼ばれていたのが、「ねずみ」になったという説です。それから、二つめの有力な説としては、人びとの生活上の利害に直接に関わるもので、寝ている間に食べ物を盗み、食い散らすことから「寝盗み」と呼ばれたとか、夜中に食べ物が食い荒らされないよう寝ずに見張っていなくてはならないことから「寝ず見」と呼ばれた、といったものが挙げられます。

「ゴキブリ」の語源に関して紹介しておきましょう。この語は案外新しいもので、明治期以前には、「ゴキカブリ」と呼ばれていたそうです。「ゴキカブリ」は、漢字で書けば「御器囓り」です。「御器」というのは、蓋の付いた上等なお椀のことですが、お椀に付着した残飯に群がる様子が、「御器」まで食べ尽さんほどの勢いであることから、そのように呼ばれていたのです。(以上)

*「囓り」は、「かじりつく」という文字で、かじる歯を立てて削ぎとったり砕いたりすることです。
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まこと

2018年09月28日 | 日記
昨夜(30.9.27)は、杉田製線での法話。

法話の導入部分は羞恥心のこと。
「はすかしい」という情動は、対人関係の中で起きますが、誰が見ていなくても「はずかしい」と思うことがあります。それは「まこと」なるものがあって自分の中のある軽薄さやウソが明らかになったときに、恥ずかしさをおもぼえる。
やまと言葉で「まこと」の「ま」は、目のことを言います。
ここから色々な造語が生まれます。睫毛・まなこ・まなじり・まぶしいなどです。その性質は、ありのまま目で捉えたままこと、偽りのないことです。「こと」は、事、言で、固まった状態のこと。「まこと」は、ウソのないことがらのことです。自分の中にあるウソが明らかになるというはたらきとして「まこと」が作用する。

話の一部分です。
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意識とは何か②

2018年09月27日 | 日記
『無意識の脳 自己意識の脳 ——身体と情動と感情の神秘』(著者アントニオ・R・ダマシオ・訳者田中三彦・講談社)のつづきです。

1.「原自己」 : 非意識状態、自己認識無し 
2.「中核意識」 : 「外界から受ける『感覚』の神経パターンのマップ」を獲得、「自分」と「他者」いう認識の発生。今、現在だけの存在。 
3.「延長意識」 : 過去の「感覚」の神経パターンのマップを再生させたり(記憶)、想定される未来の「感覚」マップを再生したり(予測)できる。過去から未来へと時間的な広がりをもつとしている。

本から転載します。
「有機体」をマッピングするニューラル・パターン(マップ)は、脳幹核や視床下部など(他の脳部位の名称も述べられている)により構築される。これは、前述した「原自己」だ。「対象」をマッピングするニューラル・パターンは、対象の処理に携わる脳部位によって構築される。(対象が、顔なのか音楽なのか等によって関与する脳部位は異なる)。これらは、一次のマップ(FIRST–ORDER MAPS)と呼ばれている。

中核意識においては、自己の感覚はパルスごとに新たに構築される、かすかな、そして束の間の認識の感情の中に生じる

神経疾患という精巧な解剖メスにより、延長意識が傷ついても中核意識が無傷であることがわかっている。反対に、中核意識のレベルではじまる障害は意識の砦全体を崩壊させるので、延長意識は崩壊する。

中核意識は、あるイメージの安定した記憶の形成やそのイメージの想起に依存していない。つまり、中核意識は通常の学習や記憶のプロセスに依存していない。また言語にも依存していない。また、計画、問題解決、創造性といったプロセスの中で一つのイメージを知的に操作することと同じではない。推論や計画の能力にひどい障害をもつ患者は延長意識の最上層がうまく機能しないが、完全に正常な中核意識を示す

情動と中核意識は明白に結びついている。中核意識が損なわれている患者は、顔の表情、身体の動作、発声によって情動を示すことはない。そのような患者においては、背景的情動から二次の情動まで、通常、すべての範囲の情動が失われている。これに対して、第七章で延長意識について論じるときわかることだが、中核意識を保持し、延長意識を損なっている患者は、正常な背景的情動と一次の情動をもっている。このことは少なくとも、情動と中核意識が依存している神経装置のうちのいくつかが同じ部位にあることを示唆している。しかし、たぶん、情動と中核意識の結びつきは、それらが依存する神経装置が単に近接しているということだけを意味してはいないだろう。(以上)

私たちが「意識」と呼んでいるものは、延長意識です。ご参考までに。
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意識とは何か①

2018年09月26日 | 日記
「自己意識」とは何か。わたしたちは言葉によって意識を知ることができるが、『無意識の脳 自己意識の脳 ——身体と情動と感情の神秘』(著者アントニオ・R・ダマシオ・訳者田中三彦・講談社)によると、“言葉が意識をつくり出すのではない”とあります。同書では、言葉のない思考のあり方を言語能力が完全に失われた、脳の左半球切除による失語症の人や、言葉や習慣などを失った記憶喪失者とのやりとりの中で、そのことを証明しています。

少し本の中から転載しています。

全失語症の患者と通常の会話を維持することは論外でも、もしこちらに、患者が編み出す数の限られた即興の非言語的サインに応じる忍耐力があれば、豊かで人間的なコミュニケーションをとることが可能である。

自己や意識は言語の「あとに」浮上するもの、言語が直接つくりあげるもの、と考えるのは、正しいとは思えない。言語は無から生まれない。物があるから名前がある。もし自己や意識が言語から「新規に」生まれるとしたら、自己と意識は、根拠となる概念をもたない言葉の唯一の例ということになってしまう。


言葉のない思考のプロセス 神経疾患によって重い言語障害にかかった患者をいろいろ研究して気づいたことは、障害の程度がどれほどであろうと、患者の思考のプロセスはその基本において完全であるということ、そしてもっと重要な第一に、意識は一枚岩ではない。意識をいくつかの種類に分けることは理にかなっており、少なくとも、単純で基本的なものと、複雑で延長的なものとに分けられる。また、延長意識をいくつかのレベルや階層に分けることも理にかなっている。(以上)

仏教では意識(心)を、六識・未那識・阿頼耶識の三層に分けて説明しますが、著者も、三層に分けて説明しています。(つづく)
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