『宗教を「信じる」とはどういうことか』(ちくまプリマー新書・2022/11/10・石川明人著)からの転載です。
これまで宗教学者たちは、こうした傾向をどのように理解すべきか、さまざまに議論してきました。ある宗教学者は、日常的に心から信じているわけではないけれどもゆるやかな情締や関心から伝統的宗教と関わり続けることを、「信仰のない宗教」と表現しました。また別の宗教学者は、特定の宗教団体には所属しないけれども広い意味での宗教的関心はあるといった状態のことを指して「所属なき信仰」と呼びました。また逆に、厳密な意味での信仰的動機ではなく、もっぱら音楽や歌などと関わることを求めて教会とつながり続けるなどのあり方を指して「信仰なき所属」と呼んだ人もいます。
岡本亮輔は「宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで」という優れた現代宗教論のなかで、これらの議論を紹介しながら、日本人と宗教の関係を捉えるには「信仰なき実践」や「信仰なき所属」が鍵となる、と指掵しています。彼は、宗教を信仰・実践・所属という三要素に分解する視座を採用し、例えば葬式仏教を「信仰なき実践」、神社は「信仰なき所属」、そしてスピリチュアル文化については「所属なき私的信仰と実践」として特徴づけました。(以上)
「宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで」は、以前転載しました。今一度、一部を転載します。
端的な例を挙げれば、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』では、日本には「ご先祖を大切にする気持ち辛村の鎮守にたいする敬虔な心」という「自然宗教」が存在し、初詣やお盆を行う大半の日本人はその信者とされる。
一方、礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』では、実存的な問いに答えを与える信仰はすでの宗教はすでに形骸化し、さらに実践としての習俗も崩壊しつつあるため、現代の日本人は無宗教だと結論される。
こうした宗教を心や信仰に還元する議論に対し、本書では、宗教を信仰・実践・所属という三要素に分解する視座を採用し、葬式仏教は信仰なき実践、神社は信仰なき所属、スピリチュアル文化は所属なき私的信仰と実践として特徴づけてきた。
そして、こうした傾向は、神仏との合一や劇的回心としった従来の宗教体験のイタージを掘り崩してゆくだろう。世俗社会で求められているのは、死後・の生や魂のゆくえといった救済ではない。現在の世界のあり方を悲観し、それを根本的に変えたり、来世に期待したりする人は少数である。あるいは、現状に問題があると感じても、多くの人は、それが信仰によって解決されるとは考えていない。
消費者優位のスピリチュアル・マーケットで主題になるのは、魂の救済ではなく、心身の癒やしや気分転換だ。瞑想で集中力が高まり仕事が捗る、宿坊に泊まってリフレッシュする、滝行体験で自己を見つめ直す、週末修験で自然に癒やされる。様々な寺社とそこで提供される実践は、現代の消費的な宗教需要に応えるための商品なのである。問題のある世界を作り変えるのではなく、そうした世界を少しでも快適に生きるための道具として宗教が利用されるのだ。
気分転換したりするための清涼剤のようなものだ。そうであれば、その体験についても、たとえは観光や映画と同じような、一般メディアで流通しやすいガイドブック的な語りがますます広がり、宗教は世俗社会の文化としての性格を強めてゆくだろう。(以上)
本願寺が「あらゆる世代に向けた新たな本願寺フアンの創出」を掲げているが、どのような結びつきを求め、何を理想としているかが明確ではないので、言葉かけだけで終わることが明らかな現状です。これは本願寺だけの問題ではない。
これまで宗教学者たちは、こうした傾向をどのように理解すべきか、さまざまに議論してきました。ある宗教学者は、日常的に心から信じているわけではないけれどもゆるやかな情締や関心から伝統的宗教と関わり続けることを、「信仰のない宗教」と表現しました。また別の宗教学者は、特定の宗教団体には所属しないけれども広い意味での宗教的関心はあるといった状態のことを指して「所属なき信仰」と呼びました。また逆に、厳密な意味での信仰的動機ではなく、もっぱら音楽や歌などと関わることを求めて教会とつながり続けるなどのあり方を指して「信仰なき所属」と呼んだ人もいます。
岡本亮輔は「宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで」という優れた現代宗教論のなかで、これらの議論を紹介しながら、日本人と宗教の関係を捉えるには「信仰なき実践」や「信仰なき所属」が鍵となる、と指掵しています。彼は、宗教を信仰・実践・所属という三要素に分解する視座を採用し、例えば葬式仏教を「信仰なき実践」、神社は「信仰なき所属」、そしてスピリチュアル文化については「所属なき私的信仰と実践」として特徴づけました。(以上)
「宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで」は、以前転載しました。今一度、一部を転載します。
端的な例を挙げれば、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』では、日本には「ご先祖を大切にする気持ち辛村の鎮守にたいする敬虔な心」という「自然宗教」が存在し、初詣やお盆を行う大半の日本人はその信者とされる。
一方、礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』では、実存的な問いに答えを与える信仰はすでの宗教はすでに形骸化し、さらに実践としての習俗も崩壊しつつあるため、現代の日本人は無宗教だと結論される。
こうした宗教を心や信仰に還元する議論に対し、本書では、宗教を信仰・実践・所属という三要素に分解する視座を採用し、葬式仏教は信仰なき実践、神社は信仰なき所属、スピリチュアル文化は所属なき私的信仰と実践として特徴づけてきた。
そして、こうした傾向は、神仏との合一や劇的回心としった従来の宗教体験のイタージを掘り崩してゆくだろう。世俗社会で求められているのは、死後・の生や魂のゆくえといった救済ではない。現在の世界のあり方を悲観し、それを根本的に変えたり、来世に期待したりする人は少数である。あるいは、現状に問題があると感じても、多くの人は、それが信仰によって解決されるとは考えていない。
消費者優位のスピリチュアル・マーケットで主題になるのは、魂の救済ではなく、心身の癒やしや気分転換だ。瞑想で集中力が高まり仕事が捗る、宿坊に泊まってリフレッシュする、滝行体験で自己を見つめ直す、週末修験で自然に癒やされる。様々な寺社とそこで提供される実践は、現代の消費的な宗教需要に応えるための商品なのである。問題のある世界を作り変えるのではなく、そうした世界を少しでも快適に生きるための道具として宗教が利用されるのだ。
気分転換したりするための清涼剤のようなものだ。そうであれば、その体験についても、たとえは観光や映画と同じような、一般メディアで流通しやすいガイドブック的な語りがますます広がり、宗教は世俗社会の文化としての性格を強めてゆくだろう。(以上)
本願寺が「あらゆる世代に向けた新たな本願寺フアンの創出」を掲げているが、どのような結びつきを求め、何を理想としているかが明確ではないので、言葉かけだけで終わることが明らかな現状です。これは本願寺だけの問題ではない。
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