過去の資料を廃棄していたら『日本農業新聞』(1988年2月28日)「心のみち」―知識優先をやめ個性尊重を―という私の原稿掲載の新聞がありました。月一度で連載していたものです。
個性尊重の教育といわれる。教育が競争、能率、知識の詰め込み主義化していることへの軌道修正とも受け取れます。個性尊重とは、その人にしかない人間性を大切にし、その人間性に沿った教育を考えるのが個性尊重の教育です。むしろ教育とは本来、個性を尊重ずるところに成り立ち、教肓の原点であるとも言えます。そのことが忘れられているところに、現在の教育現場でのさまざまな問題が起因しているようです。教育という言葉そのもの「教え育(はぐく」むと書きますから、育まれるものが一番中心なのでしょう。ところがこの育むことを切り捨てて、教えを優先する教育のあり方、これではレールに乗れない子どもが出るはずです。
以前、テレビ放送の対談の中で語れれていたことですが、ある小学校の先生が子どもたちの宿題を出したそうです。「今日の宿題は簡単です。おうちに帰って、お父さんの顔をよく見てくること。明日図画の時に、お父さんの顔の絵を描いてもらいます。お父さんの顔をよく見て覚えてきてください」
Aくんは家に帰り、帰ってきたお父さんの顔を見ると、お父さんはお酒を飲んだらしく赤い顔をしていました。次の日の図がの時間のことです。Aくんは画用紙いっぱいの見てきたとおりの赤い顔のお父さんを画いたそうです。そしてその絵を先生の所へ持っていくど先生は「今日の絵は次の授業参観日に張り出すの。そうすると、ひとりだけ赤い顔のお父さんではおかしいから、皆と同じ色で画いてくれるかなあ」とのこと。次に描いたお父さんの絵は、小さな小さなお父の顔だったそうです。
その対談の結末は記憶していませんが、先生が否定されたように知識としては赤い顔は正しくなく、顔には顔に適した色があります。しかし教育とは正しければよいというものではなぐ、常に育まれるものが優先され、育まれるものがあったとき、そこに正しい教えがあり教育があるのです。
先の話でいえば、教えは、赤い顔の色の中に躍動しているAくんの思いに沿って語られ、そのAくんを育てるためのものなのです。
情報化社会にあって最も価値のあるのは情報です。その情報という知識を与え るのが学校であり、事実、より高い知識を与えることのできる学校は人気があります。だからといって知識の伝達を最優先するのはいかがなものでじょう。何が本当に価値があ
り、何が大切にしなけれぱならないのかをしっかと見究めたいものです。
西原祐治(以上)
昭和63年頃は、母子家庭はあまりいなかったようです。現代ならば「お母さん、お父さん、おばあちゃん‥の顔」となることでしょう。一年間有難うございました。