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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

死者との関係の希薄化②

2017年11月30日 | セレモニー
『シリーズー宗教で解く現代③葬送のかたちー死者供養のあり方と先祖を考える』(佼成会出版)の続きです。

 同書に山折哲雄氏が「先祖隠しから先祖供養の時代へ」を執筆されています。書かれている情報は、だいぶ古いものですが、参考のためにご紹介しておきます。

「未亡人」は、夫に死なれたあと、その悲しみにどのように耐え、そして乗り越えるか。そういう心の問題をめぐって、日本とアメリカの学者が共同研究を行ない、大変興味ある調査結果を報告している。
 日本側の研究者が慶應義塾大学の教授だった、精神医学を専門とする小此木啓吾氏。アメリカ側がカリフォルニア大学教授のジョー・山本氏。夫を交通事故で失い、突然「未亡人」の状態につき落とされた妻は、いったいどのようにして喪の期間を過ごしたか。この切実な問題についておこなわれた日米比較の調査研究である。その成果の一端が、この年の雑誌『月刊住職』(同誌は現在、出版元が変わって『寺門興隆』となっている)の三月号で紹介されている。調査の対象になっているのは、日米双方、それぞれ二十数名の未亡人だった。
 その紹介のなかで、いくつかのまことに興味深い事実が明らかにされている。

 第一は、日本の未亡人のほうがアメリカの未亡人にくらべて、夫を失った悲しみの感情表現が穏やかだったという。アメリカの未亡人の場合は、人前で取り乱したり、大騒ぎをする。また、夜眠れないといって睡眠薬に頼るケースが多い。場合によっては自殺する人も出る。

 第二に興味をひくのが、日米の未亡人のあいだで悲しみの感情表現の仕方が異なるのは、その背後に死生観の相違ということがあるためではないか、と指摘している点である。具体的にいうと、日本の未亡人の場合でも夫に死なれた悲しみのショックは大きい。しかしよくよく観察すると、かの女たちは、先に死んだ夫が永遠に消滅してしまったとはかならずしも考えてはいない。亡くなった後も、どこか身近なところに存在していると感じている。
 無に帰してしまったとは思っていないのである。換言すれば、死んだ夫と生き残った妻(未亡人)とのあいだに、目にみえない電流のようなものが通じているのだといっていいだろう。生者と死者のあいだに、何らかの形で心の交流がおこなわれているとみていいのではないだろうか。
 これにたいしてアメリカの未亡人の場合は、事故で急死した夫が永遠に遠くの世界に離れて逝ってしまったというように感じている。喪失感がとても強いといってもいい。夫とは完全に分離してしまったという意識が全身を覆っている。つまり、このような死生観の相違が、のべたような喪の期間の過ごし方のなかに反映しているわけである。

 そして第三に胸をつかれたような思いにかられるのが、日本においては家のなかの仏間や仏壇などの宗教空間が重要な役割をはたしているのではないだろうかという指摘であった。どういうことかというと、日本の未亡人はしばしば仏壇を安置している部屋に入り、そこに飾られている夫の写真や位牌にむかって座る。写真や位牌を通して亡き夫に語りかけ、悲しみの感情に身を浸す。このように死者にむかって語りかけているうちに、しだいに悲しみが癒され、苦しみが鈍くなっていく。位牌を通して死んで逝ったものと心を通わせ、すこしずつ死者との共生関係をとりもどしていく。それがいつしか、独りで生きていく支えになり、力にもなっていく。
 位牌を通した自己カウンセリング、冥界との交流カウンセリングといってもいいかもしれない。そして、このような仏壇や位牌がもっている癒しの装置が、アメリカの未亡人の場合にはないのである。そこに「グリーフ・ワーク」(悲しみの克服)についての日米隔差が横たわっているといってもいいのではないだろうか。それはさらに広げていえば、ルターのいう「神」と日本人における「ご先祖さま」のあいだの落差、といってもいいだろう。何しろご先祖さまはすでに仏壇や位牌に祀られているのであるから、「神さま」の扱いをうけている。多神教的な八百万教のパンテオンの一員に組み入れられているのである。
 以上のようなわけで、この調査結果はきわめて示唆に富むものだと思う。日本の未亡人が仏壇や位牌という儀礼的な装置を通して死者(夫)と交流しようとしていることが、ことのほか重要である。(以上)

現代人がもっている色々な病理の背景に“孤独”があります。死者や先祖との分離がもたらす精神性の阻害が懸念されます。
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死者との関係の希薄化①

2017年11月29日 | セレモニー
ここ柏市においても、通夜を執り行わない一日葬が増えています。一割弱程度の割合でしょうか。葬儀を簡略化することによって、俯瞰的に見て、どのような人間の精神性に影響を与えるのか。それは日本における葬儀の役割を明確にすることが、そのまま精神性への影響となります。

図書館から借りてきた『シリーズー宗教で解く現代③葬送のかたちー死者供養のあり方と先祖を考える』(佼成会出版)から2人の意見を参考にアップします。

同書に「先祖崇拝と先祖供養」森岡清美(城西大学名誉教授)氏の分に次のようにあります。


葬式仏教は形骸化した仏教の代名詞とされるが、葬式仏教こそ情緒的慰藉および死者との訣別という個人的・社会的機能を担ったのである。それは三つほどの下位機能に即して、つぎのように説明することかできる。

(―)儀礼によって悲しみの感情表現を助ける。
 さきに紹介した「白骨のお文」や講中か合奏するご詠歌は、悲しみの感情に表現の機会を与えて遺族の涙を誘う。また、日本の民俗的慣行として、葬儀の準備と執行事務は喪家の手を煩わさず、挙げて隣組か担当してきたことは、遺族近親か悲しみに身を委ねることを可能にするものであった。

(2)教えによって死の不条理を受け入れるのを助ける。
 因縁とは、原因と機縁のことで、何事も因縁によって生起することを含蓄する語であるが、本人の統制能力を超えた不可避性を強調するために用いられる。また、無常とは万物流転を意味するが、人の世のはかなさを強調するために用いられ、因縁とともに、死を不条理としてその事実を受け入れるのを拒む姿勢を早く捨てさせ、諦めて現実の死に対処するのを助ける。

(3)全体として死者との交わりを助ける。
 とくに一連の仏事は、死者とともに歩む生者に、死者と交わる公式の機会を設定している。 『死と悲しみの社会学』(宇都宮輝夫訳、昭和五十一年)の著者ジェフリ・ゴーフーは、イギリスでの調査をふまえて、遺族か近親を喪った悲しみを克服するためには、六週間から、二ヵ月間くらい社会的な支持と援助を必要とすること、そのために世俗的な哀悼儀礼が重要な役割を果たしうることを指摘している。六週問というのは中陰の期間にあたり、三ヵ月はほぼ百ヵ日に相当する。仏事はコーラーが指摘する機能を果たしたのだが、老少不定の時代には、百ヵ日を超えて長期間にわたる仏事を必要としたのである。(以上)

葬儀の簡略化が進む中、死者との関係をどうきずいていくのか。死者との関係の希薄化から、どのようなダメージを受けるのかを見つめて行く必要があるように思われます。
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正しい生き方

2017年11月28日 | 浄土真宗とは?
昨夜は杉田製線(株)の報恩講でした。

[正しい]の「しい」は、悔しい・愛らしい、美味しい、楽しいの「しい」で、形容詞を支える座布団みたいの言葉、「正しい」は、「ただ」に内容がある。「ただ」は、「まるまるそのままで、他の要素を加える必要ないこと」という意味で、「ただ一人」の、「トハでいいです」の只も、「ただ念仏」も同じで、他の要素を加える必要がないことを表している。「正しい生き方」とは、まるまる現在のままでOKということ。

ところが私たちの価値観、願い、喜びは弱肉強食、望ましい豊かさは強く賢く美しくあろうとするです。仏さまの豊かさ、願い、喜びは、弱く愚かで醜いものをどれだけ受け入れていけるかです。その極まりが阿弥陀如来です。私たちは、弱く愚かで醜い状況のなかで、阿弥陀如来が明らかになることは、弱く愚かで醜い私を受け入れていくる心の領域が開かれて行くということです。そのような話を小一時間話しました。
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改革もんじゃ焼き

2017年11月27日 | 日記
私が築地本願寺勤務したのは昭和54年です。よく先輩に、月島の焼き肉屋につらて行ってもらいました。そのころは、月島も、現在のIHI(旧・石川島播磨重工業)が、1979年(昭和54年)に操業停止したこともあって、閑散としていて月島商店街はシャッター通りに近い状態でした。そこに改革もんじゃが登場したのです。

放送大学の教材『都市社会の社会学』(森岡清志)に、その辺の出来事が載っているので、転載してみます。

もんじゃ屋は1970年代後半にやや増えて,1980(昭和55)には10軒になった。5軒前後がちょうど地元客と飽和していたから、10軒は店舗数としては多すぎる。1977 (昭和52)年に開業のB店は。具に改良を加え,新規メニューの開発に熱心に取り組むようになった。経営者の久保朝子さん(仮名)は。祖父の代からの月島居住者である。西仲通りから離れて,客商売をするには立地がよくない通りに自宅があったが,ここを店舗にしてもんじゃ屋を始めた。近所の人に「やめなよ。この通りで商売やって,当たった人はいないよ」と言われたこともあった。
「大人もんじゃ」の店にはいつも行列かできていたが,開業したからといって,自分の店がそうなるわけではなく,どうしたらいいんだろう,どうやったら行列ができるような店になるんだろうか,と模索する日々が続いた。
 ちょうどそんな折,ある新聞に。お好み焼にロースハムやパイナップルを入れるという記事が出ていた。お好み焼きでできるなら,もんじゃでもできる。もんじゃでも斬新なことを試してみよう,と思いついた。あれこれ考えて試した結果,生まれたのか,納豆もんじゃだった。
オリジナルもんじゃを何点か店に出してみたところ,女性雑誌かオリジナルもんじゃに関心を示し。紹介の記事を掲載してくれた。それをきっかけに,お客が増え、行列ができ始めた。開葉して,2~3年目のころである。さらに工夫を重ね,当たったのか「もちめんたいこもんじゃ」だった。(以上)

それが現在では、月島もんじゃ振興会協同組合の資料にようと75店です。
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自己愛過剰社会2

2017年11月26日 | 現代の病理
『自己愛過剰社会』の続きです。この自己愛過剰からの抜け出す方法が色々と示されていますが、その中に、浄土真宗的な考え方が示されています。下記の通りです。

もう一つのナルシシズムの治療薬は、意外なところにある。自分自身への慈しみである。この概念の研究を先駆けたクリスティンーネフは、自分への慈愛の働きを次のように説明している。「人間はつねに望みどおりの自分でいることも、そうなることも難しい。望みどおりでない自分を否定したりそれに抵抗したりすると、ストレスや欲求不満や自己批判にいっそう苦しむことになる。現実の自分を共感とやさしさをもって受け入れれば、非常に心か落ち着くのを実感する。自分への慈愛は自分を賛美したり高く評価したりすることでも、駄目な自分を弁護することでもない。現実を正しく受け入れて自分にやさしくなることだ。「自慈心があれば、人よりも白分かすぐれていると感じなくても自分に満足できる」とネフはウヱブサイトに書いている。自分を慈しむようになった人は腹を立てなくなり、自分について余計なことを考えず、自意識過剰にならず、いつも明るく幸福な気持ちでいられ、批判を糧にできる。また、好奇心か湧き、分別が身につき、学問に習熟しようとする意欲か高まり、他者を思いやる気持ちか深まる。(以上)

自分の愚かさを受け入れる。これは色々な症状に対しての万能薬のようです。
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