『シリーズー宗教で解く現代③葬送のかたちー死者供養のあり方と先祖を考える』(佼成会出版)の続きです。
同書に山折哲雄氏が「先祖隠しから先祖供養の時代へ」を執筆されています。書かれている情報は、だいぶ古いものですが、参考のためにご紹介しておきます。
「未亡人」は、夫に死なれたあと、その悲しみにどのように耐え、そして乗り越えるか。そういう心の問題をめぐって、日本とアメリカの学者が共同研究を行ない、大変興味ある調査結果を報告している。
日本側の研究者が慶應義塾大学の教授だった、精神医学を専門とする小此木啓吾氏。アメリカ側がカリフォルニア大学教授のジョー・山本氏。夫を交通事故で失い、突然「未亡人」の状態につき落とされた妻は、いったいどのようにして喪の期間を過ごしたか。この切実な問題についておこなわれた日米比較の調査研究である。その成果の一端が、この年の雑誌『月刊住職』(同誌は現在、出版元が変わって『寺門興隆』となっている)の三月号で紹介されている。調査の対象になっているのは、日米双方、それぞれ二十数名の未亡人だった。
その紹介のなかで、いくつかのまことに興味深い事実が明らかにされている。
第一は、日本の未亡人のほうがアメリカの未亡人にくらべて、夫を失った悲しみの感情表現が穏やかだったという。アメリカの未亡人の場合は、人前で取り乱したり、大騒ぎをする。また、夜眠れないといって睡眠薬に頼るケースが多い。場合によっては自殺する人も出る。
第二に興味をひくのが、日米の未亡人のあいだで悲しみの感情表現の仕方が異なるのは、その背後に死生観の相違ということがあるためではないか、と指摘している点である。具体的にいうと、日本の未亡人の場合でも夫に死なれた悲しみのショックは大きい。しかしよくよく観察すると、かの女たちは、先に死んだ夫が永遠に消滅してしまったとはかならずしも考えてはいない。亡くなった後も、どこか身近なところに存在していると感じている。
無に帰してしまったとは思っていないのである。換言すれば、死んだ夫と生き残った妻(未亡人)とのあいだに、目にみえない電流のようなものが通じているのだといっていいだろう。生者と死者のあいだに、何らかの形で心の交流がおこなわれているとみていいのではないだろうか。
これにたいしてアメリカの未亡人の場合は、事故で急死した夫が永遠に遠くの世界に離れて逝ってしまったというように感じている。喪失感がとても強いといってもいい。夫とは完全に分離してしまったという意識が全身を覆っている。つまり、このような死生観の相違が、のべたような喪の期間の過ごし方のなかに反映しているわけである。
そして第三に胸をつかれたような思いにかられるのが、日本においては家のなかの仏間や仏壇などの宗教空間が重要な役割をはたしているのではないだろうかという指摘であった。どういうことかというと、日本の未亡人はしばしば仏壇を安置している部屋に入り、そこに飾られている夫の写真や位牌にむかって座る。写真や位牌を通して亡き夫に語りかけ、悲しみの感情に身を浸す。このように死者にむかって語りかけているうちに、しだいに悲しみが癒され、苦しみが鈍くなっていく。位牌を通して死んで逝ったものと心を通わせ、すこしずつ死者との共生関係をとりもどしていく。それがいつしか、独りで生きていく支えになり、力にもなっていく。
位牌を通した自己カウンセリング、冥界との交流カウンセリングといってもいいかもしれない。そして、このような仏壇や位牌がもっている癒しの装置が、アメリカの未亡人の場合にはないのである。そこに「グリーフ・ワーク」(悲しみの克服)についての日米隔差が横たわっているといってもいいのではないだろうか。それはさらに広げていえば、ルターのいう「神」と日本人における「ご先祖さま」のあいだの落差、といってもいいだろう。何しろご先祖さまはすでに仏壇や位牌に祀られているのであるから、「神さま」の扱いをうけている。多神教的な八百万教のパンテオンの一員に組み入れられているのである。
以上のようなわけで、この調査結果はきわめて示唆に富むものだと思う。日本の未亡人が仏壇や位牌という儀礼的な装置を通して死者(夫)と交流しようとしていることが、ことのほか重要である。(以上)
現代人がもっている色々な病理の背景に“孤独”があります。死者や先祖との分離がもたらす精神性の阻害が懸念されます。
同書に山折哲雄氏が「先祖隠しから先祖供養の時代へ」を執筆されています。書かれている情報は、だいぶ古いものですが、参考のためにご紹介しておきます。
「未亡人」は、夫に死なれたあと、その悲しみにどのように耐え、そして乗り越えるか。そういう心の問題をめぐって、日本とアメリカの学者が共同研究を行ない、大変興味ある調査結果を報告している。
日本側の研究者が慶應義塾大学の教授だった、精神医学を専門とする小此木啓吾氏。アメリカ側がカリフォルニア大学教授のジョー・山本氏。夫を交通事故で失い、突然「未亡人」の状態につき落とされた妻は、いったいどのようにして喪の期間を過ごしたか。この切実な問題についておこなわれた日米比較の調査研究である。その成果の一端が、この年の雑誌『月刊住職』(同誌は現在、出版元が変わって『寺門興隆』となっている)の三月号で紹介されている。調査の対象になっているのは、日米双方、それぞれ二十数名の未亡人だった。
その紹介のなかで、いくつかのまことに興味深い事実が明らかにされている。
第一は、日本の未亡人のほうがアメリカの未亡人にくらべて、夫を失った悲しみの感情表現が穏やかだったという。アメリカの未亡人の場合は、人前で取り乱したり、大騒ぎをする。また、夜眠れないといって睡眠薬に頼るケースが多い。場合によっては自殺する人も出る。
第二に興味をひくのが、日米の未亡人のあいだで悲しみの感情表現の仕方が異なるのは、その背後に死生観の相違ということがあるためではないか、と指摘している点である。具体的にいうと、日本の未亡人の場合でも夫に死なれた悲しみのショックは大きい。しかしよくよく観察すると、かの女たちは、先に死んだ夫が永遠に消滅してしまったとはかならずしも考えてはいない。亡くなった後も、どこか身近なところに存在していると感じている。
無に帰してしまったとは思っていないのである。換言すれば、死んだ夫と生き残った妻(未亡人)とのあいだに、目にみえない電流のようなものが通じているのだといっていいだろう。生者と死者のあいだに、何らかの形で心の交流がおこなわれているとみていいのではないだろうか。
これにたいしてアメリカの未亡人の場合は、事故で急死した夫が永遠に遠くの世界に離れて逝ってしまったというように感じている。喪失感がとても強いといってもいい。夫とは完全に分離してしまったという意識が全身を覆っている。つまり、このような死生観の相違が、のべたような喪の期間の過ごし方のなかに反映しているわけである。
そして第三に胸をつかれたような思いにかられるのが、日本においては家のなかの仏間や仏壇などの宗教空間が重要な役割をはたしているのではないだろうかという指摘であった。どういうことかというと、日本の未亡人はしばしば仏壇を安置している部屋に入り、そこに飾られている夫の写真や位牌にむかって座る。写真や位牌を通して亡き夫に語りかけ、悲しみの感情に身を浸す。このように死者にむかって語りかけているうちに、しだいに悲しみが癒され、苦しみが鈍くなっていく。位牌を通して死んで逝ったものと心を通わせ、すこしずつ死者との共生関係をとりもどしていく。それがいつしか、独りで生きていく支えになり、力にもなっていく。
位牌を通した自己カウンセリング、冥界との交流カウンセリングといってもいいかもしれない。そして、このような仏壇や位牌がもっている癒しの装置が、アメリカの未亡人の場合にはないのである。そこに「グリーフ・ワーク」(悲しみの克服)についての日米隔差が横たわっているといってもいいのではないだろうか。それはさらに広げていえば、ルターのいう「神」と日本人における「ご先祖さま」のあいだの落差、といってもいいだろう。何しろご先祖さまはすでに仏壇や位牌に祀られているのであるから、「神さま」の扱いをうけている。多神教的な八百万教のパンテオンの一員に組み入れられているのである。
以上のようなわけで、この調査結果はきわめて示唆に富むものだと思う。日本の未亡人が仏壇や位牌という儀礼的な装置を通して死者(夫)と交流しようとしていることが、ことのほか重要である。(以上)
現代人がもっている色々な病理の背景に“孤独”があります。死者や先祖との分離がもたらす精神性の阻害が懸念されます。