仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

親鸞―救済原理としての絶対他力

2016年04月30日 | 浄土真宗とは?
先般、東京駅の丸善書店に行ったとき、佼成出版社から出されている釈 徹宗 著『親鸞―救済原理としての絶対他力 (構築された仏教思想) 単行本』(2010/9)が置いてあったので購入してきました。

佼成出版社は、多方面の本を出版していて、市の図書館にも多数在庫があります。

内容(「BOOK」データベースより)に次のようにあります。

もはや、近代が行き詰まり、ポストモダン言説もすでに消費され切ってしまった。現代人の宗教性や宗教心の傾向は、「無地域化」「道具化」「個人化」などの特徴が顕著となってきている。このような状況において、我々は親鸞から何を学べるのか。

読んだ感想は、真宗学者ではなく比較宗教的な視点から書いてあるので、目新しく、また130頁なので、すぐ読んでしましました。


親鸞は、「いくら仏に呼ばれても、その声に背き続けるのがオレという人間だ」とまで語っている。そして、それこそがオレの実存だ、仏教はまさにこのオレ唯一人のたまにこそあるのだ、と言う。(以上)

といった具合です。浄土真宗以外の人へ、親鸞聖人(浄土真宗)を紹介するのには、客観的っぽい執筆が新鮮でお勧めです。
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ボランティアは親鸞の教えに反するのか

2016年04月29日 | 浄土真宗とは?
今年度から大谷大学学長に就任された木越康教授の著書『ボランティアは親鸞の教えに反するのか-他力理解の相克-』(法藏館)を読みました。

結論は“「支援活動は聖道の慈悲に基づく自力だから行くべきではない」という、一見真宗的に思える見解も、実は罪福信に則った発想であって、決して親鸞の思想に基づくものではない。これは、悪行を離れようとする罪福信に等しい。また、「災害にあっても「ただ念仏」のみが真宗としては正統的態度である」という主張も、実は罪福信に基づいて善行を求める態度であって、決して親鸞の語る思想と一致するものではない。”というものです。

“「罪福信」とは、罪を犯せば悪果が訪れ、善を為せば善果か得られると信じてさまざまな実践を行おうとする行者の態度”で、“罪福信に基づく念仏は、念仏することが浄土往生のための善行だと知って、これを意図的に行おうとするのだから、他力の念仏とは異なる恣意的念仏となる。仏の本願に触れて自然に湧き起こる念仏(他力の念仏)ではなく、念仏者の思惑に基づいてなされる自力の念仏となる。それが。「本願の嘉号をもって己が善根とする」態度であり、善因善果の分別に由来する、自力の念仏なのである。”という。


“真宗者が真宗者であろうとするかために起こる実に解決困難な、悩ましい問題だと言える。これらは、真宗者か真宗者であろうとするがためにかえって堕することになる、落とし穴的問題だと言える。”とあります。


つまり、『歎異抄』にある、
(4)
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。の教えにしたがって「聖道門的利他の実践は慎むべきである」と”

あるとおり、ボランティアは「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」聖道の慈悲的行為であるという非難に対して、歎異抄の言葉に従って「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」をいさめること自体が、善行を積む行為(「罪福信」)に他ならないというものです。

罪福心の論説は、その通りだと思いますが、ボランティアの行動理念を、宿業に求めている点が、もっと論及してほしいが…という感想を持ちました。
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夢の薬

2016年04月28日 | 日記
昨朝(28.4.27)の産経新聞一面に“「1剤が国を滅ぼす」高額がん治療薬の衝撃 年齢制限求む医師に「政権がもたない」”という記事が掲載されていました。

やはり昨日発売された『週刊新潮』(5月5.12日号)にも特集で“「夢の薬」をみんなで使えば国が持たない”という特集が曽野綾子さんと里見清一さんの対談が掲載されていました。

ともに、小野薬品工業(大阪市中央区)が平成26年にメラノーマ(悪性黒色腫)の治療薬として製造販売の承認を受け、昨年12月に切除不能な進行・再発の非小細胞肺がんの治療にも追加承認されたことの、高額な薬と国の財政についての記事です。

産経新聞によると、

「オプジーボはこれまでの抗がん剤と大きく作用が異なる。従来の抗がん剤はがん細胞の増殖を抑えて死滅させるが、オプジーボは患者自身の免疫に働きかけてがんを抑え、有効例では効果持続期間が長い。…体重60キロの患者が1年間(26回)、オプジーボを使うと、年3500万円かかる。患者の平均的な負担は、医療費の自己負担分が一定額を超えると軽減される「高額療養費制度」があるため、月8万円程度で済む。残る金額は患者が加入する医療保険と国や自治体の公費でまかなわれる。
 オプジーボが適用される非小細胞肺がん患者は年10万人強。このうち、仮に5万人がオプジーボを1年使うとすると、薬代だけで年1兆7500億円。日本の年間医療費約40兆円のうち約10兆円とされる薬剤費が、2割近く跳ね上がる計算だ。」というものです。

記事を読みながら、「平等とは何か」が問われているように思われました。新潮の対談では、曽我さんは「思い切って平等を貫いたらどうなるか。という社会実験をしばらく続けるという方法もありますね。そうしないとわからないんです。」と、老人も若者の同じように高額医療を求める現状への危機を述べておられました。

すべてが平等の受ける権利があるという優等生的な平等が蔓延しているのが現在の日本です。「国の財政が待たない」という不完全さの現実も平等にすべての国民が背負う必要があります。

仏教に「供業(くうごう)」という考え方があります。共業(ぐうごう)とは、人類全体や日本人全体の業のことです。社会が不完全であれば、その不完全を国民全体がになうというものです。

今日の産経新聞の特集記事によれば、国民皆保険を守るたまに、高価な薬代は値引きを進めているとあります。どうなりますか。
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太陽の運行を支える人たち

2016年04月27日 | 日記
心理学者の河合隼雄氏がご逝去(2007年7月19日 )されて久しい。図書館へ行ったら棚に『私が語り伝えたかったこと』 ( 河合隼雄著・河出書房新社, 2014年刊)があったので借りてきました。先生が過去に語り、また書いたものを集めたものです。この本は、インタビュー、講演、短いエッセイを中心に、構成されていて分かりやすい本ですした。

この本の中で宗教についても取り上げています。具体的には“かくて「般若心経」は、現代人の心を癒す”(プレジデント96.10)と“現代人の宗教―無宗教としての宗教”(季刊アステイオン00.5)です。

後者の節に次のようにあります。

ここに宗教の大切なひとつの役割がある。それは人間に安心を与えてくれる。今生きている生が有限のものではなく。何らかの意味で永続性をもつ。言いかえると、生きている間だけではなく死後のことも保証されるわけである。そんな馬鹿なことはないという人もあろう。死後のことなど自分には無関係と思っている人も現在では多いとも言える。しかし、その大たちは、ほんとうに「安心」して生きているだろうか。

 
スイスの分析心理学者カール・ユングは一九二〇年頃に、アメリカ先住民のプエブロ族を訪ねる。彼が非常に心を打たれたのは、その老人たちの品格のある姿であった。ヨーロッパの老人たちと比較すると、そのたたずまい、容貌などがまったく異なっていて、犯し難い尊厳性を感じさせる。そのうちにその秘密がわかる。プエブロの長老たちは高い山に住んで、自分たちの祈りの力によって太陽の運行を支えていると信じているのだ。彼らの存在意義のスケールは実に大きい。彼らが祈りを怠ると、世界中のすべての人々か太陽を朝に拝することができなくなるのだ。ユングはこの老大たちの品格が高いのも当然だと納得する。

日本人の場合。自分に対する存在としての神、というよりは、自分を包む存在としての自然ということが、宗教の中核にあるように思う。自然のうつろいに対してきわめて敏感である。それに美的感覚が結びついて、日常生活のなかでもそれに呼応するかずかずの行事をもっている。そのような体験のなかで、仏教の言う「無常」は感じとられるし、人生を支える「循環」のイメージが体感される。これはおそらく輪廻という思想に結びつくことだろう。(以上)

カール・ユングの話が面白い。「それは迷信だ」という人もあろうが、大切なものは何か。大きな物語の中にある自分を意識できることが、1つの宗教の恵みなのでしょう。
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299792458分の一

2016年04月26日 | 日記
今月は(株)ミツトヨの宇都宮、呉、溝の口本社の3箇所で、創業者恵範忌の出向しました。三か所で、メートルの話をしたので、しっかり「一メートルは光が真空中を一秒間に進む299792458分の一」ということが記憶されました。ひと月も経てば忘れることでしょう。

もう一度だけ『世界でもっとも正確な長さと重さの物語』( 2014/11/20ロバート・P・クリース著, 吉田 三知世翻訳)の続きです。著者は、「いまの技術では、多くのものが計測できるようになってきたけれど、それだけに、すべてを数字だけで判断してしまう風潮がみられてきている」ということに警鐘を鳴らしています。

そしてエピローグに次のようにあります。


ギリシアの哲学者プラトンは、計測にはまったく異なる二つの方法があると指摘した。一つは、本書で論じてきた、数、単位、物差し、そして何らかの計測開始点を使う方法だ。あるものが持つ何かの特性が、ほかのものが持っている同じ特性よりも大きいか小さいかをはっきりさせたり、あるものが何かの特性をどれだけ持っているかを数値で表したりする。この計測法を、現実に独立して存在する物体やその性質を指して哲学者が使う言葉を借りて、「存在的な計測法」と名づけることができるだろう。…

 これに対して、もう一つの計測方法がある。こちらは、物差しや天秤皿などを使ったりはしない。こちらの計測方法は、プラトンが言うところの、「適者」や「正しい者」を基準とする計測だ。この種の計測は、行動というよりむしろ経験である。つまり、われわれがやったこと、あるいは、われわれ自身が、できるはずのところまで行っていない、あるいは、達するべきところに達していないと感ずる経験なのだ。…(以上)

読みながら西洋的だと思ったのは、計れるものを計れないものとの二面に分ける考え方です。

たとえば命は数量で測れますが、計れない一面もあります。物は数量化できますが、思い出とか意味とか、計れない一面も持っています。一つのものに二面性がある。これは仏教的な考えかたかも知れません。



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