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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

お母さん、幸せ

2013年10月31日 | 日記
昨日(25.10.30)の読売新聞朝刊の一面は、新シリーズ「揺れる命」の第一回「新出生前診断 米で急拡大」というタイトルで、米三州で中絶率75%ということが紹介されていました。気になって「日本では」と調べると、、出生前診断での中絶は診断の結果、異常の場合は約8割が中絶とあります。海外では、出生前診断で異常が発見された場合の中絶率は約9割だとあります。

ふと10月14日(月)の深夜便「明日へのことば」で聴いた書家・歌人の金澤泰子さんの話を思い出しました。「娘・翔子のほほえみに支えられて」というタイトルで、ダウン症で書家である娘さんの話でした。
娘がダウンと知った時、 「とても苦しかったです。涙、涙で受け止めたのを覚えています。背筋が凍りました。ずるずるとベッドに倒れそうなくらいショックでした。当時はダウン症について誤解が多く、翔子を診た医師にさえ、『知能がなくて歩けない』と言われました。私は障害者が生まれるなんて夢にも思っていませんでした」とありました。
そして書家となり、その娘さんから、ある日「お母さん、幸せ」と聞かれ、ダウン症の子であると聴いたとき、日本一不幸だと思って泣いた時のことを思い出して、涙があふれたと言われました。

新聞を読みながら、その話を思い出し、人間の一生の中で、娘時代の女性が美しいのは、容易に男性を結ばれやすくなるためで、女性の美しさには、そうした意味がある。ダウン症で生まれるということも、そこに深い意味があるに違いないと思いました。
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狼に育てられた子

2013年10月30日 | 日記
 「狼に育てられた子」(アーノルド・ゲゼル著)は、有名な話しで、良く法話などでも使われる話です。私も、法話の話題で用いようと思って、本を読み返し、ネットでしらべると、現在は、この話は、ほとんど創作だというのが定番のようです。1912年、キリスト教伝道師としてインドに着任したシング牧師は、1920年9月、シング牧師はミドナプールから数十キロ南西にあるゴダムリという村で、狼に育てられた二人の少女を保護して、育てたという話です。本には写真も残っているし、証言者がキリスト教の牧師だということもあって真実とされてきました。


少女たちの行動は、まさしく狼そのものだった。生肉や牛乳を好み、ニワトリの内臓を手を使わずに地面に置かれた皿から直接口をつけて食べた。夜行性で日の光に怯え、昼は二人で重なるように暗い場所で眠り、夜になると4本足で活発に走り回り、遠吠えをしたとあります。

 一年たってアマラは腎臓炎で死亡。その8年後にカマラも死亡。9年間の人間的生活への復帰の記録でもあります。直立歩行が限界で最後まで2本足で走ることはできず、わずか40ばかりの単語を発声させることしかできなかった。

 ネットで見ると、精神分析医のベッテルハイムは、この「狼少女」の行動が、自閉症児に同じように見られ、それ以外の行動もオオカミに育てられたと考えずとも説明がつくことを指摘しましたとあります。

人間というのは、幼児時代を欠損してしまうと、取り返しがつかないかの如く、先の本によって語られますが、以前国会図書館で見つけた
 「法と心理学会第5回大会 特別講演」で「幼児虐待と人間発達」と題して講演された、藤永保氏の講演録(法と心理2006.5巻1号)に次のようにあります。その講演録から拾ってみます。

これは、1971年12月に報道された幼児虐待に関する事後研究報告です。事件は、満6歳と5歳になった二人の姉と弟の姉弟が、戸外の小屋に、1年半くらい放置していた。後日、分かったことは、非常に困窮し生活保護を受けていた、住職さん(義理の父親)を無住のお寺に、民生委員が留守番代わりに住み込ませた。その住職は、お寺の本堂の板の間の上に2人ともおしめを当てられたまま、芋虫のようにころがされていた。そして垂れ流しのままなので、あまりにも汚れると、父親がバケツに水を汲んできて本堂の板の間へざっと2人の体の上から水をかけ流していた。出生直後から極端な放置状態に置かれていたが、5歳4歳近くなると、ハイハイをし始めるようになり、親の住んでいる居問のほうに這い出して来るようになった。そうすると垂れ流しに怒って、お寺や居間中が臭くなると民生委員に顔向けができないと、お寺の広い回廊に一部にプラスチックの板で囲って、そこに閉じ込めてしまった。そして、約1年10ヶ月くらい放置されていた。世話は、2.3歳上の姉が食べ物を運んでいく程度の世話をしたという状況です。

講演者である藤永氏によると、当時満6歳と5歳の子どもであったが、最初にあったとき、
年長の1歳代の少し発達が遅れてよちよち歩き程度の子どもたちがプレイルームで遊んでいる10何人くらいの数の子どもか、どの子が当該の2入であるかというのが分からなかったとあります。5頭身くらいの体型(約1歳から2歳くらいの子どもの体型)で、2人の身長は姉が80. 5cmでありまして、弟は80cm。体重はそれぞれ8kg。その当時の体位に換算しても1歳程度、1歳を少し出たくらい程度だった。
 2人とも救出当時、歩くことができなかった。つかまり立ち程度はできた。発語は、児童相談所の保育士さんの記録では、弟のほうは完全にO語であります。発話はなかった。姉のほうは1歳年長ということもあり、少し発語があった。肉体的成長はすさまじく、しがし弟は、150cmを少し越えるくらいで止まった。姉のほうもだいたい140cm足らずで止まった。

認知発達や言語発達のような精神的発達は、当初から姉のほうは5語くらい持っていて、弟のほうは0語だったが、救出後3ヶ月くらいになり、姉のほうは4語文、5語文みたいなものを話すようになる。たとえば、「来て、早く、何とかちゃん、泣いてる」というようなことを訴える。弟は、救出当初は鼻、耳、囗という基本的な人体語もぜんぜん理解できなかったが、2ヵ月後にはもう既にそれが理解できるようになっていた。

 当初は特殊学級に行けるかなという余計な心配をしたのでありますが、この子どもたちが今は立派に成長したということを考えると、私たちはどんな事例に対しても、初めからあきらめる、ということではなくて最善の努力を尽くさなければいけない、そういう教訓を新たにするということが第一です。
 しかしながら、やはり一番末の妹との対比で見れば、この2人はある意味では恵まれた素質を持っていたはずですが、その素質を十分に汲みつくすことはできなかった。乳幼児期は初期発達的意味が大きく、後の発達期より基本的には重要である。(以上)

幼児期の教育は非常に重要ですが、「狼に育てられた子」のような状態ではないようです。
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見えている世界

2013年10月29日 | 日記
早朝のウオーキング、最近は過去のお説教録音をICレコーダーで聴きながら歩いています。今日は、平成9年5月の当寺永代経の折の録音でした。紹介するのは、最初の住職(西原祐治)の挨拶です。

先日、『がん患者・家族の語らいの集い』の旅行で45名で伊東の修善寺へ行ってきました。夕食の折です。世話人が「西原さん、Yさんのお隣へ座ってあげてください」と言われます。Yさんは眼がご不自由な方(6年前から完全に失明、およそ50歳)です。世話人の一人である私にYさんの食事のお世話をして欲しいとの依頼です。食事をしながら私はYさんに「今、眼が見えたら何が見たいですか」と聞くとYさんは「眼が見えたら、まず人に親切をしたい」と言われます。いつも外出した時(都内)、眼が不自由な自分に「どちらまでですか」などを手を貸して下さる人が多いという。自分も眼が見えたら、そのような親切をしてみたいと言われるのです。

私はYさんのその返答に中に、自分の質問の中にあった、あるおごりに気付きました。そのおごりとは、私は目が見える人、Yさんは見えない人です。そのYさんが眼が見えたら、私が見えているところの何が見たいですか、という自分中心の意識です。実は眼が見えないYさんには、眼が見えていないなりに、見えている世界があったのです。そのような気付きを多くいただいた旅行会でした。

この旅行は、いつも優しさに満ちています。点滴をしながら参加されている方や、闘病中の人。その弱い人に合わせてスケジュールを組んでいるからです。このやさしさは弱い存在によって生まれていきます。強い人ばかりの中からは、やさしさは生まれません。弱い壊れそうな状況に相対したときにやさしさが発動するのです。

今、阿弥陀如来の発動された願いは「無条件の救い」です。限りないやさしさを発されたのです。その阿弥陀如来をしてそのように慈悲を発動せしめた私の存在とはいかなるものか。そのことが明らかになる。それは今日の法座です。(以上)

すっかり忘れていることでしたが、朝から尊い念仏のご縁に遇いました。

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「辛抱ばい」

2013年10月27日 | 日記
“映画俳優”で初!高倉健(85)に文化勲章「母の言葉を胸に」、昨日(25.10.26)の新聞紙面のタイトルです。

これまでの俳優人生を「『辛抱ばい』という母の言葉を胸に」歩んできたと振り返り、「映画は国境を越え言葉を越えて、“生きる悲しみ”を希望や勇気に変えることができる力を秘めていることを知りました」とこれまでの人生が有意義だったことを強調したとあります。

2012/4/20 の日本経済新聞に「母心」のタイトルで、その当たりのことを語っています。

■耳に残る「辛抱ばい」

母に抱かれて
 ふと、自分の母親のことを想い出してしまいます。
 今も耳の奥に残る一言は、「辛抱ばい」という母のつぶやきです。
 炭鉱の労務管理の仕事をしていた父は、満州の鉱山に単身赴任。母は4人の子どもを抱え、孤軍奮闘していました。特に小さい頃から体が弱く、8歳の時、結核の一歩手前の肺浸潤という病にかかった私は、人一倍の苦労をかけてしまいました。私は母親をひとり占めにしてしまったのではないだろうか? ふたりの妹たちへのそんな負い目が、今も残っています。
 息子の映画は欠かさず見ていたのに、とうとう1本も褒めてくれなかった母…。
 「あんたが雪の中を転げまわるのは切ない」
 手紙にはいつも、そう綴(つづ)ってありました。
刀を握り、背中一面に彫り物を背負った任侠映画のポスターを見て、「あの子はまた、あかぎれを切らしとる」と、踵(かかと)からわずかにのぞいた肌色の絆創膏(ばんそうこう)を見つけたのは、世界中でたったひとり、母だけでした。
 それなりの収入を得られるようになって、兄に贈った腕時計。家に帰ったときに値段を聞かれ、「150万円くらいかなぁ…」と答えると、母は不機嫌そうにポツリと言いました。
 「あんたは、増長しとる」

また別の媒体では、
私はこの一言に支えられ、南極、北極、灼熱(しゃくねつ)の砂漠から厳寒の冬山を駆け抜けてきました。 不条理ばかりのこの業界で、道を踏み外さなかったのも間違いなく「おふくろを悲しませたくない」の一心。母は、私にとっての規範であり、法律でした。」ともあります。

1989年の東宝映画「あ・うん」の撮影中、お母さんは91歳で逝去されたそうです。

言葉は短い方が、強く自分の支えとなるようです。
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復讐代行屋という業種

2013年10月26日 | 日記
読売新聞夕刊(25,10.24)“「復讐代行屋」逮捕”という囲みのニュースが掲載されていました。「へ―、そんな行者があるの?」と思って、インターネットで検索すると、本当にありました。下記のような言葉が掲載されています。

法では解決できいことで悩んでいませんか?
★人には頼めない事を、お願いしたい。
★制裁して復讐したい奴がいるので力を貸してほしい。
★人には言えない方法で解決してほしい
★トラブルなどに遭ってしまい、闇で解決したい。
★代理・代行をお願いしたい。
★一人で出来ない事を手伝ってほしい。
復讐代行に依頼して貴方が直接手を下す必要はありません

冤罪工作・長期入院工作・社会的報復工作・家庭崩壊工作
「復讐」はときには必要です・・・
「育毛シャンプー&リンスに脱毛剤を混入すると、髪の毛がキレイさっぱり無くなります。
号泣の様子が想像できます。」などなど、新聞記事には「女から数十万円の入金があった」とあります。結構高額です。業者の中には女性もいるようです。

私はこの新聞記事を見て、もう1つ考えさせられました。それは八百屋、葬儀屋、魚屋という「〇屋」の表現です。この表現には、相手を低く劣って見るという差別性があるので、意識して使わないようにしています。

ところがこうした犯罪がらみの業種には「復讐代行屋」「殺し屋」などと、差別して当然なので〇屋表現が許されます。「殺し屋」という表記で〇屋に差罰性を持たせ、「八百屋」は、差別性があるので使わないようにする。このようにして差別が作られていくのだなーと思いました。
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