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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「恥をかくのが怖い」から解放される本②

2024年08月10日 | 日記
『「恥をかくのが怖い」から解放される本: 自己肯定感を高めて、自分らしく生きるレッスン』(2024/4/3・イセル・サン著)からの転載です。

恥と罪悪感の違い
 罪悪感が自分のしたことに対して感じるものである一方、恥は自分の存在に対して感じるものです。あなたが罪悪感を覚えたとすれば、罪悪感を呼び起こすような何をしたのか、何かを怠ったのかを大抵は言えるはずです。しかし恥はそうではありません。何を恥じていいかわからなくても、恥を感じることはあるのです。恥ずかしいと思っていることを誰にばらされるかもしれないとか、仲問外れにされるかもしれないとかいった恐怖にさらされながらも、自分は問違っているかもしれないという感覚にさいなまれているのかもしれません。
 罪悪感と恥が同じ行動から生まれることがあります。たとえばあなたが恋人を罵倒したとします。罪悪感は、あなたが「なかった」ことにしたい行動から生まれます。一方で、恥の感情は、あなたがしてしまった行動に自分自身の本性が表れていると感じた時に生まれるものです。
 「その行動から自分がどんな人間だとわかるだろう?私は愚か行なのだろうか? それともあくどい人間なのか?」
罪悪感は、責任をとれます。「これは私の問違いです。ごめんなさい」と。そうすることは大きな価値があります。しかし恥の場合は違います。あなたが一番言いたいこ言葉はこうでしょう。「私はやっていない」。なぜならあなたは自分の行動によってあなたにスポットライトが当てられ、自分の本性が注目されるのを恐れているからです。
 謝ったり、花を買ってあげたり、夕飯をご馳走したり、埋め合わせをしたりすることで、罪悪感を和らげることができますが、恥の感情はそうはいきません。恥は自分自身への不安や人間としての価値の低下という形で、あなたの心に巣くい、離れなくなるものです。
 罪悪感と恥は一緒に表れやすいのですが、この二つを区別できるようにすることが重要です。それぞれに別々の対処が必要です。

本当に見られていると感じること
 アイコンタクトは心地よく、深い心の慰めになります。目が合ったり、自分の姿が映ったりするのが心地よく感じられる、開かれた、穏やかな瞳を持つ人もいるでしょう。見られていると感じることは、人生を肯定される強烈な体験です。誰かがあなたに対してオープンに、無防備に接してくれて、あなたとまったく同じ波長であなたを受け入れてくれ、あなたが相手の視線や囗調や言葉選びやボディニフングージに親しみを感じた時に、その感情は生まれます。そのような感情を、まるで相手の瞳に触れられているかのように、体で感じることもあります。あなたは愛されていると感じるか、子どものように愛情深く抱っこされているような感覚になるかもしれません。そのような体験はしばしば、両者の心を通わせることでしょう。あなたが見られ、認知された瞬問に、あなたが見せている部分が初めて生まれるかのように感じられるでしょう。
 あなたが送るのも、あなたが受け取るのも、どちらも完全に非言語的なものかもしれません。
 ゆとりがあり、調和のとれたけ親または父親は、子どもの表情や声色、体の動き、呼吸に自然に合わせながら、人生を肯定するような出会いを子ども与えられます。安定した自己肯定感と良好な自己感覚を育むための鍵を見付けることができるでしょう。
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