『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(五十嵐 大著/文)からの転載です。
そしてもうひとつ、感動的な出来事があった。
先日、ぼくの手話を見たろう者から、こんなことを言われた。
〈五十嵐さんの手話って、お母さんの手話なんてすね〉
女言葉、男言葉と表現するのが正しいかどうかはわからないけれど、手話にも女性が使いがちなもの、男性が使いがちなものかあるらしい。また、指先を繊細に使っているかどうか、あるいは豪快な動きをしているかどうかによっても、印象が変わる。
その人はぼくの手話を見たとき、やや女性的であることに気づいた。それはすなわら「母親の手話を見て育った」ということではないか。そう思ったという。
それを指摘されたとき、目頭が熱くなった。
これまで親のことを散々傷つけてきたし、手話を毛嫌いして遠ざけていた時期もあった。そんな自分が、意図せず、母の手話を受け継いでいたのだ。
ぼくのなかに毋の手話が息づいているー。
胸が一杯になっているぼくに、そのろう者は続けた。
<五十嵐さんの手話を見ていると、お母さんに大切に育てられたんだなと思います。とても素敵ですね>(以上)
そしてもうひとつ、感動的な出来事があった。
先日、ぼくの手話を見たろう者から、こんなことを言われた。
〈五十嵐さんの手話って、お母さんの手話なんてすね〉
女言葉、男言葉と表現するのが正しいかどうかはわからないけれど、手話にも女性が使いがちなもの、男性が使いがちなものかあるらしい。また、指先を繊細に使っているかどうか、あるいは豪快な動きをしているかどうかによっても、印象が変わる。
その人はぼくの手話を見たとき、やや女性的であることに気づいた。それはすなわら「母親の手話を見て育った」ということではないか。そう思ったという。
それを指摘されたとき、目頭が熱くなった。
これまで親のことを散々傷つけてきたし、手話を毛嫌いして遠ざけていた時期もあった。そんな自分が、意図せず、母の手話を受け継いでいたのだ。
ぼくのなかに毋の手話が息づいているー。
胸が一杯になっているぼくに、そのろう者は続けた。
<五十嵐さんの手話を見ていると、お母さんに大切に育てられたんだなと思います。とても素敵ですね>(以上)