仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

聖人いまさずば

2023年04月30日 | 浄土真宗とは?
27.28日と京都へ団体参拝。28日は、本願寺聞法会館⇒本願寺⇒六角堂⇒錦市場⇒本願寺飛雲閣・書院見学⇒法要参拝⇒東京でした。

法要に参拝すると、記念品や冊子等が入った封筒が席に置いてあり、その中になんと2020年に「聖人いまさずば」というテーマで書いた、私の写真と原稿が掲載されていました。以下、当時の原稿です。

親鸞さまのご誕生の日を、お釈迦さまにならって「降誕会」と言います。この「降誕」という言葉を、有難いと思ったことがあります。
あるとき誕生という言葉を辞書でひきました。すると「人の生まれること」(『広辞苑』)とありました。誕生とは、動物ではなく人の生まれること言うのです。では「誕」は、人だけに使う文字であり、言編もついているので、きっと素晴らしい意味のある文字だろうと、また辞書で調べました。すると意外にも「いつわること、でたらめ」(『広辞苑』)とあります。有難いと思ったのは、このときです。お釈迦さまの降誕は、「ウソ、偽りのなかにわが身を降ろす」いうことです。「たとひ身をもろもろの苦毒のうちにおくとも」(『讃仏偈』)という苦難に満ちたできごとだったのです。有難いと思ったのは、ここにひとえに私たち救うためのご苦労があると思われたからです。
 聖人のご誕生の日を「降誕会」と言います。そのご生涯は、お若きおりのご両親との離別、比叡山での20年間のご苦労、越後へのご流罪、関東での伝道などなど、ご苦労多きなかに、『無量寿経』の真実のみ教えを見極め、私たちにお伝え下さいました。まさに「降誕」のご生涯でした。
 日頃、当たり前のように浄土真宗のみ教えに触れあうことができています。しかしその私の当たり前の中に、先人のご苦労があったのです。
10年前、ある講習会の講義で「自分への手紙」という内容の実習をしたことがあります。「自分への手紙」とは、「自分の命が、あと二週間、その状況下にあると思って、自分へ手紙を書く」というものです。そのとき私も一緒に書きました。以下は、そのときの手紙の一部です。
 わがまま一杯の生涯でしたね。多くの人に迷惑をかけたことでしょう。でもそのなかで、親鸞聖人に出遇えて良かったですね。多くの方のお説教で聞いてきたとおり、得難い人生でした。(中略)悲しければ、泣いていいのですよ。悔しければ怒っていいのですよ。しがみつきたければしがみついていいのですよ。その一息一息の上に阿弥陀さまはご一緒してくださっているのですから。
 これからの二週間、泣いて暮らしてもいいのですよ。今までどおり、わがまま一杯で過ごしてもいいのですよ。あなたがあなたであることを大事にしてください。
 今手紙を書いている私も、一緒にあなたと共に過ごします。
 でも本当に良かったですね。今あなたは思っていることでしょう。一昨年、若手布教使の研修会で『あなたにとって親鸞さまは、どういう方ですか』と問われて、答えられないことがありましたね。
今は、その親鸞さまに出遇えて本当に良かったと思っていることでしょう。私もそのことを喜べるあなたであったことを祝福します。(以上)
 親鸞聖人が、浄土真宗をあきらかにされて800年、あまたの人たちが聖人の導きにより阿弥陀さまの願いに触れ、南無阿弥陀仏のお称名のなかに生き、そしてご往生されていったことでしょう。これはひとえに「親鸞聖人ご出世のご恩」です。
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そば喰い身代わり御像

2023年04月29日 | 浄土真宗とは?
27.28日と京都へ団体参拝。27日は、東京⇒京都⇒東福寺⇒京都国立博物館⇒三十三間堂⇒本願寺聞法会館でした。
国立博物館を出て、対面の三十三間堂に向かうと「親鸞聖人そば食い身代わり御像・法住寺」という案内看板がありました。親鸞聖人そば食い身代わり本尊の話は聞いていたので、数人は三十三間堂ではなく法住寺へ参拝しました。


法住寺は後白河法皇が創建された天台宗寺院で、この木像は、天保5(1834)年に山を下り東山渋谷に移され、更に明治の初めに法住寺に安置されるようになったとあります。

親鸞聖人そば喰い身代わり御像の話は次のような話です。



六角堂へ100日間の参籠を決意した親鸞聖人、夜な夜な山を下りる聖人の行動を、他の僧侶達は怪しみ始めました。そこで聖人は、木像を彫り上げ、身代わりを勤めさせることにした。ある晩、天台座主によって僧侶たちは「そば」の振る舞いを受けました。すると座に座った身代わりの木像は、見事にそばを食べ終わった。後でソバを食べた聖人を確認したところ、それは親鸞聖人そっくりの木像で、口元にはソバがついていたという。

鎌倉時代には、現在のような切りそばはなかったというので、そうした伝説が、どのようにして生まれ、何を伝えているのか興味深い所です。

法住寺は、後白河法皇の廟所がありました。写真は、その身代わり御像の絵ハガキからの転載です。

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内的動機の持続性

2023年04月27日 | 日記

『「ココロ」の経済学: 行動経済学から読み解く人間のふしぎ』 (依田高典著)からの転載です。

 

 内的動機の持続性

人間の内的動機に訴えかけて、節電のような、社会的行動を促進させることが、行動経済学の分野ではよく知られています。しかし、どの程度、その効果が長続きするものか、完全には分かっていません。そこで、私と共同研究者は、1012年夏、東日本大震災後の京都府南部で、経済産業省プロジェクトの一環として、一般家庭に、節電をお願いする介入と電気料金を1㌗あたり25円から最大100円程度まで時間帯別に変動させる介入の2種類を導入して、その持続効果を比較検討しました。

 その結果は、とても興味深いものでした。平均的な節電効果は、節電要求が3%、変動型電気料金が20%と大きく開きましたが、最初の数日に限れば、節電要求も8%とそれなりに大きな節電効果を持ちました。しかし、その後、節電要求の節電効果は急速に減衰し、ほとんどゼロになってしまいました。他方で、変動や電気料金は、最初から最後まで、安定して節電効果を持ち続けました。

 それだけではありません。実験の介入かなくなった後も、変動型電気料金の介人を受けた家庭では、約半分近く(約8%)、節電効果が生活習慣化したのに、電要要求の介入を受けた家庭では、節電が生活習慣化した痕跡は観察できませんでした。

 以上の結果から、人間の内的動機に訴えかけても、価格メカニズムを活用した外的動機に比べて、その持続効果や生活習慣効果は限られているこしか分かります。

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イースタリン・パラドックス

2023年04月26日 | 日記

『「ココロ」の経済学: 行動経済学から読み解く人間のふしぎ』 (依田高典著)からの転載です。

 

 幸福度研究の可能性

 経済的富と幸福の直接的関係に対する興味関心が高まったからでしょう。幸福調査で観察される定型的事実があります。国のなかでは所得と幸福の間で相関関係が見られますが、異なる国の間の比較では所得と幸福の間に相関関係がみられません。これを発見者の名をとって、「イースタリン・パラドックス」と呼びます。

 

 イースタリン・パラドックスを考えてみると、2つの説明が可能です。第一に、人間が気にするのは自分の絶対所得ではなく、他人との相対所得である。第二に、所得が上がれば、一時的に幸福度は増すが、すぐに慣れて幸福は元に戻る。そのように考えると、パラドックスをうまく説明できます。幸福調査で得られたデータをつぶさに検討することで、主流派経済学が軽視してきた人間認知への深い洞察が得られ、さらなる研究の萌芽が見つかるかもしれません。

 

*イースタリン・パラドックス

「経済が成長すれば国民の幸福度も高まる」と多くの人が思っているが、先進国の調査によると、経済成長によって一人あたりの所得が増えても、あるところを超えると、一人当たり所得の伸びと「幸福度」の伸びが明確な相関を持たなくなる。これは「幸せのパラドックス」と呼ばれています。最初にこのことを提唱した米国の経済学者、リチャード・イースタリンにちなんで「イースタリンのパラドックス」と呼ばれる。

日本のデータを用いて、一国内での所得と主観的幸福度の変化率の比(弾力性)を調べてみたところ、所得が増加するにつれて、主観的幸福度が増加するが、所得の増加率ほどには主観的幸福感は増加せず、その変化率の比も1100万円で最大となった。

 

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新しい「領解文」の問題点 下

2023年04月25日 | 浄土真宗とは?

 

『中外日報』(2023.4.19日号)新しい「領解文」の続報です。

 

新しい「頷解文」

 

本願寺派 新しい「領解文」の問題点 下

 

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)に関する多岐にわたる問題点について、今回は拝読・唱和の問題と背景にある組織的課題について取り上げる。 (渡部梨里)

 

 総局は2023年度宗務の基本方針にのっとり、新しい「領解文」の拝読・唱和を進めている。第321回定期宗会で「理解か深まるまで拝読・唱和を待ってほしい」との請願書が提出されたり、これまで関係諸会議で出席者から現場の拝読・唱和に対する違和感や再検討を求める声が幾度も直接総局に伝えられたりしてきたが、施策に反映されていない。

 新年度を待たず早急に拝読・唱和を進めた背景には3月29日から始まった親鷺聖入御誕生850年・立教開宗800年慶讚法要での全体唱和を実現したいという強い思いがあったからと考えられる。現場の声に対し総局の「ご門主のご意向だから」の一点張りで議論の余地を持たせないやり方は反発を招いている。

 

組織的な課題とは

 

 総局が宗門法規にのっとりしかるべき手順を踏んで進めてきたにもかかわらず混乱が生じているのであれば、組織や制度的に問題があると言わざるを得ない。

 第321回定期宗会で新しい「領解文」を中心とした基本方針が可決され、拝読・唱和の時間的猶予を求める請願書が否決されたことに対し、現場からは「当然(基本方針が)否決されると思った」「現場の声が届いていない」といった声が聞こえる。

 松野尾慈音議員は、請願書の紹介議員の署名をするに当たって所属会派を退会し「採択に当たり、会派から議員に対する制約があってはならない。教区から選出された原点に立ち返り、それぞれの考えで決めてほしい」と発言していた。

 現在宗会には僧侶宗会議員が所属する四つの会派と門徒宗会議員が所属する門徒議員会会ある。

請願書の採決の際、賛成した議員はほ一つの会派に集中し、他会派は反対するという構図になった。そこからは事実上の党議拘束と総局の議案が通る体制が垣間見え、宗政リアリズムに対する失望が宗門に広がっている。

 また門主が任命した5人の勧学(寮員)で構成される勧学寮の同意の上で消息が発布されたが、後に寮員以外の勧学・司教らか撤回を求める声明を出している。現在、勧学は16人、司教は18人おり、4月8日の声明には勧学4人と司教・15名を連ねた。事情があり名前を明かせない人を含めると、全体の8割以上はこの声明に賛同しているという関係者の話もある。

 なぜ同意に至ったのか、その経緯や議論に関して宗会の予算審査会で宗会から総局を通し勧学寮に寮員会議の議事録を請求したべ公表されなかった。

 新しい「領解文」に意見することは、門主批判につながるのか。石上智康総長は「ご門王のご教

化を深く受け止める二とが宗門人のっとめ」等の警審繰O返し、一方で勧学・司教らは声明で玉徂のご法朧に重大な誤解を招きかねない文言 て凵が、ご門王さまの名のも ながとて発布される『ご消 『実息』として掲げ続けりれな石ることを、座視すること 声畆はできない」と教学的問百(題を指摘している。   う。

 宗門内には意見する二 なことをタブー視するような丁宣言又感かおり、発言を控求め寮に寮員会議の議事録を請求したが、公表されなかっこ。       

 新しい「頷解文」に意見することは、門主批判につながるのか。石上智康総長は「ご門主のご教化を深く受け止めることが宗門人のつとめ」等の発言をくり返し、一方で勧学・司教らは声明で「宗祖のご法義に重大な誤解を招きかねない文言が、ご門主さまの名のもとに発布される『ご消息』として掲げ続けられることを、座視することはできな」と教学的問題を指摘している。

 宗門内には意見することをタブー視するような空気感があり、発言を控える人も少なくないが「同朋教団として教団全体で議論していくべきだ」との意見も根強く、どちらも門主批判の意図はないものの、相反する考え方が存在している。1月16日の発布以降、問題意識は徐々に広がり、意見書を提出したり活動を行ったりと多くの人々が声を上げ始めている。「門主批判につながりかねない事態や「宗派を二分する流れになるのでは」と懸念する声もあり、現状を収束できるのは総局だけだろう。普及策の推進だけでなく、多くの人々の声に丁寧に応えていく姿勢が求められている。(以上)

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