仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ルール違反

2016年01月31日 | 現代の病理
少し前、廃棄処分の食品を転売した事件が大きく報道されていました。一昨日(28.1.29)は、読売に「ローソンによると、焼き鳥は三菱商事グループの食品メーカーが製造。昨年3月、賞味期限が迫ったため、約2万9000本が別の業者を通じてダイコーに持ち込まれた。」と小さなニュースが掲載されていました。

まだ食べられる食品の廃棄を依頼されたが、廃棄せずに転売して儲けたという構図です。問題は、「ルール違反」です。現代の日本では、ルールを守ることが正義なのでしょう。

次のケースではどうでしょう。賞味期限が切れているので、政府がルールに従って廃棄すべく、倉庫に保管していた。ところがその国では、干ばつで多くの餓死者が出ていた。正義感の強い青年が、夜中、闇に紛れてトラックに廃棄処分の食品を移し替え、奪ってきて、民衆に食品を配布した。

この場合は、ルールより現実への柔軟な対応が正義のなるのでしょう。こう考えると、廃棄処分の問題を、ルールだけで割り切っている現代日本のいびつさが思われます。

「三分の一ルール」というものがあります。食品業界で15年ほど前から出来た商習慣だそうです。
“食品の製造日から賞味期限までを3分割し、「納入期限は、製造日から3分の1の時点まで」「販売期限は、賞味期限の3分の2の時点まで」を限度とする”ものです。そしてその後は廃棄です。

価値観が多様化すると、共通のルールが大きな権力となっていく。そのことを理解したうえで、大岡越前裁きが見たいものです。
これは犯罪者を許すということではなく、ルールそのものにメスを入れるということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京拘置所の仏壇

2016年01月30日 | 日記
昨日(28.1.29)、毎月の(株)杉田製線(東京都墨田区東墨田、380名)での法話会。今年から、少し気合を入れて話術を磨こうと思って、演台に立ちましたが、法話中はすっかり忘れて、いつものペースでした。反省。

この杉田製線には、4年前までは、渡邉普相師(東京教区芝組當光寺前住職、元全国教誨師連盟の理事長)が長く毎月、出向していました。そうした経過もあって、昨日、法話前の茶話で、社長さんが普相師の、ほぼ半世紀 にわたって死刑囚の教誨を務めた記録である「教誨師」(講談社刊・ 堀川 惠子 著)を、参詣者の皆さんで回し読みすべく購入しましたという話題となりました。

その会話の中で、「実は、東京拘置所(葛飾区小菅)の(*2003年完成・南収容棟・中央管理棟の地下)の仏壇は、私(杉田製線)のところで寄付させていただいたんですよ」とのこと。渡邉普相師が、頼みに来られて寄付したという。


 2010年8月27日に、当時の千葉法相が「国民的議論の契機に」と、報道機関21社の記者1人ずつと代表撮影スタッフのみの参加という極めて限定的に、取材と写真撮影を許可したことがあります。(写真、仏教、キリスト教、神道、その他と、回転式で変更できるようです)

写真はhttp://karapaia.livedoor.biz/archives/51761710.htmlより転用。
私が、ここで記しておかないと、永久にそのことが不明になるような気がするので、記録しておきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏壇 子供の情操に好影響

2016年01月29日 | セレモニー
今日の『産経新聞』(28.1.29)に“仏壇 子供の情操に好影響”という記事が掲載されていました。その部分だけ転載します。

仏壇参りと子供たちの「優しさ」の関係性を調査した面白いデータがある。
 線香や香の老舗である「日本香堂」 (東京都)は昨年、“尾本ママ”こと教育評論家の尾木直樹さんの指導・監修で「子ども達の『供養経験』と『やさしさ』の関係性」を調査した。
 12歳から18歳の男女約1200人を、仏壇参りを「毎回」 「時々」 「しない」の3つのグループに分けて、他者への優しさに対する比較を行ったところ、明確な差が見られた。
 例えば、「誰かが悩みを話すとき『そんなこと知らない』とは思わない」という子供は「毎回」のグループでは56・6%なのに対して、「しない」のグループでは43・9%しかいなかった。「淮かが困っているとき、その人のためにそばにいたい」とする子供が「毎回」では45・6%いたのに対し、「しない」では33・2%と10%以上もの差が開いた。
 仏壇業者らでつくる全日本宗教用具協同組(全宗協)で広報担当をしている保志康徳さんは、「仏壇は心の文化や祈りの文化を継承する役割を柤ってきた。仏壇に手を合わせるということが、感謝の気持ちを増幅したり、見えないものに対して畏敬の念を持ったりといった点で、いい方向に影響しているのではないか」とみている。
  (『終活読本ソナエ』2016年冬号に詳細を掲載(以上)

「日本香堂」が実施した、こうしたデーターは、その数字からいかようにも作文できるので、鵜呑みにはしません。私はむしろ、仏壇以上に、仏壇に手を合わせる両親という環境の中で育っている点の方が、効果が高いのではないかと思われます。

とはいえ、お寺には追い風です。

三面記事では“大田区3歳児虐待死 「息しているから大丈夫」と病院に行かせず、指定暴力団住吉会系組員・永富直也容疑者(20)。礼人ちゃんが亡くなる2日前の1月25日。
永富容疑者は、礼人ちゃんの頭に、かかとを振り下ろす「かかと落とし」をしたり、体をガラスケースに投げつけるなどしたという”。

記事を読みながら、ふと自分のことは棚にあげて「どうしたら永富直也容疑者のような人格が育つのか」と思ったとき、先祖に感謝という仏壇とは無縁な生活のなあkで育ったののではないかと連想しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見直される宗教の役割

2016年01月28日 | 都市開教
『宗教と公共空間―見直される宗教の役割』(島薗進・磯前順一編・東京大学出版会)を図書館から借りてきました。

その中に次のような文章があります。(9頁)

現在、東北で起こっている宗教の見直しが、従来の宗教観の復活(リバイバル)ではなく、ビリーフ中心主義的な宗教観そのものの変容を不可避にともなうものであることが確認された。それは現代日本の世俗的社会に宗教の意義を再確認することを提言するとともに、宗教者に対しても従来の宗教観を見直す必要を促す、宗教と世俗の双方に見直しを迫るものである。(以上)

「ビリーフ中心主義的な宗教」のビリーフ とは、 概念化された信念体系という意味なので、従来の宗派側から発信される信心の教えとは違う視点からの世俗への対応が不可欠だという。

東北での災害活動で「宗派宗教を越えた宗教者が集まって、自分の宗派の布教ではなく、被害者の方々に宗教的なケアをする」活動がなされていますが、私はそうした活動に対して「宗教者である必要はないのではないか」という疑念を持っていたので、上記のような、新しい宗教の試みであるかと再認識しました。

同書10章に島薗進氏が「現代日本の宗教と公共性」に“教団の機能の転換”を執筆されています。重要なことなので、私がアンダーラインを引くであろうというところのみ転載し紹介します。

以上、述べてきたのは現代人の「教団ばなれ」の傾向を反映するもので、日本の仏教界の地殻変動と大きく関わっている。固定したメンバーが受動的も固定的な儀礼パターンに参加し続けることに、多くの現代人は意義を見出しにくくなっている。

 以上、布教・伝道により熱心な信徒の共同体を形成し拡充していったり、儀礼を通して地域社会や家族・親族の絆を強めつつ超越的な次元への眼差しを喚起するという、従来の仏教教団の機能が低下してきているのではないかと示唆してきた。では、現代において仏教教団にはどのような機能が求められているのだろうか。上記の機能とはやや異なるタイプの機能が求められるようになっているのではないだろうか。
 上記の機能は「宗教」に固有の領域、いかにも宗教らしい領域で宗教が果たす機能たった。だが、現代では狭い意味での宗教をはみ出るような領域で、宗教的なものの果たす機能が求められているようだ。

災害支援
無縁者・貧困者支援・自殺防止
世界各地のさまざまな苦難・困難への支援
緩和ケアースピリチュアルケア
広く医療や健康への関与・貢献
地域社会の諸問題への貢献
環境問題・原発問題への関与
生命倫理・応用倫理への関与
平和・戦争・人権に関わる問題への関与
世界の諸宗教との対話・協力・融和のための活動
教育(子どもの養育、学校、大学、社会教育) への貢献
伝統文化・精神文化の継承と発展
 
これらの活動は仏教固有のいわば霊的(スピリチュアル)な側面から切り離されたものだろうか。そうではない。広く社会生活のさまざまな側面には宗教的(霊的・精神的)な次元がある。近代化の過程でそれは国家・自治体などの世俗的なセクターに任されていく傾向があった。科学や合理主義的学問を身につけた専門家こそがそのリーダーと考えられた。しかし、それらの諸側面にも、実は宗教的な次元が含まれている場合が多く、そのことがあらためて気づかれつつある。(以上)

これからの教団のおける活動の方向性を示唆する内容ですが、現代の日本が、宗教団体の存在意義を目に見える形で示すことが求められ、「宗教の社会貢献」が問題とされる時代背景があります。本願寺派の「実践運動」もその流れの中にあります。しかし安易に流されるのではなく、流されつつ真宗のコアを見失わないことが大事でしょう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名ばかりの門徒という帰属意識

2016年01月27日 | 都市開教
せっかく図書館から借りてきてのだから『信仰はどのように継承されるかー創価学会にみる次世代育成』(猪瀬優理著)から参考になるところを引いてコメントを付けます。

この本とは別ですが、浄土真宗の門徒の家庭を研究されている森岡清美氏は、日本社会に独自に現れる文化の型としての日本的な組織モデルを、『真宗教団と「家」制度』で、「家」論の視点から既成仏教教団の組織モデルをいえモデルの紹介しています。

同氏は、新宗教教団の組織モデルを
① 「オヤコモデル(布教ラインに沿った上下の個人的オヤコ関係)」
② 「いえモデル(主従的「家」連合関係)」
③ 「なかま─官僚制連結モデル(末端のなかま集団と中央の官僚制組織との連結関係)」

以上の3つです。真宗教団や天理教団は、「いえモデル」であり、立正佼成会や創価学会は、「なかま─官僚制連結モデル」が採用して拡大したという。

さて『信仰はどのように継承されるかー創価学会にみる次世代育成』ですが、この本では、「信仰の継承」を、具体的には、会員として、勤行・唱題を定期的に実行し、創価学会の会合に参加していることを指すことにおいています。

しかし信仰とは多面性があり、その多面性を次のように整理しています。以下転載(英文の除く)

宗教性の次元数や指し示す内容についても多様である。たとえば、内在的と外在的の二つに分けるもの。観念的、知的、儀礼的、経験的、間接的という五つの側面に宗教性を分けるもの、儀式的、神話的、教義的、倫理的、社会的、経験的という六つの側面に分けるものがある。多いものではI〇以上の次元を挙げる研究者もいる。
これらの宗教性に関する議論を整理すると、大きく分けて宗教性には、儀礼や経験や社会つながりなどの宗教的な「実践」に関わるもの、教義など宗教的な「知識」に関わるもの、倫理や経験をどのように解釈するかなどの宗教的な「心理」に関わるもの、という三つの側面があるとみることができる。(以上)

私はこの部分を読んでいて面白いと思ったのは、上記の文面とは関係ないことですが「名ばかりの門徒」ことです。特に都市社会において葬儀が発生して「では宗派は?」となった時、親類が「浄土真宗」と教えたり、仏壇の中に「釋○○」とあり、本人には自覚はないが、新たに浄土真宗の縁を持つということがあります。潜在的関係性の中の繋がりとでもいえます。

墓地経営においても言えることで、新たに墓地を購入した時点では所属宗派を知らなくても、改葬や開闢法要のおりに、「浄土真宗だった」とあるケースが多くあります。

「浄土真宗とはないか」を知らなくても、「我が家は浄土真宗の流れをくむ」という意識、つまり「名ばかりの門徒」という関係性も重要です。そしてその意識があるうちに、しっかりの縁を持っていただくことが大事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする