仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

同化主義

2019年02月28日 | 日記
今日(31.2.28)の『読売新聞』「想う2019」に、歴史人口学者エマニュエル・トッド氏が日本の移民問題について“「日本人どうし」抜け出せー移民拒めば衰退多文化主義よりも同化主義”というインタビュー記事が掲載されていました。

以下、関心のあった言葉のみ転載します。

日本はなぜ移民を拒むのでしょう。人種差別主義、あるいは外国人嫌いなのでしょうか。やがて私は問題の核心を理解します。外国人を敵視するのではなく、日本人どうしでいる状態を失うことが怖いのです。日本人どうしの居心地は申し分なく、幸せなのです。日本社会は自己完結の域に達していると言えます。 それは極めて特殊です。
フランスの場合、誰もが身勝手で不作法。フランス人どうしでいると不愉快になります。だから移民受け入れに特段の不安はなかった。


 日本文化は人類史の素晴らすしい達成の一つです。日本に働きに来る人々が日本文化にて魅了され、日本人になることを誇りに思う可能性は大きいと私は考えます。(以上)

多様性を認めようという声が大きい中で「同化主義」を語る意見に興味を持ちました。
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親鸞聖人の時代⑪

2019年02月27日 | 親鸞聖人
平安時代末期から鎌倉時代にわたって、中国から宋銭を多量に輸入して、日本に矯激な貨幣経済が行き渡りました。以前書いたことですが、親鸞聖人のお手紙に「銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。」「御こころざしの銭五貫文」「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ。」「銭二百文、御こころざし」とあります。一千文で一貫です。およそ一貫で米一石(百升・150キロ)、一キロ500円で、三百文は約25.000円、銭二十貫文は150万円です。聖人の晩年には、関東でも普通に貨幣経済が成立していたようです。13世紀には、年貢も貨幣で支払うようになったとも聞きます。

鎌倉時代の入り、従来の自給自足に重点をおいた経済構造に代り、錢貨を使った流通経済が急速にひろまっていきました。貨幣経済以前は、絹や綿、あるいはその地域の特産物で納税していました。貨幣の流通によって、社会が変化したようにも思われます。
 一般的には、お金には3つの機能があると言われています。交換の手段、価値の尺度、価値の保存です。その三つの基礎となるものに「信用」があります。貨幣経済の成立によって、社会で生活する者が、同じ共通の価値観を共有するという結びつきが強固となった様に思われます。

平安時代から、武士や僧兵のように同じ利害によって結びつくということはありましたが、貨幣経済の登場によって、お金という利害によって結びつくことが容易になり、多種多様な集団が生まれていったように思われます。これは仮設ですが、その一つが鎌倉時代における「悪党」の出現です。

以下は『岩波講座 日本歴史6 中世』「内乱期の社会変動(小泉宣右)」からの転載です。


 12世紀後半以降の政治・経済情勢の変化により、各地に悪党と呼ばれる集団の活動が激化してきたといわれています。

この悪党という用語はすでに平安末期にみられ、鎌倉初期-中期の幕府法にもその禁令が散見されるのであるが、後期になると。1269(文永六)年の悪党鎮圧令、1280(弘安三)年の召捕令、1286(弘安九)年の悪党隠置禁止令、1303(嘉元元)年の諸国横行人禁制などの法令が頻出し、悪党問題が従来とは質と規模を異にする根本的な政治・社会                      
問題となり、執権政治から得宗専制への転換の基本的契機の一つとなっている。(以上)
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親鸞聖人の時代⑩

2019年02月26日 | 親鸞聖人
親鸞聖人の時代

九条殿遺誡(くじょうどのいかい)という、10世紀中ごろ右大臣藤原師輔が公卿としての心得を記した家訓があります。当時の一流の常識人が、いかに陰陽道などの、目に見えない存在を恐れていたかを知ることができます。

九条殿遺誡は、毎日起床後に行うべき事柄をはじめとする日常生活の作法,宮廷に出仕する際の心得など,公卿の生活全般にわたって細かい訓誡をのべており,子々孫々にまで重んじられたという。

先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏(まず起きたら、陰陽道の属星の名前を七回唱えなさい)。微音(ちいさな声で)、その七星は、貪狼(どんろう・とんろう)は子の年、巨門(きょもん)は丑亥の年、禄存(ろくぞん・ろくそん)は寅戌の年、文曲(ぶんきょく・もんこく)は卯酉の年、廉貞(れんてい・れんじょう)は辰申の年、武曲(ぶきょく・むこく)は巳未の年、破軍(はぐん)は午の年なり。鏡を取りて面(おもて)を見、暦を見て日の吉凶を知る(鏡を取って顔の様子を確認して、暦を見て、その日の吉凶などを確認する)。楊枝を取りて西に向かひ手を洗(次ぎに楊枝で歯を磨いて、西側を向いて手を洗え)。仏名を誦して尋常に尊重するするところの神社を念ずべし。事多きときは日々の中に記すべし。手の爪は丑の日、足の爪は寅の日。沐浴。ただし、5日に一度、毎月一日に沐浴すると短命になり、八日なら長命。十一日は目が明らかになり、十八日なら盗賊に遭う。午の日は愛敬が失せ、亥の日は恥を見ます。寅、辰、午、戌の日には沐浴すべきではない。(以上)

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国木田独歩

2019年02月25日 | 日記
山田風太郎著『人間臨終図巻 1』 (徳間文庫)からの転載です。

国木田独歩

明治 四十 一年 二月、 独歩 の 肺結核 は いよいよ 進み、 茅ヶ崎 の 南 湖 院 という 療養所 には いる こと に なっ た。…
  五月 に 独歩 は、 自分 が かつて 洗礼 を 受け た 日本基督教会 の 牧師 植村正久 を 呼び、 「あなた は、 かつて はじめて 私 の 心 を 開い て 下さっ た 人 です。 ところが いま、 死 を 前 に、 私 の 心 は また 閉ざさ れ て しまい まし た。 どうか もう いちど、 あなた の 鍵 で 私 の 心 を 開い て 下さい」
と いっ た。 植村 は いっ た。 「鍵 を 持っ て いる のは 私 では あり ませ ん。 神 です。 祈る こと です」 「私 は 祈る こと が 出来 ませ ん。 私 は 祈る こと が 出来 ませ ん」   と、 独歩 は ベッド の 上 で 泣い た。 彼 は 依然として 妻 の 治子 とともに 愛人 の 奥 井 君子 に 看病 さ せ、 病床 の そば で 二人 の 女 は 争い つづけ て い た。   六月 十 五日、 川上眉山 が 剃刀 で 頸動脈 を 切断 し て 自殺 し た。 その 報 を 知っ て 以来、 独歩 の 衰弱 は 目 に 見え て 進ん だ。   二十 一日 の 夜ふけ、 妻 の 治子 は、 独歩 の 泣声 に 眼 を さまし た。 「急 に 何だか 悲しく なっ て 来 た ん だ」   と、 彼 は 子供 の よう に 肩 を ふるわせ て 泣きじゃくっ た。   六月 二十 三日 の 夜 八 時 三十 分、 独歩 は 喀血 し、 血 に むせる よう な 咳 を し た かと 思う と、 息 絶え た。(以上)
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九条武子臨終の様子

2019年02月24日 | 日記
山田風太郎著『人間臨終図巻 1 』(徳間文庫)に、九条武子さまが掲載されています。以下転載です。

◆ 九条武子 くじ ょう・たけこ[ 一八 八 七~一 九 二八]  
京都 の 西本願寺 の 法主 の 姫君 に 生まれ、 九条 家 に 嫁 し ながら、 夫 の 九条 男爵 は 渡欧 し て 十 余年 帰ら ず、 僧房 に 孤閨 を 守っ て、 「みわたせ ば 西 も 東 も 霞む なり 君 はか へら ず また 春 や 来し」   などの 歌 を ふくむ 歌集『 金鈴』 は、 与謝野晶子 に、 こんな もの は 歌 では ない、 と 評さ れ た が、 作者 九条武子 への 憂愁 の 歌人 として の 民衆 の 讚歌 は、 その 絶世 の 美貌 への 憧憬 とともに 消える どころ では なかっ た。 彼女 は 大正 年代 の 代表的 麗人 と 呼ば れ た。   昭和 二 年 五月 ごろ、 銀座 の 資生堂 で 逢っ た 吉屋信子 は 書く。「-|-|翌年 二月 の 新聞 は 夫人 が 壊血病 に かから れ、 歯ぐき から 出血 止まら ず 重体 と 報じ た…… 去年 の 初夏 あの 店舗 の 灯 の 下 で 選ん で い られ た 棒紅-|-|その 朱唇 から 血 が もれる と 思う と 哀しかっ た。  -|-| それ からの 毎日 の 新聞 も ラジオ の ニュース にも 必ず 夫人 の 病状 の 一進一退 が くわしく 伝え られ た。 輸血 後 も 容体 思わ しから ず と、 体温 やら 脈 やら 呼吸 の 数 から、 おも 湯 八 〇 〇 グラム、 スープ 五 〇 〇 グラム。 うずら の 卵 九 個 に 鶏卵 の 黄身 二 個 と それ から 牛乳 それ からと、 数々 の 栄養 摂取 の 種類 まで 念入り に 報道 さ れる と、 わたくし は 御 病気 でも ずいぶん 召し上がる よう な 気 が し て 回復 も 近い と 思っ た。   けれども 夫人 の 癒 ゆる 望み は ついに なかっ た。 その 病床 には 主治医 の ほか に 東大 の 真 鍋 教授 が 立ち会っ て 居ら れ た。 武 子 夫人 は その 医師 たち に『 絶望 なら そう 早く 告げ て 欲しい』 と 言わ れ、 医師 が 患者 への 心づかい から 真実 を 告げ 得 ない 態度 に、 夫人 は『 ご存じ の くせ に』 と ほのか に 微笑 さ れ た と-|-|伝え られ た 時-|-|私 の バカ は 恍惚 と し た……。   発病 し てから わずか に 七日 目 に 世 を 去ら れ た から、 病中 は さほど やつれ も 見せ ぬ その 美しい 病人 が 医師 の 真実 を 告げ ぬ を うらむ が ごとき 眼差し を 向け て『 ご存じ の くせ に』 と、 たおやか な おんな 言葉 に かすか な 笑み をさえ 添え た 刹那 は、 まことに 幽艶 きわまっ た と 私 は わずか に 二度 見 た だけの 夫人 の おも かげ から 想像 あふれる よう だっ た。   夫人 逝去 の 日 は 朝 から 早春 の 雪 が こまか に 降っ て い た……」( 吉屋信子『 私 の 見 た 人』)   昭和 三年 二月 七日 午後 七 時 二十 五分 の こと で あっ た。
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