仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

コロナ不安に向き合う①

2021年01月31日 | 現代の病理

『コロナ不安に向き合う精神科医からのアドバイス』(2020/09・藤本修 著)、コロナ関連の本を図書館に数冊リクエストしていますが、みなリクエストが多く、なかなか落掌できません。その様な中で届いたのか上記の本です。「新型ウイルスによって、人々に強い不安やストレスが生まれている。精神科医としてこれらを分析し、症例に合わせた対処法を伝授する。」とあります。第5章に「不安に向き合う」とありますが、不安は向き合うことが良いようです。その向き合い方です。最後に各章をまとめて「コロナ不安に向き合う10箇条」が記されています。

 

その前章に「コロナ不安の対応策4」があり、その中から1つまずは紹介してみます。

 

 

 「ネガティブ・ケイパビリティ」、初めて聞く言葉です。これは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しょうのない事態に耐える能力」だそうです。あるいは、「性急に証明が理由を求めずに、不確実さちゃ不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」とあります。これっと、電話相談でわたし自身が、時に用いる手法です。自分を思い通りにコントロールできないもどかしさの中で、コントロール出来ないと安心できない自分に気づき、その自分を受け入れるということです。浄土真宗的に言えば、思い通りになったことだけにしか安心できない自己の愚かさが明らかになり、ありのままの自分を受け入れるということです。

 

本から転載しています。

 

 このネガティブ・ケイベビリティという言葉をこの世で初めて口にしたのは、ジョン・キーツというイギリスの一九紀の詩人である。そしてこの概念は、170年後にウィルフレド・R・ビオンという著名な精神科医によって、精神分析の分野で不可欠であるとされた。人と人との出会いによって悩みを軽減してしく精神療法の場において、必要な要素だと考えられ、注目されたのである。

 私たちは何か起これば、それがなぜ起こったのか、それを放置するとどうなるのかといったことを何でも知ろうとする。ところがビオンはネガティブ・ケイパビリディを培うのは、「記憶もなく、理解心なく、欲望心なし」状態だという。私たちの脳は何でもわかろうとし、わからないものが目の前にあると不安になるが、そのような小さなころからの習慣を見直すことが必要である。目の前の事象に、拙速に理解の帳尻を合わさず、宙ぶらりんの解決できない状況を、不思議だと思う気持ちを忘れずに持ちこたにえてしく力が、人々にも治療を行う精神科医にも必要だと指摘する。

 コロナ禍での不安がいっぱいの時勢、どうにも答えの出ない、対処しようのない状況で、居心地が悪くても宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、持ちこたえていれば、いつかは好転するはずであるし、これこそネガティブ・ケイパビリティだと自分によい言い聞かせることで、耐える力も増していくものである。積極的に解決法を見つけ出そうとするポジティブ・ケイベビリティばかりでぱなく、自然や不思議なことを受け入れ、その宙ぶらりんの中にいようとする。そのようなこころも必要なことを、ネブティブ・ケイザビリティという言葉は表している。(以上)

 

どうも私の理論の方が優れているように思われます。上記は「ほっとけばそううち波は収まる」という消極的な手法です。私が実践しているのは、それば目的そのものであるという完結型です。

 

最後に各章をまとめて「コロナ不安に向き合う10箇条」が記されています。(つづく)

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雪ふりかかる葦原の鷺

2021年01月30日 | 浄土真宗とは?

2021年2月1日号本願寺新報「赤色白光」に執筆しました。(S)は、西方寺の(S)です。

今年は例年にない大雪に見舞われ、除雪中の事故や交通事故の報道が相次ぎ心が痛む。雪といえば、親鸞聖人にも雪にまつわる歌の話がある。昔の説教本(親鸞聖人御一代記説教)に出てくる話だが、聖人が越後の国をあとに、常陸国へ行く途中、雪の中をお念仏を称えながら歩んでおられたときのことだ。

 聖人一行が橋を渡ろうとすると、向こうの葦原から一羽の白鷺が鳴き声とともに高く飛び去った。その時、聖人は「声なくばいかにそれとは知られまじ 雪ふりかかる葦原の鷺」と詠まれたという。そして、雪も白、鷺も白、どこに鷺がいても見分けがつかないが、声をあげて飛び去ったので鷺だと知れた。

今、凡夫の胸の内には、悪業煩悩の大雪が積っている。その中に阿弥陀さまからいただく他力の信心があるかないかは見分けはつかないが、信心をいただいたしるしには、夜の寝覚めに思い出しても、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、ご恩をよろこぶお念仏の声が口に浮かぶ、とお諭しになれたという。 雪という災難もお念仏のご縁にさせていただく。ここに真宗門徒の真骨頂があるように思う。災難といえば、新型コロナウイルス感染拡大の猛威は、かつて経験したことのない出来事だ。これから一体どのような社会が到来するのか。もとより、このパンデミックをどう意味づけるかは、これからの私たちの生き方にほかならない。まさに「念仏者の生き方」が真骨頂を発揮するときだ。

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NICU命の授業から

2021年01月29日 | 苦しみは成長のとびら

1月9日土曜日(2021年)第8回がん患者・家族語らいの会がオンライン講演会、

講題 「周産期医療ドラマ「コウノドリ」の医療監修で伝えたかったこと・気づいたこと」講師 豊島勝昭氏について、過日紹介しました。

 

この先生のご著書『NICU命の授業: 小さな命を守る最前線の現場から 』(2020/8/19。・豊島勝昭著)を購入して読みました。講演の中でもお話しされていたことですが、その中から一つだけ転載して紹介します。

 

患者家族の軌跡

この子がいるからこそ知ることができた想い

 

告知を聞いて泣いた日

 ダウン症は、染色体異常によって起こります。私たちのNICUには、年間400人の入院患者さんのうち、毎年ダウン症の赤ちゃんは30人前後います。しかし、ダウン症だから入院するわけではありません。ダウン症の赤ちゃんは、心臓病や食道や腸の病気、血液の病気などがある場合が多いので、その治療のためにNICUに入院してきます。

 2008年に生まれたけいたくん。血液の病気で私たちの病院に運ばれてきました。重症だったので、ご両親には「もしかしたら3ヵ月以内にごくなってしまうかもしれません」ということと、顔つきなどから「ダウン                               症だと思います」とお伝えしました。その後、けいたくんの病状は回復し退院することができました。今もNICUフォローアップ外来で成長を見守らせてもらってます。       

 けいたくんのお父さんは小学校の先生です。このお父さんが勤めている学校で、いっしょに命の授業を続けてきました。けいたくんのお父さんが命の授業のときに、生徒さんに語っていた言葉を紹介します。

 「先生は、どんな子にも幸せになってはしいと願って、学校の先生になった。息子がダウン症だと告げられた日のことは忘れられない。病院から学校へ戻るために車を運転したときに、どしゃ降りで前が見えなくて、危ないと思いながら運転していた。でも、学校に戻って車から降りると雨なんて降っていなかった。どしゃ降りだと思っていたのは、先生の止まらない涙だったんだ。一生でいちばん泣いた日だと思う。先生は自分のことを差別や区別のない人間だと思っていだけど、息子がダウン症と言われたとき、すごく悲しかったんだ」(以上)

 

自分の心の中に、ダウン症実子を差別するこころがあったことを知って涙が止まらなかったという。スゴイ先生がいることに頭が下がりました。

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ヒトはなぜ神を信じるのか

2021年01月28日 | 浄土真宗とは?

『ヒトはなぜ神を信じるのか―信仰する本能』(2012/8/1・ジェシー ベリング著・鈴木光太郎翻訳)、題に興味があって借りてきた本です。

 

この本は宗教書ではなく、「神」を求める心理を心理学研究者として解明しようとした本です。

「心の理論」とは、自分以外の他人の心を類推して理解する能力、「他人の気持ちを理解する能力」のことです。

 

先ず結論です。以下転載。

 

すでに見たように、神を産んだのは心の理論である。しかし、なる自然が利己的な理由から神を産んだように見える。

 一九五○年代に、イタリアの学者、ラファエレ・ベッタツォーニが行なった「神の属性」についての影響力をもった比較文化的分析では、調べられたどの宗教集団のサンプルにも、ひとつの際立った特徴が繰り返し現れていた。ペッタツォーニが見出しだのは、受け入れられているのがどのような宗教かにかかわらず、中心的な神々は、個々の人間についてーその「心や魂」についてーなんでも知っていると考えられていることだった。確かに、神について考えることは、自分がだれかに見られているという意識を強めるという結果をともなう。ある最近の研究では、神について考えるよう求められた実験参加者は、ほかの人々について考えるよう求められた実験参加者に比べ、白分を強く意識するようになった。多くの人々は、自分がたとえほかの人間に知られていなくても、つねになんらかの「他者」によって行為を監視されているように思っている。たとえば一九八〇年代初め、ボルネオでイバンとして知られる部族を調査していた人類学者のチームは、イバンの人々がある際立った信念をもっていることを次のように記している。「相手をうまくだませても、あるいはおかした罪に対する罰から逃れおおせても、うまくいったように見えるのはその時だけで、最後には必ず天罰が下る」。

 多くの人々にとって、神は、誘惑に負けそうになる時に頻繁に顔を出す、この監視されているという根深い感覚を代表している。(238頁)(以上)

 

この「心の理論」をキーワードに文学、哲学、社会現象、歴史、さらには自らの周辺の人間像などを次々に説かれている。「神の存在の問題は、哲学者や物理学者あるいは神学者以上に心理学者が扱うべき問題である(p9)」ともある。  

 

心の理論をもつ人間は、神に見られているという意識があり、だからこそ、人は利己的行動を抑制し、利他的に道徳的に振る舞おうとする。そのために必要な錯覚(適応的錯覚)が「神」だ、というものです。

 

昨年(2020)7月25日『人類の起源、宗教の誕生: ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』 (平凡社新書・2019/5/17)で、 霊長類学者である山極 寿一氏の言葉を紹介したことがあります。

 

チンパンジーには白目がないことから、これは共通の祖先から、人間とチンパンジーか分かれた後にできたものであることかわかり、その成立には他者の存在が必要です。今はもう周りに人がいなくても一人で恥を感じて顔を赤らめるようになっていますから、つまり、ルールか内面化しています。しかし本来、それは白目に表されるように、相手が自分をどう見ているかということによって、出てくる現象です。
 
…人間はそれをことさら高め、その延長線上に神が生まれました。この超越者が常に自分を見ているからこそ、仲間の目だけではなく、神の存在も意識しながら、自分のふるまいを正す必要があるのではないかと、考えるようになったのだと思います。(以上)

 

他の存在に見られているという意識が、宗教の起源としている点が同じで興味深い。

 

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思い込み

2021年01月27日 | 私のこと

今年初め、鮮やかに自分の思い込みの強さを体験しました。私が住んでいる柏市にウイングホール柏斎場という火葬場があります。近隣の<柏市・流山市・我孫子市>の三市運営の公営斎場です。

 

この斎場は入口からお棺、宗教者、喪主、その他の順でメインホールを横切って告別ホールへと進みます。そこでお焼香、希望者の最後のお別れ、そしてドアで区切られている火葬ホールへと進み、火葬となります。

 

今年初めてこのウイングホール柏斎場へ行った折のことです。入口でお棺を前に葬列を組んで告別ホールへと進みました。そこで何と、係員はお棺を乗せた台を、告別ホールの焼香台の前へ運ばす、お焼香と最後の面会を素通りして、そのままドアを通り越して、火葬ホールに入っていったのです。私は初めてだったので、「この係員、新米でお別れの儀式を素通りしてしまった。だれか別の係員が来て教えてあげて」という思いを持ちました。

 

あとで葬儀社の方に伺うと、コロナ禍で不特定多数の人が使い回しする焼香を嫌う人があり、焼香を取り止めたのだそうです。それよりも鮮やかに自分に認識を疑うことなくや、係員の落ち度とみた私の経験を絶対とする自分を体験しました。

 

1月20日号本願寺新報「赤色白色」に私が執筆したものが掲載されたことは、すでに書きましたが、この随筆の最後に「S」とサインがありました。今まで西原の「N」であったでの、2月1日号の依頼があった折、「Sになっていましたよ」と編集者に告げました。編集者云く「Nが何人もいるので、西方寺のSにしました」とのことでした。

 

たわいのないことですが、これは間違いと断定せずに、なぜ「N」が「S」になったのかという疑問を持っても良かったと思います。

 

法話メモ帳に次のようなやり取りが書き止められていました。

 

ある雨の日、大学の二階の研究室へ、一人の学生といっしょに階段を登っていきながら、聞いてみた。

 「見てご覧。きみの歩いた足跡が、階段に一歩一歩ずつ残っている。階段をのぼるのには、あの足跡のスペースさえあれば十分だということになるわけだが、では、その足跡だけ残して、ほかのスペースをノコギリご切り落としてしまったとしたら、登れるだろうかね?

 「いや、ダメでり。もし踏み外したら……という恐怖が先に立って、体がコチコチになって動かないでしょう」(以上)

 

人はゆとりがあるから、安心して毎日を平穏に過ごしていけるのでしょう。自分の経験を絶対視せず、少しは物の見方は幅を持って生活することも必要です。

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