仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

この人と一緒に仕事がしたい

2010年07月31日 | セレモニー
昨日の葬儀、亡くなる前から「死亡したら、どこの葬儀社へ連絡したらよいか」と依頼を受けていた。早朝、ウオーキングから帰ると、坊守から死亡の連絡があったとのことで、場所が浦安なので、一度、葬儀をご一緒したことのある東京のA社に連絡を入れ、A社の施工となった。

“この会社と一緒に仕事をしたい”という思いを持たせる会社です。料理もおいしいし、施行の内容は、お別れの時間を通常よりも30分多く取って、少しばかりのサプライズを入れる。

このサプライズを見つけるために、故人と家族との生前の様子を、事細かく聴く。この度は、亡くなった人は22年間、病床にあり、そして何度も危篤と医者に言われた末の死亡でした。

担当のスタッフが選んだサプライズは、元気だったころ家族と共に、また息子と二人でプレーしたボーリングをテーマにしたものでした。実際に一緒に行った柏のボーリング場の写真を撮ってきて、そのボーリング場のスコアカードに家族がそれぞれ名前を書き入れて、ボーリング場の写真と共に棺の中へ入れていた。

A社も、以前は6名だったが、現在は30名のスタップがいるという。葬儀の流れの中で「このご住職と一緒に仕事をしたい」と思わせる態度と内容を備えた僧侶であるべきだと強く思った。

この人と一緒に仕事がしたい。そう思われる仕事師、これは普遍的なものだろう。
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当たり前のことが欠落している現代

2010年07月30日 | セレモニー
浦安のディズニーランドの真横に、浦安斎場という式場つき火葬場がある。2階の廊下からテーマパークのアトラクションの装置が見え、東京湾の対岸の東京のビル群が広がる。

その会場での昨夜お通夜。玄関を入ると「西方寺さんですね」と親しげに声をかけてくれる葬儀業者。以前、柏市の葬儀会社に勤めていて、私のことを知っていてくれる人だった。

3年くらい前、市川の斎場で一度会って、「今は小岩の某葬儀会社に勤務している」と、その時も親しく声をかけてくれた。私は柏での勤務、また市川で一度会ったことを、良く記憶していたので、控室で話が弾んだ。

「“おくりびと”の主人公、現人物は女性で私が指導した人なんです」と、5年間、死に化粧を専門とする会社に勤めていたこと、その会社である電気コードを巻きつけて自殺した青年を担当したこと。その青年の悲惨な形状に、死体をさわることを拒む親族に、懇願して「もし結果が満足されなかったら、料金は結構です」と施行して満足してもらったこと。その時、ある種の達成感を覚え、会社に辞表を書いたこと。その後、一度会った時勤めていた小岩の葬儀支店を立ち直したこと。そして両親の介護などもあって、支店を立ち直したという達成感の中で退職したこと… …など、これまでの職業歴を話してくれた。

私は「あなたはある種の達成感を覚えると仕事を止めてしまう。目標設定が低い。だれかそんな時に相談できる人がいればいいなのだがなー」といいながら、脳裏を現代の病理の一面、また僧侶の怠慢がよぎった。

現代は師をもつということがない。師は大げさでも、限界に至ったとき、またその前に相談するという人間関係が欠落している。おそらく昔は寺の住職や上司、先生が事に当たってきたのだろう。

寺の住職は何ができていないか。この当たり前のことができていない。よぎった思いを言葉にすればそんなところです。さてこれから浦安での葬儀へ出勤です。
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死刑執行ー前門主の沈黙の思いで

2010年07月29日 | 日記
昨日の夕刊に【死刑執行】千葉法相の文字が各紙の一面に踊っていた。執行を批判する記事も“政治的演出のために二人に命を犠牲にした”など種々掲載されていた。

私は前から、死刑執行の処刑台のボタンは法相自ら押して事の重大さを知るべしと言っていたので、刑に立ち会ったことは評価できる。色々な評価はあるだろうが、すべてにおいてぎりぎりの選択だったのだろう。

死刑賛成論者が83パーセントとあった。犯罪の自己責任を求める声が多くなっている。そうした善人だけでスクラムを組もうとする社会が、重犯罪の多発を生み出しているようにも思われる。

日本に死刑のない時代があった。(以下親鸞物語より)
保元一(一一五六)年七月平忠正と源為義の斬罪(ざんざい)は、実に三百四十六年ぶりの死刑復活であった。弘仁元(八一〇)年、平城上皇の寵を得ていた藤原薬子(ふじわなのくすこ)が、兄仲成らとともに上皇の重祚(ちょうそ)と平城京への遷都を企てたが失敗に終わり藤原仲成が射殺されて以来のことであった。

そして専従念仏集団への弾圧によって、死刑は僧の身も例外とはしなくなり、西意善綽、性願、住蓮、安楽4人が死罪となる。

平安時代がどんな社会であったか分らないが、346年という数字は驚くべき数字です。私は死刑反対ですが、いのちの尊厳というよりも、その罪を社会も担わなければならないという立場です。

死刑に関して思い出される話がある。昭和58.9年ごろ、築地本願寺で前門主(本願寺勝如上人)
の侍僧といって秘書役のような仕事を仰せつかっていた。当時、「明日なき部屋の法悦」ー死刑囚秘話ー吉川卓爾著(昭和59年8月20日発行)が発刊となり、その著に、前門主が序文を寄稿されていた。吉川師は大阪拘置所の教誨師で、前門主も3回、大阪拘置所で死刑囚等対象の帰敬式にお出ましになり、死刑囚独房までご慰問されています。

私はお召し替えのお手伝いをしながら、その本の感想をお伝えしました。

その本を読んでいない方には、解りづらいと思いすが、その著に登場する人は、浄土真宗のご法義に感動した話ばかりが納めれています。
死刑囚百数十名に及ぶ教導の中から、特にお育てを頂いた人ばかりが登場するので、必見ですが、たとえば死刑囚で唯一、仏像を3体刻んだM氏の話。死刑囚に刃物を渡すことはあり得ないことなのですが、お育ての見事さから特に許されたと言います。
M氏は、聴聞を重ねる中で、不思議という言葉が出てくると、「上手にぼかしはるなー」「その不思議のもう一足奥を知りたいのがなあ」と、不思議とはなんと都合のいい隠れ蓑かなどと得手勝手に思い得意がっていた。………

死刑が3日前に知らされ、数少ない肉親である姉のとの最後の会話のなかで、
「…自身の心境を説明できんこのもどかしさ、姉さん僕はただいま物事が説明でき、言葉のかかるあいだはまだまだ浅いことだと知らされました…」と、死を間近にし、自身のお育てのありがたさ、尊さの中で、その気持ちを伝えようと思うが、言葉にならないもどかしさ。その心中を通して不思議という言葉の奥深さ領下した話など、等々。

死刑囚の刑を自覚(刑務所教誨のご縁もあり)してからの人格の成長を話題とし、尚かつ刑を実行しなければならい現実の矛盾を、「お法に出遇い、しかし死刑で死んで逝かなければならない現実は、なんとなからないものですか」と前門主に申し上げると、少しお困りなったご様子で、沈黙されていた。

今思えば馬鹿のことをお聞きしたと思いますが、死刑囚の逸話が生々しく思いの中にあったのでお尋ねになったのだと思います。

いま思うと前門主の沈黙こそ、心に仏教の理想を持ちながら、この世の現実を生きていかなければならない姿なのだと思う。

その意味でも千葉法相も詭弁を弄せず、沈黙を守るべきだろう。
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秋葉原殺傷事件の原因を思う

2010年07月28日 | 現代の病理
東京・秋葉原で7人が殺害されるなどした無差別殺傷事件の公判で初の被告人質問の記事が新聞に掲載されていた。事件が起こってから2年、実は彼が卒業した中日本自動車短期大学へ私も半年通ったことがある。通ったというよりも、その学校に籍を置きぶらぶらしていたといった方が適切です。

その不真面目さゆえ、半年で退学した。その点だけ彼とは接点がある。酒の席で友人に「彼は卒業だ、おれは退学だ」と悪ぶることがある。

今日の産経新聞(22.7.28)に、「厳しいしつけ詳細」と、彼が語った家庭環境をピックアップして記事を作っていた。その記事だけでコメントするのだから不見識だが、この事件の原因の一つに、母親の過干渉による人格未発達という現代の病理があり、その現代の病理の犠牲者のようにも思われる。

H・エリクソンの話を良く持ち出しますが、エリクソンの発達論は、「心理社会的発達論」と呼ばれています。
乳児期に基本的信頼(対不信感)を、
幼児前期に自律性(対恥・疑惑)を、
幼児後期に積極性(対罪悪感)を、
児童期に勤勉性(対劣等感)を、
青年期に同一性(対同一性拡散)を

身につけ、自我同一性(アイデンティティ)と呼ばれる「これが自分である」という確信をもつ。自己の価値観、将来の夢、希望の職業、自分らしさなどを見つけ、“自分”というものを確立していくというのです。

秋葉原の彼は、基本的信頼も自律も未発達で、劣等感をもち環境に流されるという日常生活が、彼の言葉から窺い知ることができる。(以下新聞より抜粋)

「小さいころ一番記憶にあることは」との弁護人の問いに「母親にトイレに閉じこめられたこと」と述べた加藤被告。
(中略)風呂で九九を間違えれば湯船に頭まで沈められた。食事が遅いと、料理をチラシ広告の上にあけられ、その上で食べることを強いられたといい。「屈辱的だった」と振りった。(中略) 高校時代、ゲームに対する言動で腹を立て、友人を殴った。短大進学後、寮で相部屋になった友人のいびきに腹を立て、壁をたたき、反対に無視され孤立を深めたこともあった。
 派遣先で自身の提案が正社員に否定されれば帰宅しそのまま退職。工事現場での警備員として働いている際に誘導を無視され、勝手に帰宅した。(後略)

母親は子のことを思っての厳しいしつけであったことであろう。しかし子どもへの過干渉は、自分の判断で行動することを妨げるので、自発性や自律性、創造性が妨げられます。それは子供の自立性を信頼していないことであり、自分の意思での行為でないので達成感とは無縁で欲求不満となります。

自分で自分をコントロールすることの弱い性格でも社会のシステムがしっかりしていれば、それなりに生活もできるのでしょう。だが現代の都市中心の無関心社会の中では、存在そのものが受け入れられず報道の通りに結果となった。当人も、孤立と無関心、自己責任の価値観の中で、“なんで俺はこうなるのだ”といった猜疑心のままに暴発に向かっていったのであろうと想像します。

また事件の背景には、無関心と自己責任の現代社会の中で、こうした不安定な人たちが逃げ込める文化軸を持ち得ていなかったも、私たちの文化の欠陥としてその責を担うべきであろう。都市軸と違った田舎軸の再構築が待たれます。田舎軸の再構築とは、素朴さと五感をフルに使った日常生活、天地の恵みを実感して、濃い人間関係の中でしか機能していかない村社会、現代において最も遅れているといわれる過疎地域の再生にもつながる最先端の文化システムとしての村社会です。

そうした都市軸と異なる社会システムを持ち得ていない社会の犠牲者だといってもいいのかもしれない。

思いつくままに書きました。事件によって犠牲となられた人の関係者には、ただただ哀悼の意を申し上げるばかりで、事件を肯定する思いは1つもありません。
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わたしと”人間・親鸞”(1)作家 五木寛之を聴く

2010年07月27日 | 浄土真宗とは?
深夜便は、「わたしと”人間・親鸞”(1)作家 五木寛之(H22.6.13放送)」でした。いつも聴いているようで、大概の4時からの深夜便の再放送は、初めて聞く話なので、聴いていない方が多いのだなーと納得。

いつもながら言葉を商売として用いる人なので、言葉の使い方が芸術の域まで達していると思った。

他力について、私を含めた宗門人は自力を否定する傾向があるが、自力は他力によってあると、万有引力をたとえて語っていた。

「自立と言うけど、自分が立つことだって万有引力あって地球に重力によって引きつけられているから自ら立つことができるのです(意趣)」と言われていた。

また東京都知事の石原真太郎さんとの対談の様子を紹介されていた。


石原慎太郎氏は、意識的に“他力本願ではだめだ”という人で法華経の信者でもあります。

石原氏は吉川英治著の「宮本武蔵」の中の話を例に挙げ、武蔵が吉岡一門との決闘に向う途中、ちょうど神社があった。武蔵は神の加護を祈っていこうと思ったがやめた。神に勝利を祈るようでは負けたも同然だと翻意したのだという。そして武蔵は勝利した。要するに「他力」を捨てて「自力」に徹したことが良い結果をもたらしたということ。

それに対して五木氏は、「神や仏に助けを求めるような弱い心ではだめだ、決意したことこそ、他力の声によるのだ」(意趣)と返答したと紹介されていました。

五木さんの自力と他力を対立的に立てるのではなく、自力は他力によって成立するという解釈は、一般の人にはわかりやすいと思う。

しかし宗教すなわち、目覚めを核心において考えると、浄土真宗で説く他力観、“自力の存在を微塵も許さない”という領域に意識が拡張していかないと、その人の宗教にならない。なぜならば“自力の存在を微塵も許さない”ということこそ、愚の自覚であり、自己否定であり、自分の業からの解放であり、自分を無にして宇宙的な生命と一体になるという体験だからです。

それはそれとしてもっと自由に他力を楽しむ必要がある。そんなメッセージが対談を聴きながら聴こえてきました。
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