仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

死を体験する

2009年07月31日 | 苦しみは成長のとびら
体験型学習に「死のシュミレーション体験」がある。

 この体験学習はアメリカ・コロラド州のホスピスで終末期のケアをされるスタッフの研修にもちいられるもので、日本医科大の岩井美詠子さんが日本向けに手を加えたものです。岩井さんは「死の体験旅行」と名づけています。いわば死の模擬体験です。

 死の模擬体験とは、最初に四色の紙、五枚ずつ計二〇枚を参加者全員に配ります。その赤色の紙に指輪や写真など物で大切なもの五、青い紙に空気、水など自然で大切なもの五.黄色い紙に、仕事趣味等の行動で大切なもの五、白い紙に、父母、恋人など人で大切な人を五人、参加者それぞれの人に書いてもらいます。そしてリラックスできる音楽を流し、参加者一人ひとりが主人公になって物語りは始まります。

 ナレーションは、私が癌になり不安に思うところから始まり、最後の息を吸うまで七つの物語で構成されています。その節のたびに、2枚捨てて下さい、3枚捨てて下さいと、大切なものを捨てていきます。最後にすべて捨てて終わるという設定です。

 その模擬体験の中で、何が大切なのか、捨てる基準は?等々の体験をしていただくワークです。

 参加者の声は一様ではない。“一枚も捨てられなかった。自分はどれだけ大切に囲まれているか気づいた”“これほど孤独を感じるとは思わなかった”“捨てることが楽しく、次第に楽になっていった”“最後に妻が残った”など等。
失って行く中に気づかされていくことがある。その意味では、病気になり、終わっていく命であることを意識している人は、何が大切なものかが見えている人でもあります。病人や重い疾患を体験されている、いわゆる弱者から学ぶべきことは多くある。

死のシュミレーション体験のように、作為的に設定した体験を通して何かを学ぶ。それに対局した学びとして、自身の日常生活に体験に中から何かを学ぶ。こちらの方が有意義に思う。(続く)
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体験型○○が流行っています

2009年07月30日 | 苦しみは成長のとびら
今日の読売朝刊(21.7.30)に体験型美術館の記事があった。スイレンにはいろいろな種類があるが、美術館庭園の池に咲いている画家モネの庭の池から株分けしてきたスイレンを見る。そして実際に、モネの睡蓮を観賞する。その他、いろいろな企画があるようでした。

高尾山の麓にある 高尾山トリックアート美術館も、トリックアート(だまし絵)を楽しむ体験型美術館だろう。HPに
カメラを持って美術館へ
エ!!と思われますが、高尾山トリックアート美術館は、本来美術館ではダメと思われることすべてがOK。 写真を撮って絵に触ってワイワイ、ガヤガヤみんなで大騒ぎこれが高尾山トリックアート美術館の正しい楽しみ方。とある。

この体験型というのが今の流行です。

読売新聞で記事検索しただけでも下記の記事のほかいろいろな体験型○○があった。

県立千葉高 五感通じて体験型授業
 理数系の科目に苦手意識を抱きがちな「文系コース」の高校生が、五感を通じて科学の楽しさを学ぶ「体験型」授業が、千葉県立千葉高校で行われている。(中略)
  授業計画には、30種類以上の体験メニューが目白押し。実験に使える予算は限られているため、堀さんは身近にある安価な材料を活用し、「低予算」で工夫を重ねてきた。
 家庭にある電化製品を壊して電気回路を「目」で確認して学ぶ分解講座や、屋上から生卵を落として運動の原理を理解する実験に加え、知識の定着を図るため、体験を基に考えたことを発表する時間もある。(以上)

観光地も体験型の観光に目につく。修学旅行も農作業、漁業、その他、体験型が多くなってきた。外国人旅行者も日本の観光地を巡るよりも、100円ショップや焼き鳥店、また日本文化を体験する旅行が好まれると聞いた。

この体験型の仏教の講義を取り入れて東京の学校で一年間試みたことがある。結論は、体験学習のメニューが仏教的な気づきにまで達するエクササイズは少ないというところです。

それでも毎年、いくつかの体験学習を取り入れていました。
一般的に活用されているプログラムでは、「私の遺言」「墓誌への記録」などがある。「私の遺言」は、一定の時間内に自分の残しておきたい言葉を書いてもらう。「墓誌への記録」は、墓地に立っている墓誌に、このお墓に納められている私の生前のことを記録するように書く。というものです。

共に自分の日常を振り返ることで、違った角度から自分を見直すことができる。
一昨年から取り入れているのが次の体験です。(続く)
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価格破壊によって失われる精神性

2009年07月29日 | 現代の病理
一昨日(21.7.27)夜のテレビ番組で、大型店舗店の長崎屋がドンキホーテグループの傘下に入り、ある町の長崎屋店舗をドンキにリニューアル、その旧店舗閉店からドンキの新店舗開店までの様子を紹介したものが放映されていた。

こうした番組は多い。各社競って新しい企画を見つけては放映している。先のドンキは、リニューアル開店で400パーセントの売り上げ増であった。その主力商品は価格破壊です。わたし自身、そんなものかと興味深く見た。

しかしふと静寂な中に身を置くと、現代の病理のウイルス菌ともいうべき「安くて便利で快適」によって、相当侵されている自分に気づく。安いことは良いに決まっている。はたしてそうか?その中で失われていくものはないのか。

他者よりも一円でも安く。ここには共生という思いはない。街ぐるみ一緒に発展し行く。そうした他社を思う気持ちはない。それも商売だから良いだろう。そのことを楽しんでしまっている自分に中で、なにかが欠落していっている。その何かを一つの言葉にすれば、自分の損得だけを考える精神性だろう。決して気高いとはいえないわがままな心が知らず知らずのうちにわたしのこころを侵食していく。

そして山口県での濁流被害も中国での悲惨な争いも、自分に被害が及ばないことにはテレビの中のこととして見てしまう。

今日の読売朝刊(21.7.29)にも、永代供養墓の記事が出ていた。これまた「安くて便利で快適」。世の中の流れの中に隠れている人間の本質に触れるような記事が書けないのかと思う。なんら広告記事と変わらない。その方が読書の意にそっているのだろうが、5回に一回くらいは深層心理に触れるような記事であってほしい。
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本願寺派の総長が辞表提出

2009年07月28日 | 都市開教
昨日の夕刊(21.7.27)に本願寺派総長が辞表――「大遠忌」控え人心一新という記事が掲載されていた。本願寺さんも何やってんだと言いたいところだが、わが宗門。巨大過ぎて、また歴史の波の中で、良くも悪くも過去の遺産を持ちすぎて、機動力が悪い。

今日のネットで検索すると、

浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の不二川公勝総長(72)=広島県三次市、明覚寺住職=が27日、大谷光真門主に辞表を提出したことが本願寺派への取材で分かった。
 本願寺派によると、「2011年の『親鸞聖人七百五十回大遠忌』を控え、人心を一新する」のが理由という。近く開催する臨時宗会で正式に辞任が報告される。
 不二川氏は03年11月に総長に就任し、現在3期目。(共同)

とある。2万人の僧侶が、進むべき方向を共有していない。というよりも20年後の宗門のありようをイメージしたこともない人がほとんどだろう。
ご門主の随行をしていたとき、ご門主が総長に「20年後の宗門の姿をどう考えています」と問うと、なにも答えがなかったとおっしゃったことがあった。

また福井県に同伴した折のことです。あわら温泉駅から京都へ、予定の電車時刻には40分ほど時間があった。駅構内の喫茶店へ入ると、小さなテーブルにご門主、総務、私が同席した。

ご門主いわく「ご講師、宗門校を卒業した若い僧侶たちが、自坊へ帰ると、兼職等で宗門外の仕事に就く。そうした人たちの力を宗門の発展のために結集できないものか」(意趣)と。
そのときは、9歳下の私に無念さを表し伝えられた。

寺坊へ帰って、私はすぐ総長あてに思いを綴ったことがある。私の文章を読んだか読まないかは不問です。問題はそうした地方の声を宗門発展の礎にするという気概があるかないかです。
そのためには、どうあるべきかという問いを持っているかどうかです。

私が思う20年後の宗門の理想を短く書いてみましょう。
葬儀や法要といった儀式を活動の原動力とするあり方から、苦しみに寄り添う、苦しみを通して人々が質的な成長を遂げる。そのための伝道ソフトと人材が各寺院に用意されてあり、曹洞宗の方であろうと日蓮宗の方であろうと関わりを持ち、安心と生きがいを手に入れる。
宗教本来の苦しみを除くという目的にそった活動が展開されている。(以上)

私の現在のビハーラ活動はそのための活動でもあります。お寺の伽藍は一つの権威であり、その権威のなかに歴史の重みと安心をおぼえます。その権威は重要な働きを持っています。

ところが人の苦悩を聞く場合、権威は何も役に立ちません。むしろ邪魔になるものです。苦しみにシフトした新しい伝道ソフトが構築された場合、2万人の僧侶や念仏者がいる場が、そのまま寺院(ビハーラ)になり得るのです。本願寺派の都市開教は、そうしたまったく新しい伝道ソフトの開発こそ急務です。
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西洋の労働に対する文化

2009年07月27日 | 日記
法事の出勤で車を運転(21.7.26)していると、カーラジオから麻生首相の失言を責めるコメンテーターの声とともに麻生さんの講演の内容も聞こえてきた。

「日本は65歳たちが元気だ。介護を必要としない人たちは8割を超えている…元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは働くことしか才能がない。働くということに絶対の能力がある。80過ぎで遊びを覚えるのは遅い」。25日午前、横浜市内で開かれた日本青年会議所の会合でのあいさつで、高齢者に働いてもらい、活力ある高齢化社会を目指す考えを示したといわれている。

「いかに使うか」という言葉が突き刺さってくる。民衆を使役する側の人間であるという思いがすみ込まれている人なんだなと思った。人の欠点をあげつらうほどの人格者でないので、その点は感じたことだけを記す。

面白いと思ったのは、麻生さんの思いの中に「仕事は美徳」といった日本的な感覚のあることだ。

昨日の読売新聞に

フランスで、これまで原則として禁じられていた日曜日の店舗営業を、大都市や観光地で解禁する新法が国会で可決された。 政府は年内施行を目指しており、実現すれば観光客も買い物や飲食がしやすくなる。
 ただ、「もっと働き、もっと稼げ」と旗を振るサルコジ大統領肝いりの新法には、国民の過半数が「ノン」と拒否反応を示しており、野党は徹底抗戦の構えだ。(以上)

とあった。そして欧州主要国の日曜営業制限が示されていた。

フランスー原則禁止。小規模生鮮食品店や生花店等のみ営業可。
ドイツー年間4日のみ可。空港や駅内の店舗やパン店等は営業可。
その他、イギリス、イタリア、スペインの営業制限が掲載されていた。

 8年ほど前、福井に出張するとき『県民性の日本地図』 (文春新書) (新書)を読んだ。それぞれの地方の特性、特有の気質はいかに形づくられたのか。縄文・弥生から江戸時代の藩、近代以降に至る長い歴史の中に、地域性の由来が書かれていた。福井県には大企業の社長は生まれにくく、中小企業の所長が多いとあり、歴史的、地域的な特性が示されていた。福井県での講演で、その部分を枕にして話したので記憶が残っている。

確かに地域性がある。同様にそれぞれの国民性もある。日本には、仕事を悪としない国民性があると思う。

日曜休日の起源は、旧約聖書の安息日にさかのぼり、人々はローマ帝国時代以来、「日曜日は家族と精神活動のためにある」と考えてきたそうだが、キリスト教の神との契約による「罰としての労働」と、仏教の「一日作さざれば一日食わず」といった労働を肯定する考え方の違いもある。

そうした考え方が生まれ出てきた土壌に、西洋の貴族階級が奴隷のように民衆を使役してことから生まれる労働に対する思いと、東洋の耕作地帯という風土に「煩悩即菩提」、すなわち欲望がそのまま悟りへ転化されていくという教えによって培われてきた精神性があると思う。

西洋の労働をあまりよく思わない文化を真似るのではなく、西洋で培われてきた文化を大切にしようとする文化こそ学ぶべきだろう。
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