仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

蝋梅が満開

2014年01月31日 | 日記
昨日は珍しく何も予定に入っていない日だったので、これ幸いと群馬県へ母を連れて蝋梅を見に行きました。蝋梅は満開でした。帰りに際に、磯部温泉の市経営の保養施設で入ってきました。

温泉の湯は、良いお湯でした。この磯部温泉は、明治の児童文学者・巌谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀 の昔話(日本昔噺)を書き上げたところだそうです。

また温泉マークの発祥の地としても知られているようです。

ネットには下記の様にあります。

万治4年(1661年)に江戸幕府からだされた、上野国碓氷郡の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」内の地図に2箇所温泉マークらしき記号が存在した。磯部温泉は温泉マーク発祥の地の石碑が建っている。

一日,オフの日が、今月初めてだったということは、それだけ坊守に負担をかけているということと反省しています。何しろ二人だけで寺が回っているので。
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何時でも繋がる感覚が孤独を生む

2014年01月30日 | 現代の病理
一昨日の続きです。放送大学『人格心理学』の講座テキストに次のようにあります。


…いつでもどこでも相手とつながれるという状況が,逆説的に私と他者との埋めようのない溝を意識させ、孤独に直面させるということがある。たとえば、夜遅くなっても子どもがなかなか帰ってこないとか,恋人に電話をかけても通じないという状況を考えてみよう。相手が携帯端末をもっていないという状況が一般的だったとき,「何か帰りが遅くなる理由があるのだろう」とか、「またどこかで道草をくっているな」と多くの人は想像して待つことができていたはずである。しかし,携帯端末をもっている相手に連絡がつかないとなると、その不安は比べものにならないくらい大きくなる。いつでもどこにいても連絡がとれるはずであるのに、なぜ電話口出かいのか,なぜメールに返信がないのか,いても立ってもいられなくなるくらい大きな不安が押し寄せてくる。(以上)

人格心理学講師の大山泰宏氏は、その理由として次のように書いています。

いつでも他者と接触できるということは,結果的に相手のイメージを内的に保つことを難しくしてしまうのである。…相手への信頼と自分自身への信頼とは,相手が不在のときにこそ育まれるのである。しかしながら,いつでもどこでも接触があるということは,そのような他者に対する想像力を育てるという機会を失ってしまう。また,連絡がとれるはずだと思い込むことは,他者を自己の延長だと感じる乳児的な万能感の心性にとどめてしまうともいえる。それがゆえに 私たちはますます他者に対する疎隔感や絶対的な差異,そして孤独を感じることになるのである。(以上)

何度も携帯電話をして、相手とつながらないときに感じるあのイライラは、相手を思い通りにコントロールできるという自分自身の思いこみが、あのイライラの底にあるということです。携帯電話によってもたらされる、いつでもつながる感覚は、本来あるべき相手との精神的な距離感覚をマヒさせてしまうようです。
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自宅葬が増えつつある

2014年01月29日 | セレモニー
一年ぶりにご自宅での葬儀。自宅葬は、親族や会葬者と導師との距離が近いので、ご法話が、話の間まで伝わる感じがして、狭いゆえの良さを再確認しました。

門信徒の方で、葬儀業者の東京の中野にある会社でした。葬儀が始まる前、葬儀社の女性スタッフと少し話をしました。

私「入社して何年目ですか」
スタッフ「はい、5年になります」
私「自宅葬って珍しいでしょう」
スタッフ「いえ、最近多くなってきているみたいで、今月に入って5件ありました」
私「えー、そうですか」
スタッフ「はい、葬儀の参集者が家で施工しても良い人数になったことと、貸会場ですと20~30万の費用が掛かります。特に東京で多くなってきています」

私は、新しい葬儀式の流れが聴けて参考になりました。自宅から葬儀会場への変化は、大きい方はバブルにより弔問客が多くなってきたことと、逆に少人数の方は、隣近所に迷惑をかけず、こじんまりと送りたいという意識からでした。

ところが、ここに来て自宅葬が多くなったということは、死という出来事さえ、隣近所とは一線を引いてプライベートな出来事として施工できる状況になったということでしょう。

これは私の独断的な見方です。
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万能感という病理

2014年01月28日 | 現代の病理
「そうか、そういうことか」と腑に落ちることがあります。

以前“インターネットの普及によって情報化が進むと、ぜんの万能感の肥大化(小宮信夫)という現象が起きるそうだ。なんにでも素早く思い通りになる。その繰り返しの中で、自分はスーパーマンであると勘違いしてしまう。”(2010.5.14)と書いて、他人ごとの様に感想を書いたことがあります。

さっき、ふと次のように腑に落ちました。

万能感といっても、“何でもできる”感覚ではなく、人は常に、1つの事しか意識できないのだから、万能感は、その1つの事の上に感じられる感覚だということです。

2週間くらい前だったか、放送大学のカウンセリングの講座で、女子大学生が相談に来たということを紹介されていました。「ボーイフレンドがどうも、自分を避けようとしている」という相談で、その原因は、携帯電話に電話やメールを入れたが、1日返信がないことから、想像が膨らんで相談に来たという内容でした。

他人ごとだと思って聴いていましたが、自分に引き当てて考えると、携帯でいつでも連絡が取りあえ、つながることが当たり前となっていて、何度かけてもつながらず(携帯に電話をしたことが分かっているはずなのに)返信もないと、イライラした経験があります。

このイライラが万能感の1つの表れだということです。万能感は、何でもできることではなく、“できる”という感覚のことなのでしょう。万能感とは、「自分が何でも できる」という感覚を意味する心理学などで用いられる語だそうですが、みんな他人事のように書いていますが、私を含め、現代人のほとんどすべてが、汚染されている感覚なのだと思われます。
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明治30年の築地本願寺

2014年01月27日 | セレモニー
『東京風俗志』(上下)には、東京における明治30年ころの各寺院神社の様子も紹介されています。以下は「報恩講」の記載です。

11月28日は親鸞忌なり。真宗の寺院、その法会を修行し、檀徙また家々にて法事を営み、また講中相会してこれを営むもあり。これを報恩講、また略して御講といへり。浅草東本願寺にては、22日より始め、築地西本願寺にては24日より始む。檀徒日々早朝より群参して、宏大なる殿堂も人を以て満たし、尺寸の余地なし。近時に至るまでこれに詣づるもの、男は肩衣(かたぎぬ)を着、女は頭に黒の角かくしを被る習ひなりしが、肩衣はなほ存すれども、角かくしに至りてはほとんどこれを見ず。浅草報恩寺にては引上会とて、9月22日より28日に至るまで、これを行ふ。(以上)

肩衣とは、丈が短い袖無しの上着。袖無しのことで、のちに本願寺派では門徒式章へと変化していきます。大谷派では式章は、略肩衣(りゃくかたぎぬ)といい、仏前における礼装として首から下げて着用しています。

明治の初期には、東京でも女性は黒の角隠しをして参拝していたようです。農村部では、今から50年くらい前まで角隠しを着用していた地域もあると聴きます。この門徒の角隠しが、結婚式の衣装となったものです。
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