仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

森繁久弥の涙

2020年09月30日 | いい話

法話メモ帳より

 

2009年11月11日の読売新聞コラム「編集手帳」

 

 芝居が始まったのに、その少女は客席の最前列で頭を垂れ、居眠りをしている。「屋根の上のヴァイオリン弾き」九州公演でのことである◆森繁久弥さんをはじめ俳優たちは面白くない。起こせ、起こせ…。そばで演技をするとき、一同は床を音高く踏み鳴らしたが、ついに目を覚まさなかった◆アンコールの幕があがり、少女は初めて顔を上げた。両目が閉じられていた。居眠りと見えたのは、盲目の人が全神経を耳に集め、芝居を心眼に映そうとする姿であったと知る。心ない仕打ちを恥じ、森繁さんは舞台の上で泣いたという◆享年96、森繁さんの訃報(ふほう)に接し、生前の回想談を思い起こしている。誰ひとり退屈させてなるものか、という生涯枯れることのなかった役者魂と、情にもろい心と——森繁久弥という希代の演技者がその光景に凝縮されているように思えてならない◆映画、舞台、テレビと、巨大な山脈をなす芸歴のなかで、盲目の少女との挿話は山すそに咲いた一輪の露草にすぎまい。山脈の威容は、語るべき人たちが語ってくれよう。いまは小さな青い花の記憶を胸に映し、亡き人への献花とする。(以上)

この話は、森繁さんが1984年9月に刊行した「人師は遭い難し」(新潮社)の中に記されてある文。本から転載します。

 

 

(ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」)九州の或る劇場で、前列に最後まで頭を上げない少女がいた。

 些か不快になった役者どもは、あの娘はねっぱなしだ、起こせ、と彼女の前でわざと声を張り上げたり、足を踏んで、起きろといわん許りの芝居をした。幕がおりて、再びアンコール・カーテンが上ると、何とその少女ははじめて顔をあげた。その彼女の両眼はとじたままだった。ひたすら熱心に聞いていたのだ。

 私たちは申し訳なくて、彼女の前で大きな声で「ありがとう」をくりかえしたおぼえがある。(以上)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイボイス

2020年09月29日 | 日記

9月1日に紹介しました『音とことばのふしぎな世界――メイド声から英語の達人まで』 (岩波科学ライブラリー・2015/11/6・川原 繁人著)、誤って、再度借りてきてしました。その中に「マイボイス」の話が記されていたので、その部分を転載します。

 

失われる声を救うーマイボイス

 さて,私自身が深く関わっている,音声学と実社会の接点についてお話ししたいと思います。みなさんは、 ALSという病気を知っていますか? 日本語では「筋萎縮性側索硬化症」と言われる神経系の難病で、症状が進むと筋肉が次第に動かなくなり、後期には人工呼吸器の装着を余儀なくされることが多い病気です。また,喉頭癌などを患い、喉頭を摘出しなければならなくなるケースも少なくありません。ALSにかかった患者さんは、最終的に自分の声で話すことができなくなってしまいます。

「マイボイス」とは、このような患者さんが声を失ってしまう前に自分の声を録音し、その録音データをもとに声を失った後でもパソコン上で打ち込んだ文をその人の声で再生できるというフリーのソフトウェアです。このマイボイスは、音声学とはまったく異なる世界にいた吉村隆樹さんと都立神経病院の作業療法士である本間武蔵さんが、二人三脚で何年もかかって開発してきたものです。マイボイスを使えば、誰でも自分の声を取っておくことができます。

声を失った後も自分の声でコミュニケーションが取れるということは,患者さんにとっても,介護する家族にとっても,非常に大きな意味があります。

 マイボイスの開発者のお二人には,驚くべきことに,音声学を学んだ経験はありません。にもかかわらず,「失われる声を救う」ソフトを開発・使用し,患者さんのために無料で提供し続けています。

当初,テレビで本間さんの試みを知って衝撃を受けた私は,[音声学を研究する者として何かお刊云いできることはないだろうか]という思いから本間さんにお手紙を書き,以来今日まで,その活動に加えてもらっています。

 実際にどんなことをしているのか。少し具体的に紹介しましょう。一口に声の録音というと簡単に聞こえますが,実際には多くの課題があります。患者さんが録音時にすべての音を同じような音量で発音することは不可能ですし,録音をしている間に音の高さが少しずつ変わってきてしまうこともあります。でも音量や高さが変わってしまうと,後で文として再生したときに不自然さが出てきてしまうことがあります。そこで,この問題を解決するためにPraatを利用して音の音量や高さなどを自動的に調整する仕組みを作りました。(以上)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東条英機の未発表歌

2020年09月28日 | いい話

法話メモ帳より

 

法の声

心に響く

春の朝

 

初桜

薫る命は

いづこより

 

英機

昭和23年春

 

上記の歌は、東条英機の未発表の歌で、千葉県四街道市見真寺の前住高野勝則さんに「こんなものがある」と見せて頂いたものです。高野勝則さんのお父上は、東条英機さんの秘書をされており、1945(昭和 20)年の終戦直後、戦災者や復員. 兵が入植し、下志津原開拓団 が結成され、そのメンバーで四街道市に開拓に入った方です。

 

そうした関係から巣鴨の刑務所へ度々、面会に行かれ、昭和23年3月に英機氏より賜ったとのことです。

 

わたしが築地本願寺に在籍している時、東条 英機(明治17年~昭和23年12月23日)のご命日23日に、毎月(昭和56~61年)、世田谷区用賀の東条宅に出勤していました、英機夫人勝子さんがご逝去されてからは、出勤先は三鷹に変わりました。「西原さんを」とのご指名で、その月忌は、A級戦犯で処刑された7名のご遺族の方々が集い茶話会を兼ねていました。

そのような関係から、見真寺前住とは東条家の話をすることが度々あり、見せていただきました。

法話のメモ書きを整理していたら、その中に歌のコピー(写真)がありました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉と感情

2020年09月27日 | 日記

『感情の正体 ──発達心理学で気持ちをマネジメントする』 (ちくま新書・渡辺弥生著)からもう一題。

 

言葉と感情

 感情の認識には、しぐさや表情のほかに「言葉」も大きくかかわります。心の内側からわき上がってくる気持ちを意識するためにも言葉への置き換えが必要です。

 もし私たちが、嬉しい、悲しいといった気持ちを表す言葉やその概念を持たなかったとしたら、どのような暮らしになるでしょう。単純な感情ならば、しぐさや表情によって、他人に気持ちを伝えることもできるかもしれません。しかし、複雑なコミュニケーションは、そもそも成り立たないでしょう。現代のようにマルチタスクをこなす生活のなかで、他人に気持ちを伝え理解してもらったり、自分で受け止め噛みしめたりするには、気持ちを表す言葉の獲得が、とても大切です。

 たとえば、言いようのない気持ちのときは誰にでもありますが、「なんだか気持ちがなかなかのらないのよ。こうなんというか、やりようがないというか、出口がないというか……」といった言い方では他人には何となくしか理解できませんし、本人も悶々とした気分が晴れないものです。しかし、「八方ふさがり」といった言葉を学び、うまく気持ちと置き換えることができるようになると、他人はその気持ちに共感しやすくなります。本人も、その言葉を知る前よりもカタルシス(解放感)を得ることができるようになるわけです。(以上)

 

カタルシスとは、「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」だと辞書にあります。わたしが自己中心的な生き方が、「罪悪深重の凡夫」という言葉で明らかになる。それは「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」なのでしょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遺言は南無阿弥陀仏

2020年09月26日 | いい話

法話メモ帳より

 

岩田屋(昭和10年開業)は、九州最大の繁華街である天神(福岡市)に本店を置くむ三越伊勢丹ホールデイングス傘下の百貨店で、天神本店は九州最大の売上高を誇っています。

岩田屋は、初代中牟田喜兵衛(大正10年没)が、日本の伝統的な帳合を止めて西洋式の簿記を導入し、1903年(明治36年)に博多支店で従来の掛け売りを止めて正札販売に切替えるなど近代化を進めたことが成功して1906(明治39年)には博多でトップの呉服店へと成長し、そしてご養子には入った2代目中牟田喜兵衛が、天神(福岡市)で岩田屋百貨店を創業します。博多の発展と共に経営を拡大していきました。

 

その初代中牟田喜兵衛の逸話です。40年前に法話で聞いた話です。

 

初代の福岡県甘木市(現在合併)生まれで、有難い浄土真宗の門徒であった。丁稚奉公から一代で財をなした。臨終の時、子どもたちを枕元によび「わしは今からお前たちに遺言を言う」と云い「財産譲り渡し状が遺言ではない。それは言わずとも法律が決めて下さる。その遺言は、今言っても、お前たちの胸にピシャッとこないだろうから、私が死んでお葬式が終わり、お墓まで送って、何もかも終わったときに、遺言状をお仏壇に中に入れておくから、、その遺言状を開きなさい。」と言われた。遺言状を開く日となって皆が集まった。仏間でこれから遺言状を開く旨を伝え開くと、中には白紙の包み紙、3.4.5.6枚目に「遺言のこと」と記してあった。その中に一枚紙が入っており、「南無阿弥陀仏」とあった。一瞬、シーンとした空気が流れたが、子どもたちは大きなため息をついた。(以上)

 

後継者たちは、初代中牟田喜兵衛の真意を分かっていなかったという話ですが、本当の話か不明でした。本日、『天神のあけぼのー中牟田喜兵衛伝』(西日本新聞社刊・花田衞著)を購入して落掌しました。これは二代目の中牟田喜兵衛伝です。この二代目が、大阪の阪急デパートが終着駅にあるひとをヒントに、西鉄電車の終着駅である福岡天神にデパートを創業して博多の町を盛り上げた方です。その一部始終は「天神のあけぼの」に記されています。その本の中に初代中牟田喜兵衛のことが記されてありました。その部分のみを転載します。

 

喜兵衛は初代喜兵衛についてさらに言う。

  「趣味や道楽はありませんでしたね。相場というほどのことはないけど、株を少しやっていましたが、損をしたことは一度もないと話していましたね」

 「信仰心は厚かったですね。浄土真宗です。毎朝三十分ほどお経をあげてお勤めをしていました。仏壇の前には養母(エン)も私も一緒にすおりまして読経です。朝食前のお勤めは眠気が覚めて心も落ち着くし、健康にもいい。これは間違いありませんな。夜も同じように三十分ほどお経を唱えます。おかげて私も、いまでもお経は読めますし、長命できています」

  「説教もよく聞きに行きました。菩提寺だけでなく、福岡市内に高名なお坊さんが来られて説教があるというと、連れられて私も店員たちもよく出かけました。正法寺では年一回、親鸞のご命日に報恩講があります。これにも行きました。永代講といって一週間続くのがあり、このときは先代以下全従業員がそろって出かけました。一週間は店でも精進料理です。

 肉、魚など生臭いものはいっさいいけないとあって、料理人は包丁をといでにおいを消したものです。一週間が終わると精進落としで、盛大なスキヤキ会を開きました。店員たちもこれは楽しみにしていましたねえ」

 この朝夕の勤行も喜兵衛は引き継いだ。長男・喜一郎(岩田屋社長)はじめ子拱たちは喜兵衛の横にすわらされてお勤めをさせられた。だから喜一郎社長も栄蔵専務も、少しぐらいならお経を読める自信がある。(以上)

 

この方ならば「南無阿弥陀仏」の遺言を書くだろうと味わったことです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする