仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

電話帳がなくなる

2010年12月31日 | 日記
社会的な役割を持っていたものが、急激に無力化していくことを、身近に見ることがよくある。
劇的だったのはゼンリンの住宅地図だろう。以前は初めて法事へ行くお宅は、毎回、ゼンリンの地図で確認して出かけた。ところがネットの地図普及でとたんに不要となった。

電話帳もそうだ。昨日(22.12.30産経)の新聞に「電話帳削除依頼4.3倍」とあった。個人名電話帳「ハローページ」が振り込め詐欺に悪用されているので、削除依頼が相次いでいるとあった。警察官や銀行協会職員らをかたり、キャッシュカードを受け取りに行く手口の詐欺で、被害者の9割以上が電話帳に掲載されていることが警察当局の調べで判明し、お年寄りらに電話帳から名前を削除するよう呼びかけたけっかでもあります。

私も個人名は数年前から電話帳未掲載にしています。今は、職業別「寺院」からも、削除しようと思っています。これは電話帳情報からのセールスが多く閉口しているためです。以前は、職業別電話帳「寺院」で、本願寺派の寺院を探し当てて下さった方も多かった。しかし最近はその役割を終えようとしているように思われます。数年後には電話帳も発行停止となっているかも知れません。

急激に何かが社会的役割を失う。寺院のやはり固定門徒オンリーのメンバー制では、ゼンリン地図や電話帳と同じ道を行くかもしれません。他力念仏という商品を、特定の人を対象として限定販売しないこと。

今年も一年が終わろうとしています。ブログにアクセスして下さった方、ありがとうございました。
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三越葬儀へ参入、お布施のお経料化が進むだろう

2010年12月30日 | セレモニー
今日(22.12.30)の産経新聞に「三越伊勢丹葬祭事業参入へ」というタイトルで

三越伊丹ホールディングス(HD)が、傘下の三越と伊勢丹の約300万人のカード会員を中心に、葬祭関連事業を本格展開する。寺院、ホテルなどでの葬儀やお別れの会の仲介葬祭業者の紹介に加え、有名料理店の仕出しの受注といった百貨店の独自性を出したサービスを提供する。百貨店は慶事など「ハレ」のサービスが主だったが、葬祭事業への参入で高齢層の顧客獲得を目指す。(以上転載)

以前書いたことですが、イオンもファミリーマートも、窓口だけが異なり、僧侶や葬儀社を手配する会社も、手配された葬儀社も同様となると、このサービスはタケノコ状態となることだろう。

こうしたことによって失われていくものは何か。見えていない問題が山盛りであろうが、言えることは、地縁、血縁から、確実に経済が絡まった関係社会、おカネを中心にした人と人との結びつきが社会の到来だろう。

地域社会は、経済関係も含めて色々な助け合いで構成されていたが、地域社会からネット社会へと、かなりのスピードで変化しつつある。その1つの動きが「三越伊勢丹葬祭事業参入へ」だろう。

寺院の視点から言えば、いよいよお布施のお経料化が進むはずだ。お寺の本来の使命とは別に、お寺の地域社会あるいはネット社会での社会的な役割を、もっと鮮明化する必要があるだろう。
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浄土真宗という物語

2010年12月29日 | 浄土真宗とは?
昨日、坊守が○さんの奥さんがなくらなれたので、お通夜に行ってきますという。

後で聴くと、○さんは、結果的には卵巣がんでしたが、病院での検診を拒みつづけ、夏ごろから異常に痩せていたという。家族、親せきがやっとの思いで病院へ行かせたが、その検診の最中に心停止し、そのまま10日後にご逝去されたのだそうです。

人はそれぞれの物語をつむぎながら生きています。突然の死や病気は、今までつむいできた物語が断ち切られる時でもあります。おそらく今まで培った物語が断ち切られるのを恐れ、病院を拒み続けてきたのでしょう。

20年前、がん患者のIさんは、私の布教所を訪ねてこられたことがあります。肺がんを患い、余命の終わりを告げられたIさんは、ご自身の今の心境を沢山お話になれました。

私が「今の心境は」とお尋ねすると、「毎日がジャンボ宝くじに当たったような気持ち」と、かけがえのない一日を迎えるお気持ちを表現されました。そのIさんも、初めて医師から病名を告げられたとき、「これは私に与えられた試練だ」と思ったと言います。

1つの出来事を試練として受け入れる。試練と受け入れるときに今まで紡いできた物語が断ち切られることなく未来に続いていくのだと思います。

がんになって違った物語を紡ぐ人もいます。また信仰によって、自分の物語や病気の事実を受け入れる人もいることでしょう。

“私が浄土に往生する”とは、これも私に与えられる物語だともいえます。また“迷いの人生がこの度の一生で終わり仏になる”と、物語にピリウド打ち、迷いの物語を完結させるという表現も可能です。

現代に永遠に続く物語を語る。これも浄土真宗のお寺の為すべきことでしょう。

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今年の大笑い

2010年12月28日 | 日記
読売新聞読者欄(22.12.28)に、「今年一番の大笑い」というタイトルで読者からの投稿が掲載されていました。

“さて私は”と考えると2本あります。1つは8月2日にブログ書いたこと、もう1つは12月9日(西原ブログ)に書いたことです。

以下一部転載です。

それはK氏が語ってくれたことです。話を聞いたときは可笑しくて涙が出た。

先日、K氏が繁華街の歩道をスーツを着て歩いていると、腕に“保護師”(?)という腕章をつけた団体が数人でテッシを配っていた。対象は老若男女を問わず通りすがりの人に手渡している。なんだろうと思いながら横を通り過ぎると、自分にはくれない。次の腕章とつけた配布人も自分をスル―してしまう。次の配布人も自分だけに配る様子がない。たまらず“何を配っているのですか”ともらいに行ったという。その配布物には「暴力団撲滅キャンペーン」と書いていあった。そのスジの人と間違えられたのです。

これが笑いごとではなく、その人はそのスジの人と見間違われることが何度もあったと過去の出来事を話すのだから、そのKさんが困っていれば困っているほど、可笑しくて笑いと共に涙がでた。(8月2日転載)

Kさんは本当は、とても紳士です。次も転載です。


二次回の会場が、居酒屋の2階でした。靴脱ぎ場に、われら(10人)の靴が脱ぎ置いてあったので、私がゲタ箱へ入れていると、少し大きめの皮靴がかなり重い。重りを埋め込んだトレーニング用の皮靴があるのかと思った。宴会が終わって、“あの靴は一体誰の靴か”、興味深く見定めていると友人のOさんの靴でした。

表へ出て“Oさんの靴は重い”と皆に紹介すると、みんなで脱いだ靴をもち上げて「重い重い」と面白がり、靴が重いから歩き方が左右にぶれてがに股になっているとか、Oさんの歩き方を大バーに真似して大笑い。Oさんも「トレーニングではいているが、あまり重いのでタクシーを利用することが多い」というのでまた大笑い。楽しい夜でした。(12月9日転載)

 上記の②つから見出される私の大笑いの傾向は、滑稽なことに集約されるようです。人が困っている様子や、人をおとしめた状況を大笑いするのは、品がいいとは言えません。

大笑いにもクオリテイー(質)があります。“ああ、この未完成のまま私は終わって逝くのだろう”。それが今の感想です。
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大学でのいじめ?

2010年12月27日 | 現代の病理
 新聞(産経22.12.27)の三面記事に“インド人学生自殺 ズボン脱がされ、あだ名は「ビンラディン」 親友が“いじめ”証言 ”という見出しで、大学生のいじめによる自殺記事が出ていました。

“大学生”という点と、人種差別という点に興味を感じて記事を見ました。

 追手門学院大学(大阪府茨木市)に通っていた在日インド人の男子学生=当時(20)=が大学でいじめを受け続けたとする遺書を残して自殺した問題で、男子学生が複数の学生から人前でズボンを脱がされたり、イスラム過激派テロリスト「ビンラディン」とのあだ名で呼ばれるなどの嫌がらせを受けていたことが26日、分かった。…

男子学生がたびたび嫌がらせを受けていたのは、遊び仲間だった複数の学生。人前でズボンを脱がされたり、花火を直接向けられたりしたほか、本名ではなく、「ビンラディン」と呼ばれるなどしていたという。
 また「お前をいじることが最近一番楽しい」「お前を見ているとなんかイライラする」などの暴言を吐かれることもあったという。
 男子学生は親友に対し、「最近、パシらされる(使い走りをさせられる)ことが多い」などと打ち明けることもあったという。(以上記事抜粋)

小学生や中学生が行うようないじめの具体的な素行が紹介されていた。“日本人のこの未成熟さは、どうしたことだろう”と疑念がよぎりました。

いじめによる小さな優越感、あるいは他者を踏みつけることによって得られる権力者としての快感、最高学府である大学で日常的に行われていたことに驚かされます。その幼児性は、決してこのたび罪をつくった者たちだけの問題ではないように思われます。

人と人との違いを見出せない変な平等観と、将来に明るい希望を見出せない閉そく感の中で、現実の小さな差異になかに、ゆがんだ行動によって小さな蜜の味をあじわう。記事を読んで広がったイメージです。

先日、ビハーラの学習会で下記のようなある患者さんの逸話が紹介されていました。

救急車で運ばれてきた乳がん肺転移患者38歳女性が、ボンベからめいっぱいの酸素を吸入しながら、ストレッチャーで病院に転院されてきた。患者は医師にあったとたん、 「先生、私、死なないよね、死なないよね」、……という。状況は、酸素吸引の状態で、誰がみても助からない状況であることがわかった。

翌日はちょうど病棟は桜の花見の日でした。
本人の希望で桜の花の下に、ストレッチヤーで運んだ。
患者さんは「桜はきれい、きれい」と喜び、顔のこわばりがなくなって、しあわせそうであった。苦しいことばかりの中で、瞬間でも人は幸せを感じることがある。
2日後にその感謝さんは亡くなった。(以上)

自然の風景の中に、小さな自分が洞察されていくということがあるようです。あるいは、雄大な大自然のパノラマの前に立ち“人間って小さいなー”といった感慨をもつこともあります。

こうした自分を小さいと感じる感覚の喪失が、恵まれてあることへの気づきを阻害し“ゆがんだ行動によって小さな蜜の味をあじわう”といった行動の底辺に横たわっているようにも思われます。
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