仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

口語的文章

2020年01月31日 | 浄土真宗とは?
借りてきた本は『講座 蓮如 第二巻』(平凡社刊)と『蓮如体系 第二巻 蓮如の教学』(法蔵館)です。両書に片岡了氏の論文が掲載されていますが、『蓮如体系 第二巻 蓮如の教学』に『蓮如上人「御文」の文章―文章史の観点から』があります。その論文からの転載です。

 すでに言いふるされたことであるが、中古の仮名の物語や、仮名の日記の「ことば」は当時の口語(日常会話語)を反映したものであって、その文章は言文一致の文章であったとせられている。ただ、その場合、文字に書かれたことば(書きことば)と口頭のことば(話しことば)とは、「凡そ言語の歴史の存する限り、常にその全き一致を見ることは望み得ないもの」(国語学会編『国語の歴史』一二一頁)であるから二言文一致の文といってもそれが直ちに口頭の話しことばと同じであるということにはならないが、少なくとも平安末期以後の(『御文』は室町時代)、いわゆる「文語」と「口語」の間の差のようなことはなかった。が、それも『源氏物語』の頃を頂点として、それ以後は次第に「文章語」と「口頭語」とが離れて行ったと考えられている。(以上)

論文は、「文の長さ」「文の構造」「和語的表現」などを詳細に検討して、次のように結論づけています。

全体として「御文」の文章は、いわば「口語的文語」とでもいうべき性格のものと考えられる。但し、これは「御文」の文章を当時の「口語文」だといおうとするのではない。それはあくまで室町時代の「文語文」の一つと考える。ただ、それが「口語文」的なところを志向しながら、そうもなり切れず、いわば、語文と文語文との折衷的文章になっているということに注意したいとおもうのである。中世の文章・文体のあり方は多様であって最も口語的なものと、最も文語的なものを両極として、その中間に「ゆれ」があり、そのような「ゆれ」を示す一つのあり方として、かかる形が存したと考えるのである。そして、このようなおり方は、「御文」が文書による教化、伝導を目ざしたものであるというところから生じたものとおもわれるが、はじめに指摘したように「御文」のこのような形式は「読みきかせる」形式の文、「語り」の文の一つの形式を示していると言えよう。(以上)
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ことばが心を誘発する

2020年01月30日 | 浄土真宗とは?
明治大学文学部教授で片岡 了というは方がおられます。どうも中世の日本語の研究者らしく、著書に『沙石集の構造』などがあります。この方が『国文学 解釈と観賞―特集 親鸞と蓮如 史実と伝承の世界』に、蓮如上人の特筆すべき発揮に《その「こころ」の「持ちやう」をかたったものである。「ことば」の、「こころ」を誘引する力に対する強い確信である。そして、このような、「ことば」の力に対する確信が、蓮如の仮名法語の基底に存していると考えられる。》と記されています。

 蓮如上人の『御文章』には、
「わが往生は如来のかたより御たすけありけり、と信じたてまつりて」
「つねにまうす念仏は、かの弥陀の、われらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なり、とこころうべし」

など一人称の文が随所に挟み込まれていて、「こころ」の「もちやう」を、そのまま「こころ」の中に思い浮かべられる文表現によって、その言葉によって心が誘発される。それが一人称をとることの意味だという。


また「あら殊勝の弥陀如来の他力の本願や」「あら、こころえやすの、他力の信心や、あら行じやすの名号や。」のように、感動文が挟み込まれる。感動文というものもまた、本来一人称に属するものであり、「こころのもちやう」の具体例の提示することによっって、信を得るという確信がある。とのことです。

市の図書館に「片岡 了」で検索してもヒットしないので、千葉県図書館のホームページで「片岡了」で検索したら、2冊ありました。(つづく)
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子どもを攻撃せずにはいられない親③

2020年01月29日 | 現代の病理
『子どもを攻撃せずにはいられない親』 (PHP新書・2019/7/13・片田 珠美著) の続きです。これがラストです。
第2章に「なぜ子どもを攻撃するのか」から転載します。

支配欲求
親による子どもの支配が以前よりも巧妙になっている印象を受ける。このように親が子どもを支配する関係は、他人同士の場合と比べて厄介だ。その理由は次の二つである。
 まず、親から逃げるのは難しい。‥‥親が子どもを支配する関係が厄介な二つ目の理由は、愛情である。本当に愛情から親が子どもを支配しようとしているのかどうかはさておき、少なくとも親のほうは愛情からだと思い込んでいる。


支配欲求の根底に潜む三つの要因
それでは、なぜ支配欲求を抱くのか? その動機として、「利得」、「自己愛」、「攻撃者との同一視」の三つが考えられる。
 
まず、利得だが、これは非常にわかりやすい。典型的なのは、子どもに将来の高収入を期待する親である。

自己愛ー自分の果たせなかった夢を子どもに託す
 親の自己愛、とくに傷ついた自己愛も、親が支配欲求を抱く重要な動機になる。なぜかといえば、傷ついた自己愛、そしてそれによる敗北感を抱えている親ほど、子どもを利用して、自分の果たせなかった夢をかなえようとするからだ。

攻撃者との同一視-自分を攻撃した人を模倣する
親が支配欲求を抱く三つ目の動機として、「攻撃者との同一視」を挙げておきたい。これは、自分の胸中に不安や恐怖、怒りや無力感などをかき立てた人物の攻撃を模倣して、屈辱的な体験を乗り越えようとする防衛メカニズムであり、フロイトの娘、アッナーフロイトが見出した(『自我と防衛』)。‥より正確には、自分がつらい思いをした体験を他の誰かに味わわせることによってしか、その体験を乗り越えられないというべきだろう。


所有意識―子どもへの支配欲求が強い親は、同時に「子どもは自分のもの」という所有意識も抱いていることが多い。この所有意識が最も暴力的な形で表れるのは、子どもを虐待する親である。子どもを自分の所有物とみなしているからこそ、自分の好きなように扱ってもいいと思い込むわけである。
 
特権意識-子どもは「自分をよく見せるための付属物」という認識

親の所有意識と密接に結びついているのが、「自分は親なのだから、少々のことは許される」という特権意識である。
 この特権意識はヽ何よりもまず自分の願望や要求を満足させることが家庭で最優先されて当然という自己中心的な思い込みとして表れる。だから、子どもが親の言うことを聞かなかったり、親の思い通りにならなかったりすると、暴力を振るう。あるいは、私の両親のように自分の希望する職業に子どもを就かせようとするのも、特権意識に由来する自己中心性のせいだろう。
 
自分は正しいという信念
一番厄介なのは、子どもを攻撃する親の多くが、自分は正しいと思い込んでいることだ。当然、子どもを攻撃している自覚などない。
 自分は正しいという信念は、先ほど取り上げた勇一郎被告にも認められる。勇一郎被皆は、警察の取り調べに「しつけで悪いとは思っていない」と供述したようだが、おそらく本音だろう。

想像力の欠如
 自己中心的な親は、自分が子どもに浴びせる暴言や加える仕打ちが、どれだけ子どもの心を傷つけ、怒りや反感をかき立てるかということに想像力を働かせることができない。いや、より正確には、想像してみようともしないというべきだろう。(以上)
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子どもを攻撃せずにはいられない親②

2020年01月28日 | 現代の病理
『子どもを攻撃せずにはいられない親』 (PHP新書・2019/7/13・片田 珠美著) の続きです。
「元事務次官による長男殺害」何が問題なのか。本から転載します。

暴君化する子どもの典型
この長男は、第三章で取り上げた暴君化する子どもの典型のように見える。‥‥。たしかに、この長男のように暴君化する子どもは、親を責めて奴隷のように扱い、暴言を浴びせたり、暴力を振るったりする。ただ、親を責める言葉を聞いていると、一抹の真実が含まれているように思われることが少なくない。
たとえば、長男の2017年のツイーッターである。
〈私か勉強を頑張ったのは愚母に玩具を壊されたくなかったからだ〉
 
‥成人してからも家庭内暴力を続けた長男を擁護するわけではないが、子どもの怒りと復讐願望をかき立てるようなことを親がやっていた可能性は否定しがたい。
 東大への進学実績が高い中高一貫校に長男を進学させたのは、東大法学部卒のキャリア官僚である父親と同じレベルの学歴と職業を長男に望んだからかもしれないが、第三章で指摘した「勝ち組教育」の一端のようにも見える。
 
親が子どもを自分の所有物とみなしているからこそ、親自身の価値観を押しつけるのだし、子どもの人生がうまくいかなくなると自分の手で何とかしなければと思い込むのだ。
 
親の気持ちは痛いほどわかるが、このような訴え自体、子どもの人生すべてに親が責任を持たなければならないと思い込んでおり、さまざまな問題を家族だけで抱え込もうとしていることの裏返しのように私の目には映る。
 実際、こういう親は、子どもがひきこもるようになると、近所や親戚とのつき合いを避け、外出を控えるようになりやすい。これは、責任感が強いことにもよるし、世間体を気にすることにもよる。いずれにせよ、親自身もひきこもりがちになる。そして、皮肉にも、親子の一体感がさらに強まって、共依存の関係に陥りやすい。
 
元事務次官夫妻はとこにも相談していなかったようだ。このように家庭という密室で抱え込んでいたことが、今回の悲劇の一因になったように私の目には映る。というのも、この長男のように家庭内暴力を伴うひきこもりの場合、親に敵意や怒りを覚えながらも、依存せざるを得ない敵対的依存の状況に陥っていることが多いからだ。

‥‥ 第三者の力を借りなければ、ひきこもりを解決することはできないので、とにかく相談することが必要なのに、元事務次官はそういう選択をしなかった。もしかしたら、ひきこもりは恥であり、外聞が悪いと考えたのかもしれない。だが、もし相談していたら、子殺しという最悪の事態は防げたのではないだろうか。(以上)

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子どもを攻撃せずにはいられない親①

2020年01月27日 | 現代の病理
戦後、久しく「貧乏が諸悪の根源」といわれていました。貧しさが心の歪みを生み、社会生活での不具合や犯罪の温床となっていたということです。しかし、昭和50年以後は、諸悪の根源が「豊かさ」に変わってきました。慢性病が肥満から生まれ、社会のひずみが物質的な豊かさから生じているということです。

図書館で借りてきた『子どもを攻撃せずにはいられない親』 (PHP新書・2019/7/13・片田 珠美著) は、豊かさから生まれる病理という視点から、読んでいくと興味深い。

出版が数ヶ月前なので、近年の事件「元事務次官による殺害」も取り上げられています。
ますは、「ひきこもりの長期化と高年齢化」について記述です。以下転載。

 その最大の原因は、ひきこもりの長期化と高年齢化だろう。2019年3月、内閣府は40歳から64歳を対象としたひきこもりの実態調査の結果を発表した。61万3000人という数は衝撃的だった。
 内閣府は2010年と16年にもひきこもりの調査を実施しているのだが、このときは15歳から39歳が対象で、それぞれ約70万人、約54万人という数字が出ている。したがって、少なくとも約100万人以上のひきこもりがいると考えられる。
 その実態と長期化・高年齢化の影響を明らかにするために、「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」が厚生労働省の助成を受けて調査を実施した。この調査は、2016年11月から2017年1月まで、家族399名、ひきこもり経験者119名を対象にして行われた。
 その結果、ひきこもっている本人の平均年齢は32.5歳で、40歳以上の事例が全体の25%に及ぶことが明らかになった。また、ひきこもりの平均期間は10.8年で、ひきこもり期間が20年以上の人が全体の16%に及ぶことも判明した。
 さらに、40歳以上の事例と40歳未満の事例を比較した結果、ひきこもりの平均期間は、40歳未満では約9年だが、40歳以上では約15年ということが明らかになった。つまり、高年齢の事例ほど、長期にわたってひきこもっている。しかも、40歳以上の事例では、40歳未満の事例よりも、現在及び5年後に対する家族の不安が強いことも判明している。
 この調査によって、ひきこもりの長期化・高年齢化の実態が浮き彫りになったわけだが、元事務次官に殺害された長男も、典型的な40歳以上のひきこもりである。したがって、家族の不安はかなり強かったと考えられる。(つづく)
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