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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「ぞうさん」

2014年02月28日 | 日記
昨28日(2014.2月)まど・みちお(まどみちお)さん(1909年山口県に生まれ。代表作に「ぞうさん」「おさるがふねをかきました」「やぎさん ゆうびん」「一ねんせいになったら」など多数)が104歳で逝去されたというニュースが報道されていました。

東京新聞夕刊で一面に、生前取材したことを掲載しておりました。以下「東京新聞夕刊」より転載。



「ぞうさん」は、まどさんが書いたのは四十二歳の時。子ソウの母親ソウヘの思慕を表しているが、そこには子どもへのメッセージがある。
  「『鼻が長い』と言われればからかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは 『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴らしい。人の言うことに惑わされて自分の肝心な部分を見失ってしまうのは残念。幼い子を見ていると一人として同じではない。うれしくなります。成長は時間がかかるが、長い長い長い夜もぼっと明けることがありますよ」。本紙の取材にこう話していた。 
 「世の中に生きるものはすべて、たった一つの存在です。そのものがそのものであるということ。それだけでありかたく、うれしく、尊いことです」とも。
 一九四六年に三十七歳で台湾から帰還し、工場の守衛や児童雑誌の編集者として働いた。初めて本を出したのは五十四歳の遅咲き。「ナマコはだまっている/でも/『ぼくナマコだよ』つて/いってるみたい/ナマコのかたちで/いっしょうけんめいに…」 (「ナマコ」)。まどさんの詩はユーモラスな口調の裏に陰影がある。小さく弱いものへの愛着がある。
 失礼を承知で「ご自分の詩で嫌いな作品はありますか」と尋ねたことがある。まどさんは「〈一ねんせいになったら〉は少し嫌いです」と言う。「一ねんせいになったら/ともだちひゃくにんできるかな/ひゃくにんでわらいたい二。誰もが晴れがましく感じる言葉は恥ずかしいのだろうか。戦争や軍隊の体験、植民地台湾での暮らしや戦後の苦労を通じて獲得した思想を垣間見た気がして、いっそう好きになった。
 (大日方公男、井上圭子)
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横並びの時代

2014年02月28日 | 現代の病理
テレビドラマで犯人役の男が万華鏡を楽しんでいる描写がありました。坊守の「昔、小学館の小学〇年生の付録についていた。小学一年生から中学生の友3年まであった」という言葉から、今は小学館の小学〇年生は、どうなっているのか気になりました。

ネットで見ると、小学館の学年別学習雑誌は、1922(大正11年)に創刊、現在は、『小学一年生』と『小学二年生』、『学習幼稚園』・『入学準備 小学一年生』の4誌だけが刊行されているようです。

昔は横並びの時代、同じ年齢の人は同じ興味と学習程度で、そのころが懐かしく感じられます。いつ廃刊になったが、気になるところです。

• 2009年(平成21年)10月26日 - 『小学五年生』、『小学六年生』を2009年度いっぱいで休刊にすることを発表。
• 2009年(平成21年)12月28日 - 『小学六年生』最終号に当たる2010年2・3月合併号が発売。
• 2010年(平成22年) 2月 3日 - 『小学五年生』最終号に当たる2010年3月号が発売。
• 2011年(平成23年)12月1日 - 『小学三年生』、『小学四年生』を2011年度いっぱいで休刊にすることを発表。
• 2012年(平成24年) 2月 3日 - 『小学三年生』、『小学四年生』最終号に当たる2012年3月号が発売。

意外と最近まで発売していたようです。

20年近く前、精神医学者の佐々木正美先生の講演を、娘が通う幼稚園にお招きして開催したことがあります。その折、東大で学生カウンセリングを行っている心理療法の先生のお話をしてくださいました。

幼稚園から小学校低学年の子どもは、まずみんなと同じ体験をしてから、みんなと違う体験をさせる。そうすると個性が延びる。みんなと同じという体験があるので、安心してみんなと違う体験に身を置くことができる。最初から、みんなと違う体験をさせてしまうと、みんなと違うことに緊張感を持ってしまう。そのような話しでした。それを帽子の話でしてくださいました。

小学校に入り、みんなが白い帽子をかぶっていけば、自分も白い帽子をかぶって学校へ行く。この様に、みんなと同じという体験がある時、次に黄色い帽子をかぶっていけば、「すごいなー、君の黄色い帽子」とみんなから受け入れられる。最初から黄色い帽子をかぶっていくと、違いだけが目立ち、黄色い帽子をかぶっていった子は委縮してしまう。

近年(と言っても20年前ですが)、小さい時からみんなと違う個性を伸ばしていく教育がなされている。ある面、学習でも際立って優秀な子は、その優秀さゆえに優越感を持つだろう。その優越感は、もっと優秀なものに出会ったとき、劣等感となる。……(以上)

学年別学習雑誌が売れない個性化の時代、違いの伸ばすことは大切ですが、反面、みんなと同じと言う体験も必要です。浄土真宗は、みんな共に凡夫という教えです。個性化の時代なればこそ、まさに浄土真宗の出番がある。そう思います。
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お陰様発言②

2014年02月27日 | 日記
オリンピック選手の「みんなのお蔭」という“共同体感覚”を利用して、仏教者は縁起の教えを符丁する人もいるかもしれません。私はあえて疑問符を投げかけます。

“共同体感覚”は、逆にプレッシャーともなり、また目的が達成されなかった場合、その負い目を背負うことになります。

仏教の「是あるがゆえに彼れあり」という縁起の教えは、縁起と言うプロセスそのものへの目覚め目的であり、共同体を組織して目的を達成するという縁起を手段とする考えとは異なります。

選手も選手を応援する人も、お互いの存在によって今があるという感謝の営みに完結して日々努力できれば、縁起の教えに即した行為であり、結果がどうなったとしても、それはそれとして受け入れられるはずです。しかし目的成就のための共同体では、勝った場合は良いですが負けた場合は負の遺産が残ります。

ともあれ選手の皆様、ご苦労様でした。
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お蔭発言①

2014年02月26日 | 日記
『読売新聞』正論(26.2.24)に加地伸行(立命館大学フェロー)氏が“選手に見た「日本の心」で再生を”と題して執筆されていました。

日本のメディアは、日本人の上位大賞者にはもちろんのこと、残念な成績となった選手たちにも、競技結果の感想を求めていた。それらを聴いていて、そこに日本的とも言うべき内容が共通していると思った。

 家族のため、先輩のおかげ…

 まず第一は、〈いろいろな人の支えがあり〉その支えてくれた人のため、家族のために闘ったと述べていた。あるいは、〈先輩の苦労のおかけ〉と、先輩たちが開いてきた道への敬意のことば、さらには〈仲間みんなで力を合わせてここまでくることができた〉という団結のことばが発せられていた。そこには一貫して自分以外の人々への感謝や謙虚さがあった。それも自然な感じであった。
 ふつうならば、何年もなみなみならぬ努力をし、入賞できたのであるから、すこしは自分の力を誇示しても不思議でない。
 しかし、どの日本選手にもそういった個人能力の自慢といったものが、いささかも見えなかった。これは、いったい何なのであろうか。
 日本選手のそうした感覚、またそれに共鳴する日本人一般の感覚は、個人の能力を第一とする個人主義のそれではなくて、集団性・共同体性を最重要視する家族主義のそれではなかろうか。
 さらに踏み込んで言えば、個人主義なる欧米流の在りかたは、遠くは狩猟民族の能力主義の発展した形であり、家族主義という東北アジアの在りかたは、農耕民族の共同体生活感覚の発展した形であると、私は思っている。
 と述べると近現代国家においては、特に都会においては狩猟民族感覚とか農耕民族感覚などというものは消えてしまっており、どこにもないのだと言う〈文化人〉がきっと出てくることであろう。
 それは浅薄。例えば、個人主義者のコーン日産社長は、狩猟民族的に自己の能力を高く評価し、年俸十億円を自分で決めているではないか。一般会社の日本人社長にはそのような高給を自分が決める度胸はない。狩猟民族的個人主義が身についていないからだ。(以下省略)

氏の論は、引き続いて
 「日本人の根強い共同体感覚を底にすえての政策を立案することが、国民の心を捉えかつ国家の財政危機を救えうるのである。その例恋示そう。」と、「在学する中学生以上の者は、自分の自由になる時間卜土日祝日や夜間など、あるいは有給休暇を使って、社会福祉関係の仕事をする。」と提言されている。


確かに、「みんなのお蔭」発言が多かった。この事実をどう受け止めるのか。私は、“これこそ仏教的な考え”とは思わない。もちろん無関係ではない。

私の仮説は次の通りです。一般社会にしろ、スポーツ選手社会にしろ、むかしは共同体的感覚が、空気の様に当たり前に存在して、そのことを強く意識しなかった。ところが現代は、一般社会の中での共同体的感覚は失われ、逆にオリンピックに出ようという人に対しては、昔以上に国家や社会がバックアップをしている。その事実が「みんなのお蔭」感覚として言葉となったのでしょう。(続く)
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隠ぺい体質

2014年02月25日 | 現代の病理
仏教壮年会の集い、知人も多く、楽しいお酒でした。都市開教仲間の茅ヶ崎市のHさん、3月11日築地本願寺の東日本大震災法要で法話をする、そのような話題もありました。

参加してよかったとも思うことの1つに、Hさんから次のような思いを聴いたことです。

日本では原発も辺鄙なところに作って、都会の人は、きれいなところ(エネルギー)だけを享受している。この構図は、色々なところにある。米軍基地を沖縄に押し付けて、平和という綺麗なところだけを享受している。肉もの人に場で働き人に、動物を殺すという役(えき)負わせ、きれいな肉を食べるというところだけを享受している。これっておかしいのでは…とのことでした。

言われればその通り。以下は私の思うところですが、その不自然な構図によって、きれいな部分だけを享受している人の上に、なんらかの精神的なゆがみを作っているに違いない。

その歪みは、汚い部分は隠ぺいするという体質であったり、いのちを生きることの弱さであったりです。
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