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『AI時代の感性:デジタル消費社会の「人類学」』⑥

2024年03月21日 | 現代の病理

『AI時代の感性:デジタル消費社会の「人類学」』(2023/9/2・ダニエル・コーン著),林昌弘翻訳)からの転載です。

 

ノーベル経済学賞を受賞したアンガスーディートンは、前著『大脱出--健康、お金、格差の起原』〔松本裕訳、みすず書房、2014年〕において、二十世紀の西側諸国は、抗生物質の発明、狂犬病やコレラの対策強化などの医学の大きな発展によって死亡率を低下させたと分析した。

ところが、アンーケースとの共著では、前著とは逆に絶望を物語る。アメリカでは、医学の発展の恩恵は社会によって奪い取られたのだ。アメリカのトラウマを描き出すこの本は、悲惨な統計的事実を詳述する。たとえば、特定の社会層の死亡率が上昇したことだ。すなわち、四十五歳から五十四歳の大学を卒業していない白人だ(いわゆる「プアホワイト」)。

ケースとディートンの用いる「絶望死」には自殺、薬物の乱用、アルコール依存症が含まれる。これらの死は二〇年で三倍に増加した。アメリカの労働者階級は将来を奪われ、高まる社会的孤独の影響に苦しみ、悪徳な研究所が推進したオピオイド〔鎮痛剤〕の餌食になっている。

 過去数十年間における死亡率の上昇は、まったく予想外だった。二十世紀の成人の罹患率は一九三〇年代および第二次世界大戦においても低下した。一九一八年のスペイン風邪のときを除き、罹患率の低下は揺るぎない傾向だと思われていた。

 オピオイド服用に見られるこうした隠れた疫病の罹患者に共通する一つの特徴は、高等教育を受けていないことだ。アン・ケースの言葉を借りると、この教育の欠如は「赤字の斜線のかかった(学士号)というバッジを身に着けることを義務づけられているかのようだ」。。一九八〇年代生まれの世代では、高卒以ドの白人の自殺率は、残りの世代の四倍以上だ。

 ケースとディートンが分析したのは、労働者階級が社会に見捨てられたという。般的な現象に関する目に見える部分だ。俳優クリントーイーストウッドは映画『グラン・トリノ』において、この崩壊しつつある白人社会の典型的な人物を演じた。この映画の主人公のように、かつては、フォードやGMの会社貝であることを誇りに思うことによって強い社会的帰属意識が育まれていた。

 経済学者ダロン・アシモグル(一九六七)は、こうした問題を「グッドジョブ(良質な雇用)」、つまり昇進の見込みのある高収入の仕事の消滅と要約する。工業界の大企業が消滅し、そうした昇進の機会は失われた。

 

 デュルケームヘの回帰

 そうした絶望死の原因を理解するには、一八九七年に出版されたエミール・デュルケームの『自殺論』を再読してみる必要がある。この本はフランスの社会学、さらには社会科学の可能性の基板となった卓越した書だ。

 自殺という特異な現象が毎年一定の割合で生じるという事実は、自殺には一般的な法則が働いているからであり、これは社会学の研究対象になるという。

 そこでデュルケームは、自殺が心理的というよりも社会的な現象であると説いた。その証拠に、精神病院でよくみられる社会集団と自殺する社会集団は一致しない。男性と女性を比べると、鬱病になった経験では女性のほうが多いが、自殺では男性のほうが多い。同様に、宗教別に比較すると、ユダヤ人の場合、自殺率は低いが、精神科に通う割合は高い……。自殺の原因は個人でなく社会にある。個人を自殺に追いやるのは社会とのつながりの喪失だ。まず、デュルケームは近代的な暮らしによって人間関係が断ち切られた人々が陥る「利己的な自殺」を分析した。十九世紀、最初の犠牲者になったのは、都市部で働くために故郷の土地を捨てざるをえなかった農民だった。

 およそ100年後、社会学者クリスチャン・ボーデロ(1938―)とロジエ・エスタブレ(1938-)が現代の統計を川いて検証したところ自殺が多いのはデュルケームの時代とは逆に農村部だったが、原因は同じく社会的な孤独だった。労働行階級の大半は他の階層との接点を失った。

 ボーデロとエスタブレも指摘するように、デュルケームは「昔はよかった」と言いたかったのではない。彼は近代化がもたらす恩恵を高く評価していたが、この恩恵に浴するには支払わなければならない人的コストが甚大であることを示したのだ。

 デュルケームは自殺に関して社会的な孤独以外にも、これに近いが影響力の異なる別の要因を指摘した。それは社会が既存の法則に従わないという感党を言い表わす「社会的なアノミー」だ。

 世の中が無秩序になったと感じるときに自殺率が増える。デュルケームがこの本を執筆した当時、その最も顕著な例は離婚だった。離婚の当事者は、自身の立ち位置を理論化する指標や手段を失う。その結果、不安、動揺、不満が生じる。離婚の多い地域は自殺も多かった。デュルケームによると、独身者は将来に自己を見出すことができない。つまり、独身者は将来に自己を投影するというよりもはるかに曖昧な感党である「希望」しかない現在に閉じ込められた状態にあるという。

 

 

先述した『デジタル馬鹿』の著者ミシェル・デミュルジェは、大規模オンライン講座(MOOC)を分析した。

 

 デミュルジェは「今のところは」と前置きしながらも、デジタル技術ではできないと思われるもう一つの根本的な限界について指摘している。それは母性愛だ。乳児は、生身の母親が与える愛情と、ビデオに映った母親が与える愛情をはっきりと区別する。デミュルジェは、「理由はまだわからないが、乳児に与える刺激が人間によるものか機械によるものかでは、影響はまったく異なる」と解説する。デミュルジェは、霊長類の社会性に関する専門家ピエール・フランチェスコ・フェラーリ〔1968-〕が行なった実験を引川し、共感力の仕組みを論じている。フェラーリが説くには、生身の実験者から実験者の登場するビデオに切り替えたところ、驚いたことに共感力の基盤であるミラーニューロンのスイッチが切れてしまったという。

 この結論を補強するもう一つの実験がある。二組の生後九か月のアメリカの乳児に中国語を教えるという実験だ。フェラーリの「意図せざる実験」と同様、まったく同じ内容の授業を、一つのグループは人間の教師から学び、もう一つのグループは同じ人間の教師が登場するビデオから学んだ。実験の結果、ビデオ学習にはまったく効果がなかったことが判明した。

 ビデオ学習の場合、たとえば、子供がまばたきをしたときに教師がはっとして言葉を少し詰まらせる、教師が生徒の感情を読み取って抑揚を変化させて話すというような、子供との繊細な結びつきが欠けていた。ビデオでは、教師は乳児の発する感情的なメッセージを受け取ることができなかった。

逆もまた然りであり、乳児は自分の感情に無神経なビデオの教師に興味を抱かなかった。

 この例は、デジタル社会がもたらすリスクを象徴している。デジタル社会は、人問が他行と向き合うとき、その他者が自分の気持ちを理解している、あるいは理解しているはずだと考える他者とのつながりを断ち切る。

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