仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

薬は毒にもなる

2009年02月28日 | 浄土真宗とは?
三日前の三好ご講師の研修会で、「消極的で引っ込み、内気な子どもがいたとする。この子どもの長所を10書いてください」というワークがあった。言うまでもなく聴講の人は、思慮深い、慎重、やさしいなど書いた。欠点そのものが長所であるというお決まりのコメントですが、これを日常生活の中で実行する。それが仏道です。

築地本願寺から出ている小雑誌「阿弥陀仏はい慈しみの如来さま」(拙著)がある。もう17年くらい前に出したものですが再版して今も売っています。その冊子の中に次のような法話を載せている。

「心に残るとっておきの話」の本(潮文社刊)が話題となっている。その中で元中学校校長の橋本一雄さんが「子供を兄る目」という題で、こんな思い出を書いている。
 昭和二十三年のこと、校長先生から呼ばれ「君の学級の生徒。人ひとりの長所について話してくれ」と尋ねられた。生徒の氏名は完全に覚えているものの、長所となるとおぼつかず、とぎれがちに答えたとのこと。 すると次に「では、短所を話してくれ給え」と言われる。今度はよどみなく答えることができた。
 校長先生は、「君、鈍重な者は裏返してみれば、落ちついていないかね。あわて者は機敏なところがあるかも知れないね。我々はともすれば、生徒の欠点や短所だけに目をつけたがるものだが、お互いもっと長所や美点を見てやるように努めようじゃないか」と言われたそうだ。
 いい話だと思う。
 一つの客観的な理想ではかると欠点であることが、長所として見て行ける。それは、その欠点を見る人の眼差しの豊かさに帰する。
 さて阿弥陀如来のお話をしましょう。
 ここに愚痴と欲と怒りに沈む欠点をもった人間がいる。その人問を諸仏方は、仏の理想という物差しではかり、凡夫といわれた。
 ところが阿弥陀如来は、凡夫という欠点を問題にすることなく、その欠点を見つめる、眼差し、自らの力量、慈しみの深さを問題としてくださった。それが『人無量寿経』に示されている阿弥陀如末のご本願であり、「無条件の救い」のみ教えです。
 この無条件の救いが示された浄土真宗という仏教は、人間の理想や可能性を追求する道ではなく、阿弥陀如来の仏徳である慈しみの深さを聞かせて頂き、阿弥陀如来の豊かさに頷いて行く、すべての人に開かれている平等な教えです。(以上)

法話はありがたい阿弥陀様の話ですが、この校長先生は見事です。この欠点が長所であるというものの見方は、一般の病理の上でも言えます。薬も多すぎると毒になります。便利さやなどもその中に病理が隠れています。仏教の中道の教えはかなり普遍性があるようです。
そのうちわたしのホームページ(http://www.jade.dti.ne.jp/~otera/index.html)の現代の病理で書きますが、心理主義もそのカテゴリーに当てはまるようです。
心理主義とは小沢牧子などが,2001年ごろから言い始めた現代の病理です。いわく新自由主義の経済と思想が自己実現・自己啓発・自己責任などの「個人還元主義」の考えを拡大させた。人の状態や行動または社会現象を,臨床心理学的な観点から人間の内面のありように還元して解釈し,説明し,問題を『改善・解決』しようとする立場です。心理治療・カウンセリングは,もちろんこの範躊にはいり、この「心理主義」だけではけっして事態を改善しない。社会的発生源へとメスを入れなればならないとのことます。たとえば,戦場にいてPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ兵士たちに心理療法を施し,ふたたび戦場へ送り出す。カウンセリングは悪用して物事の本質の解決にならないという意見です。
薬には必ず毒にもなるということです。心理主義の真反対の環境(社会)還元主義も同じことでしょう。では心理主義と仏教の三界唯一心とは、どこが違うのか。これはHPに譲ります。
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苦しみは成長のとびら

2009年02月27日 | 人生案内
 読売新聞に「人生案内」という質問コーナーがある。投書された悩みに回答する形式です。昨日、門信徒の家庭で読経していたとき、ふと思いついたことがある。1つの苦しみが記された投書に宗教別(霊友会・創価学会等)に回答するという形式で、その宗教の考え方や教えを理解してもらう。そうするとより具体的に興味を持って諸宗教を考えることができるということです。それは逆にいえば、1つ問いへの回答の中に、回答する人の価値観や考え方が織り込まれていることでもあります。
 実験的にわたしが考える真宗理解をその形式で伝えてみましょう。昨日の読売新聞の人生案内です。

 夫の不倫早く忘れたい(21.32.26読売25面)
 40歳代主婦。昨年、夫の不倫がわかりました。相手は、10年以上家族ぐるみで付き合って妹のように思っていた人でした。 夫から「家計のため働いてほしい」と頼まれ、私は資格を取り夜勤もこなし一生懸命働いてきました。けれども、その間に夫はホテルに……。悲しすぎます。死のうと思いましたが、夫は土下座し涙しました。かわいい子どものことが頭に浮かび、死ねませんでした。今も毎日のように悪夢を見ます。思い出すと涙が止まらず、ご飯も食べられなくなり仕事を辞めました。ペンを持つ手も震えます。
 忘れるためには、どうすればいいのでしょう。精神科クリニックなどで相談したほうがいいのでしょうか。ずっと気持ちが不安定なのは自分が一番わかっています。毎日、相手の女性の顔が浮かびます。早く忘れたいのです。 (大阪・M子)

 苦しんでおられるMさんには失礼になったらごめんなさい。私も一緒に考えますのでお許しください。この問いにどう回答するのか。その回答の中に回答する人の価値観が見えてきます。

 まずは新聞社採用の回答者、野村 総一郎(精神科医)さんのご意見です。
 
 浮気だけでも大きな心の傷になるのに、夫の卑怯な策謀にだまされ、親しかった女性に裏切られ、二重三重の苦痛を受けた。これは体調を崩し、悪夢を見続けても無理はない。あなたは離婚を選択しなかったんですが、必ずしもご主人を許したのではない。今からすべてを忘れてよりを戻すなど無理というものです。
 それなら「思いっきり軽蔑して一緒に居てやる」くらいに割り切り、仕事などでご自身の生活を築き、かつ楽しむ、という方向を目指すしかないと思います。精神科クリニックなどで話を聴いてもらうこと一ももちろん役に立つと思います。
 ただ、一つ気になるのは、「自分が忘れねば」という気持ちだけがお手紙の前面に出ていることです。あなたに落ち度はないんですから、回復に手を差し伸べるのはご主人の責務のはず。土下座は良いとして、その後の態度こそ問われますが、どうもそれが読みとれません。あなたの苦悩を理解し、どうしたら良いのか、ご主人にも一生懸命考えて苦しんでもらわないと、不公平すぎますよ。それこそ取るべき最低水準の態度でしょう。もしそれが見られないとすると、夫婦を続ける意味から考え直すべきかもしれないと感じました。

 さすが医師だと思います。まずは苦しみの現状認識(みたて)をして、そのための対処療法を示し、今後の理想的なありようを伝える。この3点に収まります。仏教的視点から見ると平面的な苦しみの理解と回答だなーという感想です。

 わたしが言う仏教の視点とは何か。それは「煩悩即菩提」という考え方です。これを文学的な表現でいえば「苦しみを通して自己の凡夫というリアリテイが明らかになり、その凡夫のまま宇宙をつらぬいているいのちのシンフオニーに調和しているという実感に開かれる」ことです。そのためにどのような言葉が返せるかが問題です。ケチをつけるだけでは罪なので少し考えてみます。

ではわたくし西原のつたない回答です。

 信じてきた人に裏らぎられる。しかも最も信頼し頼りにしわたしそのものであった人から。今までの生活は何だったのか。信じていた人から裏切られたことからくる絶望。こころも肉体もお辛い様子が文字から伝わってきます。過去の事実は事実としてその思いを何度も何度も忘れようと努力されたことでしょう。
これはわたしの想像ですが、おそらく夫とその女性がどんな詫び方をしたとしても、その心の傷は癒されることはないでしょう。なぜならばその苦悩は生み出しているのは、相手との関係の中にあるのではなく、あなた自身の中に苦しみの原因があるからなのだと思います。その苦しみの原因を言葉にすれば、「信じていたのに」「よりによって」「くやしい」「私の前から消えて頂戴」といった怒りの言葉になることでしょう。その怒りがどこから来るのかといえば「不倫」という事実によって明らかになった言葉が強すぎるかもしれませんが、あなたの自分自身を絶対とする意識です。地下水のように流れているその意識があなたを苦しめているのだと思います。この苦しみの解決は事実を忘れるのではなく、むしろその怒りをもっともっと表現して今、自分の中に起こっていることの事実に向き合うことです。そして人間の弱さや自分の思いのままにならない人間の不完全さを向き合うことです。その自分の不完全さを認めることができたとき、初めて相手の不完全さを受け入れることができるのだと思います。
 いまあなたの中に起っていることは、あなたが考える以上に大きなことです。それは1つの出来事ではなくあなたの生涯をつらぬくほどの大なものです。この事実を忘れることではなく、その苦悩を通して大切なものに出会っていくことが重要だと思います。もしそんなことがあなたの上に起ったとしたら、それはあなただけの幸ではなく、あなた同様に苦しんでいる人にとっても大きな希望となるものなのだと思います。あせらずその時その時の思いや苦しみをメールででもお伝えください。最後にお気持ちを文字にするものお辛いことであったことでしょう。悩みを打ち明けて下さったことに感謝いたします。どうぞ御身ご自愛下さい。頓首

 なんだその程度かの内容です。こうした怒りを表現することは重要です。怒りにエネルギーを放出することです。たとえばエリザベス・キュブラー・ロスが考案したワークショップhttp://www.ldt-workshop.org/では、参加者がひとりひとりがみんなの前で怒りを爆発させて泣き叫び、その怒りをチュウホースなどで物をたたいて自己開示する。そして最後に参加者とハグして終わる。私はこれを体験していないので、継続性という意味で疑問がありますが、対処療法としては有効だと思います。自分の「あるがまま」を体験するワークなのですから。その体験がどのように成長に結びつくかは?です。成長なんかには関心がないという人には、いらぬお世話と感じることでしょう。
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おくりびと

2009年02月26日 | 浄土真宗とは?
おくりびとの映画賞受賞で葬儀も、新しい意味付けがされるといいのですが。
昨日の読売新聞に下記の投稿が載っていました。

「おくりびと」見て受け入れた父の死
主婦 原 裕美 42     (神奈川県葉山町)  
 第81回米アカデミー賞で滝田洋二郎監督の「おくりびと」が外国語映画賞を受賞した。      
 私がこの映画を見たのは、父の葬儀から一週間後のことだった。父の死を受け入れることのできなかった私は、次第にかたくなな心が揺らいでいくのを感じた。父の納棺の際、納棺師の方々は心を尽くして、父の「旅支度」をしてくれたのだと映画を見て、改めて実感したのだった。死者を悼み、死という悲しい事実を残された家族らにきちんと受け止めさせ今後を導いていく案内人が納棺師なのかも知れない。
「おくりびと」は誠実な人々によって粛々と作られたのだろう。そのことが見ている者に伝わる映画だっ
 た。老若を問わず、たくさんの人に見ていただきたいと思う。
 (21.3.24読売)

仏教の考え方は、私を中心とした縁起にたっています。上記の投稿者の上でいえば、ひとりの女性の上に起った父親と死別した悲しみを解決させるために、時間をさかのぼって「おくりびと」という映画をみんなで創り、映画を見せるという時間をつくるために周りの者が協力して彼女に映画を見せた。そうした大掛かりな企てによって彼女の上に「父の死を受け入れる」という心が発起した。これは空想ではなく事実です。

話の筋が変わりますが、新宗教はこの手を意識的に使っています。それがマインドコントロールです。各家庭にエホバの証人の勧誘が来ることがあります。あれは伝道しているのですが、本当のねらいは、新人と古参がペアーになって徘徊し、新人の上に教えを刷り込んでいくことが狙いです。そして運悪く教団に共鳴する人があると、人を教えに導いたという足かせが教団の決別心をそぎ落としていくのです。

いい意味では阿弥陀如来もこの手を使ったと親鸞聖人のご和讃にあります。
釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり

仏説観無量寿経の韋提希のドラマも私の上に無上の信心を起こすための仕掛けであったとこれまたご和讃や本典の総序にあります。
  


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hideの画・1000人のありがとう

2009年02月25日 | セレモニー
昨日は午後、築地で研修会・取材受・お経の講師でした。
研修会は三好良子師の指導によるクループ・ワーク、気づきのエクササイズ学習でした。以前から関係の本を集めたり、6年くらい前、東京仏教学院の授業で実験的に講義したり、こうしたエクササイズ形式の伝道布教に関心を持っているので、三好良子さんを知りえたのは収穫でした。さっそく国会図書館でリサーチ、論文を一本注文しました。「僧」で検索して、面白そうな人物や論文が多数ありました。これまた発注。

取材はスポーツ紙の文化欄。hideの一周忌の時に作成した1000人のありがとうの画と築地本願寺本堂に常設したあるヒデノートの取材でした。こうした取材を受けると思わぬ質問を受け、思わぬ発見があります。
hideノートは、X・japanのヒデの葬儀の翌日から本堂に置かれている書き込み自由のノートです。いろいろなことが書き込まれているので、若者の思いにふれることができます。昨日、半年ぶりくらいにノートを開いてみました。「久し振り」といった書き込みが多く目立ちました。
hideの画は、本願寺の一般参詣者ロビーを第一伝道会館2階ホールロビーに飾られています。hideの画は、一周忌の2週間前にふと、本願寺で法事をしてあげようと思い、画家に仏像の下絵を描いてもらい、その下絵に参拝者が色を重ねていき一幅の絵を仕上げるという算段でした。お願いした画家は大畑久子さんを代表とする4方、岩絵の具の日本画家でした。岩絵の具は、宝石や岩石をパウダーにしてニカワにまぜて色を作っていくという手法です。素人が色を重ねていくことは無理なので、hideノートに一番多く掲載されていた言葉「ありがとう」を下絵の余白に書いてもらい、そして後で岩絵の具で仕上げることにしたものです。それで「hideへ1000人のありがとう」の題となったものです。

取材の新聞社では、hideや尾崎豊などのお墓を取材して連載ものとしているそうです。掲載は命日の5月初旬、まだまだ先のことです。一幅のえの幅は180センチあります。
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現代の病理

2009年02月24日 | 現代の病理
最近、ここ一ヶ月くらい興味を持っているテーマは現代の病理です。国会図書館の検索(http://opac.ndl.go.jp/)で社会病理とか現代の病理などとキーワードを入れて検索すると、それに関する論文が表示されます。かねて登録したあるので、複写をその画面から申し込むと見開き24円で論文コピーが送られてきます。ここ6日間で25本くらいの論文が送られてきました。ほとんど読み捨てにするのですが、順次、コメントをしていきたいと思っています。

図書は千葉県立図書館が松戸にあるので、これもキーワードの検索で、引っかかったものをリザーブしてついでの時に取りに行きます。3日ほど前に借りてきたものは
「社会病理の基礎理論」「社会病理と臨床社会学」「仏教社会学研究」「科学者の説く仏教とその哲学」です。最後の「ー哲学」は、武蔵野大学が発行した「仏教最前線の課題」(田中教照編)で取り上げていたので検索しました。話は流れますがこの「ー最前線の課題」は興味深く読みました。仏教が現代から問われているという視点が社会に開かれたこれからの仏教には必要だと思います。
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