仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

アイデンティティにまつわる不安

2019年10月31日 | 現代の病理
朝のウオーキング、露出した手を、ポケットに入れたくなるような少し肌寒い千葉県柏市の気温でした。

『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・石濱 照子 著)の続きです。この項で終わりです。自殺を取り巻く社会病理について、いろいろと記述されています。

“第2章「生」中心の現代社会の仕組み”とあり、その中に「社会病理現象から診た現代社会」が記述されています。16頁にわたって記述されているので、『現代の社会病理現象が萌出した大きな要因は、「生」中心の現代社会とのひずみにあると捉え、現代社会が「生」中心社会として捉えることが可能である点について明らかにする。圭だ、「生」中心の現代社会によって、生きづらい人々が存在レ現代の社会病理現象を生み出しているのではないかという点について考察する。』とあり
、現代社会の病理の根底に『「生」中心社会』があるという。

私が興味を持った部分を少し紹介します。以下転載です。

日本では、出産の98%が婚姻内つまり法的婚姻関係のある女性からの出産であり、非嫡出子と呼ばれる出産は2%に過ぎない(高橋2006)ことから、非婚姻者が増加している日本の状況からは、ますます少子化が加速することが予想される。(以上)

興味深いと思ったのは、結婚して子どもを産むというモラルがしっかりしているので、出生率が低下していくという事です。そう言われればフランスに代表されるように、パートナーとの結びつきが、多種多様な国は、出生率が高まっています。「出生率を高めるためには、シングルマザーを増やそう」という事になります。シングルマザーでも、子育てできる環境は重要ですが、シングルマザーを増やそうとなると「?」ですよね。次は、布教活動に関わる記述です。以下転載

個人主義が強調された場合には、消費社会での獲得目標は、もはや物ではなくなって、自らをアクターとして自分らしく、個性的に振舞うことが期待され、あるいは求められるとも言える。そのため特に若者の間では、アイデンティティにまつわる不安を生み出しているとも考えられる。(以上)

「アイデンティティにまつわる不安」の解消は、お寺の仕事でもあります。反省。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自殺という言葉

2019年10月30日 | 生命倫理
早朝は霧の中のウオーキングでした。一昨日の続きです。

『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・石濱 照子 著)は、実践者の本でないので広く大にあるように「社会病理」的視点で視察を取り巻いている社会問題を書いているので、素人の私に興味を注ぐ内容が記されている本です。本の中から興味あるところを2.3点だけ紹介してみます。まず「自殺」という言葉についてです。以下転載。

自殺という言葉
 日本において「自殺(suicide)」という言葉は日常的に用いられているが、言葉から与えられる印象がその事象を規定することを考えると、言葉の使用から十分な配慮が必要である。「自殺(suicide)」の語源をたどると、ラテン語のsui (自らを)をcaedo (殺す)の合成語として「自殺」と翻訳されたとも推測できる(石原2003)。
 「自殺」は「自ら自分の生命を絶つこと。自害。」(広辞苑2011)とされ、行為として自らを殺すことを示している。しかし学問的には、「みずからを殺す行為であって、しかも死を求める意志が認められるもの」(大原1965;大原1970;大原1971)など死を求める意志が認められるという部分が追記される。それゆえ、「自己決定」の考え方と相まって、自らの「意志」で選択した死として受け取られるような風潮も出てきたのかもしれない。
 (中略)
 また最近では「自死」という言葉を選んで使用する傾向もある。例えば、島根県では、「公文書」の用語を「自殺」から「自死」に変更した。その経緯は、「自死遺族の会」から自殺の「殺」の文字の印象が犯罪者のイメージであるので「自殺」から「自死」に変更して欲しいという要望かおり、2012年「自殺総合対策連絡協議会」にて方針を決定したものである(島根県ホームページ2012)。
 しかし「自死」という言葉からは、より一層「自らの意志」の印象を受けやすいのではないかとも思われるが、「自殺」という文字より「自死」という文字の方が、漢字の印象が好まれるのかもしれない。
 今後、「追い込まれた死」として社会的あるいは社会構造的な仕組みについて問題提起をするとすれば、もっと慎重に言葉や文字の使用も考えるべきである(石済2011)。全国自死遺族総合支援センター事務局長の南部氏によれば、「『自死』という受け入れやすい表現にすれば、死へのハードルを下げかねない。だからといって犬切な人の死を語るときには「自死遺族」といった表現を尊重してほしい。」(南部2013)など、状況による使い分けが必要であると述べている。また、清水氏は「自殺」の表現は遺族の自責感を強めることや、「自殺」という表現には「いのちを粗末にした」という格下げされた死のレッテルという印象を否めない点について指摘している(清水2013)。
(以上)

私も社会問題としては「自殺」という言葉を使っていますが、ご家族の感情を忖度するときには「自死」という言葉を用いています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お坊さん便」―アマゾンから撤退

2019年10月29日 | セレモニー
昨日、送られてきた宗教業界新聞『中外日報』(2019.10.25日号)に『ネット通販「お坊さん便」―アマゾンから撤退―全日仏歡迎』という記事が掲載されていました。以下、同新聞からの転載です。

僧侶手配サービスを行う「よりそう」(旧みんれび、東京都品川区)は24日、ネット通販サイト・アマゾンヘの僧侶派遣サービス「お坊さん便」の出品を終了した。アマゾンに「商品」の取り扱いをやめるよう抗議していた全日本仏教会(全日仏)の主張が結果的に認められることになった。よりそうは2015年12月上旬からアマゾン、17年8月から「ヤフーショツピング」に「お坊さん便」を出品した。これに対して全日仏は15年12月24日付で理事長談話を発表。「宗教行為をサービスとして商品にしているものであり、およそ諸外国の宗教事情をみても、このようなことを許している国はない」などとし、16年3月に米国のアマゾン本社とアマゾンジャパンにサービスの販売中止を求める要望書を送付していた。
 アマゾンからは簡単な返信はあったべ全日仏は正式な回答とは受け止めていなかった。またよりそうに対して抗議はしていなかったが、今年9月から両者は正式な話し合いの場を持ち、よりそう側かアマゾンからの撤退の意向を伝えた。
 全日仏の戸松義晴事務総長は「アマゾンへの出品はお坊さんや供養が商品として扱われることの象徴だった。事業者であるよりそうが自主的に取り下げてくれたことを歓迎する」と話している。
よりそうの広報は「仏事そのものが商品として誤解されたことで、グリーフケアという仏事本来の価値が伝わらないと判断した。今後、お坊さん便は自社サイトや電話での案内に一本化する」とコメント。
 過去に類似した事例として、流通大手のイオンが2010年5月に葬儀業界に参入し、ホームページ(HP)上にお布施の料金体系を明示したため全日仏が反発。両者は協議を重ね、同年9月までにHP上から料金体系が削除された。
      (赤坂史人)
(以上)


『「お坊さん便」―アマゾンへ』は、大々的にマスコミに扱われたが、撤退がどうマスコミで扱われるか興味のあるところです。もし、お坊さん便がアマゾンへの商品朗録の折りに、「宗教行為は商品か」といった内容に踏み込んでいれば、「お坊さん便」撤退も記事になります。ただ「お坊さん便」アマゾンへと言った興味本位の掲載であれば、撤退は記事にならないでしょう。どうなるか。興味深いところです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビフレンダーズ憲章

2019年10月28日 | 生命倫理
『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・石濱 照子 著) は、2013年度. 博士学位論文. 現代の社会病理現象としての自殺に関する人間科学的 研究. ―「追い込まれた死」の視点からの考察―. (東洋英和女学院大学大学院)を基本にして出版した本です。この本で知ったことですが、国際ビフレンダーズ憲章には、生きること死ぬことの自己決定の尊重が謳われているという。

ビフレンダーズとは、電話をとる人をビフレンダーと呼び、 befriendは「友達になる」「見方になる」「助ける」などの意味があり、専門家ではない「友達」としてある一定の期間、寄り添うという考え方にそった人という意味のようです。

国際ビフレンダーズの目的は、自殺率減少のためのボランティア活動を推進することで、憲章には「たとえそれが究極的に(そして残念なことだが)自分の命を終らせる選択を意味しても、問題解決の方法はコーラー(相談者)自身が決定するというコーラーの権利に言及するものである。」とあります。

相談者は、“「生きる死ぬを決めるのは本人」というスタンスで、「死なないで」とは言わないのが基本です”とあります。

以前、築地本願寺かどこかで開催された研修会で、「自殺防止センター」の西原由記子さんの講演を聴いたことがあります。同じ西原なので印象深く拝聴したことです。 “震える声で「あなたの決定を、ご尊重申し上げます」と伝えたら、女性の声の調子ががらっと変わり「わかってくださいますか。ありがとう」と言われたという”というエピソードを聞いたことがあります。誠に厳しい仕事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴走する能力主義②

2019年10月27日 | 現代の病理
『暴走する能力主義』 (ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著)の続きです。これが最後です。

本書のタイトルである“暴走する能力主義”とは、“これからの時代に必要な「新しい能力」といった、議論のパターンこそが現代社会の一つの特性であり、新しい時代にコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった「新しい能力」といわれるもは、陳腐な能力であって、新しい時代になってからはじめて必要ないし重要になってきた能力などでは決してない、”という。「能力主義」といって、その能力を、論義のテーブルに載せて、アレコレ言う事自体に問題があるという論旨です。

“「能力主義」といった、そのような抽象的能力は存在しないし、その多寡を測ることもできない”という。

“そもそも「個人の属性」としての「能力」などは存在しない。なぜなら、能力というものは実際に成果を上げることによってしか存在を証明できないが、成果が上がるかどうかは個人を超えた文脈によるからである。「非認知能力」と言われる「根気強さ、注意深さ、自信」等は個人の属性とは言えない。誰でも、好きな事なら根気強く続けられ、調子がいいときは注意深いし、得意な事なら自信をもっている。”

結論としては、

いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない 

地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される 

メリトクラシー(能力主義)は反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシーの再帰性) 

後期近代ではメリトクラシーの再帰性はこれまで以上に高まる 

現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシーの再帰性の高まりを示す現象である 

“メリトクラシーの再帰性”ということが、この本の核心のようです。「メリトクラシー」とは能力主義のことで、常に「新しい能力を求めなかればならない」という議論を人々が渇望しているだけで、「新しい能力を求めなかればならない」議論それ自体が能力主義の再帰性現象だという。能力についての社会現象を一つ一つ抑えながら、構築しているので読み応えはある本です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする