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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

遺体取り違え火葬

2025年04月13日 | 浄土真宗とは?
葬儀の日を間違えて、電話が掛かってきて、間違いに気付き血の気が引くという体験を数回したことがあります。
下記のニュースも、担当者は、真っ青になったことでしょう。

昨日(2025.4.12)に『読売新聞』夕刊からの転載です。
遺体取り違え火葬
愛知県警、遺族に謝罪

愛知県警溲尠洽赳署が男性2人の遺体を取り違えて葬儀会社に引き渡し、遺族に返還予定だったI人の遺体が誤って火葬されていたことが、県警への取材でわかった。同署は3月下旬に遺族に謝罪し、取り違えた原因を調査している。
 県警によると、火葬された男性の遺体は2月23日、同県清須市の川で見つかった。遺体は同署の保管庫に運び込まれ、事件性の有無などを調べた後、遺族に引き渡す予定だった。
 同署では同時期、別の場所で見つかった身寄りのない男性の遺体も保管。引き取り手のない遺体は、墓地埋葬法などに基づいて自治体が火葬・埋葬することになっており、同署はこの男性の遺体を葬儀会社に引き渡す予定だったが、川で見つかった男性と取り違えたという。身寄りのない男性の遺体が保管庫に残っていることに署員が気付き、ミスが判明した。
県警捜査I課の押川正幸一次長は「遺族にさらなる心痛を与えてしまい、心よりおわびする。署員の指導を徹底し、再発防止に万全を期す」と話している。
 遺体の保管を巡っては、埼玉県警吉川署でも3月、男女2人の遺体を取り違えて葬儀会社に引き渡すミスがあった。
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蝶々むすびの熨斗なし祝儀袋

2025年04月05日 | 浄土真宗とは?
蝶々むすびの祝儀袋で、熨斗無しを販売しているところを見つけました。祝儀袋で結びっきりの熨斗無しは、販売しているのですが、蝶々結びは見つけることが出来ませんでした。


ネットのウィキペディアによると、熨斗は次のようなものです。

正式には熨斗鮑(のしあわび)と呼ばれて乾燥させたアワビが用いられ、打鮑(うちあわび)という別名があった。
「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神社や神棚に供える供え物である神饌(しんせん)として用いられてきた。(以上)

縁起かつぎを嫌う真宗門徒として、熨斗のついていない祝儀袋を使いますが、最近、販売していないので、方々探しました。

祝儀袋を作製している、下記業者に直接聞くと、ありました。取りあえず50枚注文しました。


菅公工業株式会社 商品課 青木 謙
〒111-0042 東京都台東区寿1-5-10 1510ビル 8F
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言葉で認知する

2025年02月11日 | 浄土真宗とは?
本願寺出版刊「大乗」(2015.2月号)掲載の執筆原稿です。


冬の未明のウオーキング。ささやかな楽しみは、公園の水飲み場で、凍る寸前の水を飲むことです。凍る寸前の水が食道を通過するとき体感する体の温もりが「生きている」という思いを惹起させます。過般、体調不良から復帰しての久しぶりのウオーキングでした。公園で冷たい水を飲み「生きている」と思った時、言語とは意識そのものであるとのノーム・チェムスキーの言葉を思い出しました。
ノーム・チェムスキー(1928~)は、マサチューセッツ工科大学の学者で、20世紀最大の言語学者ともいわれています。1950年代にまったく新しい言語理論を提案して言語学の世界に革命を起こした人であり「認知科学」を誕生させ方です。そのチェムスキーは、言語とは「他の個体とのコミュニケーションのためだけならば、言語など発明する必要はない。危険を知らせるためならば鳥の鳴き声で十分であり、中間内の潤滑油としてならばサルの毛づくろいでに十分であって、そういう意味では言語など余分なものにすぎない。それがたまたまコミュニケーションに使われたにすぎない」といい、言語はコミュニケーションというよりは人間的思考の起源であり、認知システムであると語っています。
私は水を飲んで「生きている」という言葉で、生きていることを実感したのです。私たちは言葉によって、すべてを認識していくのです。
これは「南無阿弥陀仏」でも言えることです。私たちは「南無阿弥陀仏」という言葉で阿弥陀仏を実感していくのです。実感の内容は「そのまま救う」の如来の勅命です。
数年前のことです。がんの終末期にあるAさんをある緩和ケア病棟に訪ねたことがあります。一週間の間に二度お訪ねし、二度目はご往生の二日前でした。余命が告げられたAさんはベッドに横になったまま、私に「阿弥陀仏の四十八願とはどんな願いですか」と訊ねてこられました。その時、私は、短く阿弥陀さまのお話をしました。
「あるとき、お釈迦さまがお弟子に問われたそうです。〝今まで人々が流した涙と、大海の水とどちらが多いと思うかね〟日頃から話を聴いているお弟子は、〝はい、それは涙だと思います〟と答えたといいます。お釈迦さまは〝その通りだよ〟と仰せられたそうです。その大海のごとき苦しみと悲しみの涙のなかに終わって、すべてのいのちを、阿弥陀さまがご覧になったとき、その涙のなかに終わっていったいのちを、すべて救いたいと願われたのだそうです。そして阿弥陀さまは、人間の生き方や理想の達成を問題とすることなく、涙のなかに終わっていったいのちを、そのままに抱き取っていけるお慈悲の仏になることを願われたのだそうです。その阿弥陀さまは、今、私に称えられる南無阿弥陀仏の仏さまとなって、私のいのちの上に至り届いてくださっています。この仏さまは、あなたの生き方を問わない慈しみの仏さまです。阿弥陀さまが、ご一緒して下さっているのですよ」。私も一緒に阿弥陀仏のみ教えをお聞かせ頂くといった心持ちでした。
 いのちの終わり。人生の中で、最も弱く虚しくはかない状況下にあって、その命を救うという最も豊かな存在で出遇う。ひとえに阿弥陀の願いとはたらきのたまものです。
 「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまに出遇っていく。それは既に阿弥陀仏の摂取不捨のみ手の中にあることを「南無阿弥陀仏」と認識していくのです。それは「生きている」という言葉で生きていることを実感するように。「南無阿弥陀仏」と「そのまま救う」という阿弥陀仏の勅命を実感していくのです。阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」の言葉の仏さまとして私とご一緒下さっているのです。
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他力の哲学②

2025年02月03日 | 浄土真宗とは?
『他力の哲学: 赦し・ほどこし・往生』(2019/2/7・守中高明著)、本からの転載です。

重要なのはそれだけではない。もう一方の賭礼は、阿弥陀仏の屈する時間構造に関わっている。『無量寿経』における法蔵菩薩の四十八の誓願がすべて、「たとえ私か仏になることができたとしても、……ならば、私は正しい悟りを得た仏にはなるまい〔「設我得仏………不取正覚」ごという構造をしていることについては、すでに注意を喚起しておいた。そして、法蔵菩薩が長い修行の末に仏となり「今現に世にましまして」いること、すなわちその誓願が実現されており、そこにこそ念仏者の往生が「決定」している根拠を善導=法然が見て取ったことをも、私たちは確認しておいた。だが、ここで今一度、この誓願を言語行為として見直してみよう。「たとえ私か仏になることができたとしても、……ならば、私は正しい悟りを得た仏にはなるまい」という一方の発話と、もう一方の、ところで「かの仏、今現に世にましまして仏に成りたまえり」という発話とを接合するとき、この法蔵菩薩の一レ連の誓願がすべて「私はー仏になったーということになるだろう」という未来完での時間構造を形成していることに私たちは気づく。
 私だちか「帰依」を遂行する「無限者」たる阿弥陀仏の「正覚」自体がそのような構造をしてしるのだとすれば、その「名」を称えるとき私たちもまた、ある根源的な時間の変容を引き受けることになる。阿弥陀仏という「無限力」を「無限」たらしめている「正覚」が、実のところ、一連の未来完了、それも誓願が立てられた時点ではいまだ閉じざれ未来完了の構造をしてしるのであってみれば、私たちがその「名」を呼ぶとき、私たち自身もまた、けっして閉じることのない未来完了の時を生きることになる。それこそが、「南無阿弥陀仏」という一句が聞く「無限」なのだ。そのような「無限」を生きるとき、有限者たる私たちは……。
 いや、私たちは事をいささか急ぎすぎている。ここではこの問題をいったん宙に吊ったままにしておこう。

法蔵菩薩は久遠の過去に、衆生が十念しても浄土に生まれることが出来なければ自分は仏に成らない、と誓った。しかるに、その法蔵菩薩は修行の末にすでに十劫の昔に「正覚」を得て「今現に」仏となっており、「本誓の重願」はすでに実現している。それゆえに衆生が称名念仏すれば往生することもまた確かなことである-法然による衆生済度の理路はこのように定式化される。
 この論理は、いっけん単純に見える。しかし、ここには称名念仏を実践する行為者を必然的にある時間錯誤に導き入れる構造がある。衆生による称名念仏は、その端緒においてば法蔵菩薩の成仏の条件であった。すなわち、その名を称えるか衆生が「我が国=浄土」に生まれることが出来なければ、法蔵菩薩は仏となることはなかった。他方、法蔵菩薩は現に成仏している。ということは、かつてその名を称えることによって衆生が往生することができたということを意味する。しかし、実のところその原初の衆生往生は、それ自体として目の前で起きたことや生きられた経験として経典の説話の内部ですら証言さされ語られているいるわけではない。それは、一方いのいて、すでに成仏した法蔵菩薩の側から事後的に確認されているだけであり、他方において、いまだ成仏以前の法蔵菩薩の誓願の中こそそれが起きるであろうことか約束されているだけである。すなわり衆生の往生は、「すでに」と「いまだ」のあいだにあって、ただ事後性の未来完了という時間性によって指し示されるだけなのだ。つまりは、今という時間、現前性の場には属さない純粋な出来事―そにれこそが往生なのである。
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他力の哲学①

2025年02月02日 | 浄土真宗とは?
『他力の哲学: 赦し・ほどこし・往生』(2019/2/7・守中高明著)、著者は早稲田大学の哲学の教授であり、浄土宗寺院の住職です。本からの転載です。

阿弥陀仏の大慈悲の力、その罪を滅する力、赦す力がはたらきかけるのは、そのような人間存在における善悪という道徳性の総体に対してである。法然-親鸞はまず、称名念仏は「五十億劫の生死の罪を除く」と説くことで同時代の衆生を縛っていた支配的観念形態とそのオプセッションから人々を解放し、ついで「十悪の罪人」「五逆の罪人」という現実の大罪を犯した者にも「罪滅して」往生できることを約束し、さらに「唯除規定」によって例外化された「正法を誹謗する者」すらも「抑止門」という解釈を加えることでこれを救いの対象とする。「念仏の力」は、まさに罪を「一切遍く治す」のである。だがそれは、「念仏の力」が人間的善を志向するからではまったくない。親鸞が鋭く分析するように、人間存在において現れる善は、悪と同様に、つねに「業縁」によって、すなわちつねに社会的関係性によって規定されて生じる不可避の状態であり、したがってそれは、社会的関係性が変化すれば、あるいは社会的関係性を別の視座から検証したときには、容易に悪へと反転し得る。ある人間がその意識において善だと信じていたとしても、その「善」が現実的には「悪」でしかないという事態はしばしば起こりあるのである。事実、親鸞はその上えない意識ないし主観における「善」人を指して、「後世者ぶり」とよび、、そのようた人は賢善精進の相を外にしめ」しているだけで、心のうちには「虚仮〔=うそ・いつわり〕をいだい」ているだろうと批判する。
親鷺の眼には、人間の道徳に言う「善」は「悪」に対して優越的な価値を持つものではなく、「業縁」の関数であるかぎりのおいては等価だと映っているのだ。それゆえに、「善」を根拠として「悪」を除き、克服するという論理は意味をなさない。そして、そこにこそつ本願を頼む衆生の必然性があるのだ。
 されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。
阿弥陀仏の「本願」は、罪を滅ずるだけではたい。そうではなくそれは、「業報」しだいでどちらにも変質し得る人間の善悪という道徳的価値の二項性そのものを括弧に入れ、その彼方において衆生を摂取し、迎え入れる。「本願」の「他力」を頼むこととは、そのような善悪の彼岸へと導かれたいと切に願う凡人の受動的な意志にほかたらない。
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