仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

綿と鉄の物語

2011年07月31日 | 日記
昨日のコウモリの例話を読みながら、脳裏をよぎった物語があります。物語というよりも、コウモリを秤のメモリーにたとえたら、どんな物語に成り行きに成るかというものです。秤のメモリーとは、正しさの権仮です。

それはこんな物語です。身体の大きな綿(わた)と、身体の小さな鉄がケンカしていた。綿さんが、「ぼくは君の何十倍もあるので、ぼくの方が重いと思う」、鉄は「ぼくの方が小さいけど重いよ」。秤に乗ってケンカしえいると、秤のメモリーさんは、鉄の方へすり寄って来た。鉄の勝ちとなりました。それから数日後、ケンカに負けてしまった綿さんは、もっと身体を大きくして現れ、また鉄さんにケンカを挑んできた。秤に乗ると、メモリーさんは、今度は綿さんの方へすり寄ってきた。綿と鉄は、いつも勝ち組にすり寄ってくるメモリーを憎らしく思う。

そのうち綿さんと鉄さんが仲直りして、メモリーさんに言いました。「メモリーさん。君はずるい。いつも勝つ方へばかりすり寄ってくる。そんな君とは絶交だ」

しばらくしてまた綿さんと鉄さんはケンカになる。ところがすり寄ってくるメモリーがいないので、いつまでも勝敗はつかず、お互いに負けを自覚することなく息絶えて逝った。(以上)

自分でも、どんな結末に成るかなーと思って書いていましたが、意外と単純に終わりました。上記のことを書いて見て、昨日のコウモリの話しを振り返ると、最初に「フタゴコロヲモッテハナラン」という結論があって物語が出来上がったということです。

物語の主人公は「フタゴコロヲモッテハナラン」という理念です。私の秤物語の主人公はメモリーさんです。

コウモリの話しを読んで、秤の物語を思ったとき、全然、結論らしきものは見えませんでしたが、思いのどこかに「フタゴコロヲモッテハナラン」という理念を相対化したいと思いがあったのかもしれません。

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コウモリの話し

2011年07月30日 | 日記
産経新聞に「消えた偉人・物語」という明治、大正時代の学校教科書に載っていた物語を紹介するコーナーがあります。今日(23.7.30)は、“「フタゴコロヲモツナ」 明快なたとえ話で説く”で、「昔の教科書には、まことに単純明快な教訓、訓戒を内容とする話が載っていた。どんな子供にも「それはそうだ。うん、うん」と頷(うなず)かれる分かりやすい話である。」とコメントが入って、 明治37年、文部省発行の『小学読本五』(現3年上巻)の「カウモリ(蝙蝠(こうもり))」の話しが紹介(執筆・植草学園大学教授 野口芳宏)されていました。(以下転載)

 (前略)ムカシ、鳥ノナカマト、ケモノノナカマトガオホゲンカヲシタコトガアリマシタ。
 ソノトキ、カウモリハ「ジブンハ、鳥デモケモノデモナイカラ、ドチラニモツカン」トイッテヰマシタ。
トコロガ、ハジメニハ、ケモノガカチサウニナリマシタ。スルト、カウモリハ「ジブンハ、カラダガネズミニニテヰルカラ、ケモノノナカマダ」トイッテ、ケモノノ方ニツキマシタ。
 ソノウチニ、鳥ガカチサウニナリマシタ。スルト、カウモリハ、マタ、「ジブンハ、羽ガアルカラ、鳥ノナカマダ」トイッテ、鳥ノ方ニツキマシタ。
 トコロガ、マモナク、鳥ノナカマモ、ケモノノナカマモツカレテシマッテ、ナカナホリヲシマシタ。ソシテカウモリヲニクンデ、ナカマハヅレニシマシタ。ソレデ、カウモリハ、コノトキカラ、晝(ひる)ハトビマハルコトガデキンヨーニナリマシタ。
 コノ話ハ「フタゴコロヲモッテハナラン」トイフコトヲヲシヘタツクリバナシデス。(以上)

面白いと思ったのは、1つの生物の自然現象から、物語を作って行く愉快さです。両生類のカエルでも、足のない蛇でも、生態的特徴を題材にして物語ができます。

それとこの記述のメインは、「フタゴコロヲモッテハナラン」ということですが、まったく逆に「一つのことに固執してはならない」ということで、コウモリを正当化することもできます。


イソップ童話(http://hukumusume.com/douwa/pc/aesop/11/14.htm転載)に次のような物語があります。

コウモリが地面に落ちて、イタチに捕まってしまいました。
 殺されるに決まっていると思ったコウモリは、
「どうか、命だけは助けて下さい」
と、頼みました。
 イタチは、
「駄目だね。あんたを放すわけにはいかないよ。なぜって、わたしは生まれつき、鳥は全部敵だと思っているからね」
「おや、よく見て下さい。わたしは鳥ではありません。ネズミですよ」
 コウモリは翼をたたむと、ネズミによく似ています。
 こうしてコウモリは、うまく命拾いしました。
 しばらくして、このコウモリはまた地面に落ちて、別のイタチに捕まってしまいました。
「お願いです。わたしを食い殺さないで下さい」
「嫌だよ。わたしはネズミというネズミが、全部嫌いだから」
 コウモリは、翼を広げると、
「おや、わたしはネズミなんかではありませんよ。ご覧の通り、鳥ですよ」
 コウモリは、今度もまた、放してもらいました。
 こうしてコウモリは、名前を変える事で二度も命拾いしたのです。(以上)

ということは、こうした物語を読む場合、大切に視点は、「このことを正当化しようとしている」という物語を作った人の真意や、語ろうとしている内容は精神性かテクニックかという物語の深さを読んでいくことでしょう。
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午前4時は、まだ闇の中にあった

2011年07月29日 | 日記
雨模様もあって日の出は遅くなったと感じた。4時すぎはまだ闇が、緑を包んでいると言った観があった。そんな闇の残る時間にラジオを聴きながら外へ出ました。ラジオから流れている深夜便「明日へのことば」(23.7.29)は、俳優 岸谷五朗さんの声でした。

若い時から、安住を貪ることなくチャレンジしてきた半生、現状に満足せずに喉の渇きを求めるように歩んでいると爽快に語っておられました。

芝居は、そのときスタッフ、観客など、その一幕はただ一度しか体験することができない最も贅沢なもの(意趣)だとも言っていました。

ラジオを聴きながら“説教もそうあらなばならない”と思いました。雨模様なので、早めの帰宅。

今日は夜、東京仏教学院での講義、「浄土真宗ので文書伝道」で24ページのレジメをいま印刷中です。
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喜びの表現

2011年07月28日 | 日記
朝のワイドショー(23.7.28)に引退した魁皇関が出演していました。慎み深い性格が、相撲の謙虚さを貴ぶ文化と相まって、すがすがしい印象を与えていました。

最近の話題のニュースで、喜怒哀楽が写される映像が多く見受けられます。なでひこジャパンのワールドカップ優勝など、喜びを爆発的に率直に表現した姿が、眩しきもありました。

喜びを率直に表現する。これが現代日本の文化の傾向ですが、まだまだ相撲に見る抑制の美徳も理解されています。感情の表現が悲しみや怒りとなると、まだまだ感情を抑制することが自然のようです。でも中国での高速鉄道事故で死亡した遺族たちの怒りの行動が映像で映し出されましたが、その怒りの表現に違和感をもたなくなっているのは、私だけではないでしょう。


どちらが良いかではなく、喜怒哀楽をどう表現するか、表現しないかといった中に、現代日本文化の形を見ます。同時に、喜怒哀楽を直接表現しないという行為は、単に個人主義化や表現の問題だけではなく、感情におぼれないと言った日本的というか仏教的というか、ある種の人生観に裏打ちされた行動のようにも思われます。これは少しクエッションで、頭の片隅に置いておきます。
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『大乗』に法話が載っています

2011年07月27日 | 日記
宗派(本願寺)から、月刊誌『大乗』(8月号)が送られてきました。法話“みほととけとともに”に、8月号.9月号と執筆を依頼され、私が書いたその法話が掲載されていました。

その『大乗』に、大阪大学名誉教授の大村英昭さんと相愛大学教授の釋徹宗さんの対談が数回前から掲載されています。大村英昭さんと言えば、欲望を煽る文化を“煽りの文化”、欲望を制御する文化を“鎮めの文化”と名付けて発表されている先生です。

その『大乗』に、次のような言葉がありました。(以下転載)

大村 永六輔さんが、臓器移植に反対する時、わかりやすくこんな風におっしやいましたよ。「文明」は科学技術であって、可能なことはなんでもする。それを進歩という。対して「文化」はできるけれどもしてはならない、とブレーキをかけるものだ、と。(以上)

確かに文化は欲望にブレーキをかける機能をもっていますが、ブレーキというよりも、もう少し積極的に制御を美学まで昇華させる機能があるように思われます。相撲の横綱に見られる自分を律するというブレーキの機能は「抑制の美学」だとも言われます。またもったいないという言葉も、単に粗末にしないということに止まらず、物を貴ぶという精神性の領域まで達しています。

ブレーキとアクセル。煽りの文化と鎮めの文化という平面的な捉え方でなく、“転ずる”という立体的な捉え方が文化を分類する場合にはあるように思われます。

苦しみも、苦しみを単に否定するだけではなく、苦しみの体験の中で、自分が質的転換を遂げていく。煽りの文化、鎮めの文化、もう1つの文化の分類です。

送られてきた『大乗』を読みながら思ったことです。




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