仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

移動式仏壇だって

2015年01月31日 | セレモニー
早朝ウオーキング、早朝といっても日の出が6時30分なので、暗い内に出て、暗い内に帰るといった毎日です。

周りが暗い方が、ウオーキング中のお称名は、盛んです。周りが明るいと、意識が景色に流れてしまうからでしょう。今日も、寒くて床から出にくかったですが、ウオーキング。歩きながら、形態のネットで見たニュースを思い出し、お称名。

そのニュースは“「現代仏壇」の進化がスゴい!移動式タイプ。キャスターが着いており、コロコロと転がして部屋の中を移動することができる。”という、仏壇の新商品のニュースです。

南無阿弥陀仏の念仏は、コンパクトでどこでも、どのような状況でも口にできます。仏壇も移動式で念仏に近づいてきた。と意味のない自己満足の中で、念仏を称えつづけていました。
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資本主義の終焉

2015年01月30日 | 日記
昨今、資本主義の終焉ということが話題になっています。世界は新しい秩序を模索している時代なのだと思われます。テロに代表される武力的な暴力は目立ちますが、その背景に、不平等や貧困、差別といった構造的暴力の現実があります。

ヨルダンの人質問題で、パイロットの解放を求める親族の映像が、たびたび放映されています。民族の関係性の深さが印象的です。

午前6時過ぎから、雨が雪に変わり、午前7時、うっすらと雪景色になりつつあります。
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殺人願望

2015年01月29日 | 現代の病理
名古屋大女子の「殺人願望」の記事です。

「名古屋市昭和区のアパートで女性(77)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された名古屋大1年の女子学生(19)が、愛知県警の調べに対し、「小学生のころから人を殺してみたかった」と話していることがわかった。」

昨2014年7月26日、長崎県佐世保市で発生した猟奇殺人事件女子高生の殺人願望。「猫の殺害解剖、実父金属バット殺人未遂」、この殺人願望は、どこに原因があるのか。1つの仮説を立ててみます。

以前、よく統合失調症を患っている青年から電話がありました。「人を“殺すぞ”と思ってしまい、本当に人を殺してしまわないか不安だ」という。私は何時ものことなので「わかりました。その時は、人をヤル前に、まずペットショップへ行って、ウサギを買ってブスッとさしてから、やりなさい」という。ウサギは実行可能なので、その途端、殺という行為が現実味を帯び、自分にはそんなことはできないという実感があるので「ははは…」と笑いが漏れてきます。それで1件落着です。

しかし先の女性たちには、これは通じないとおもわれます。普通の人は、人を実際に危めようと思うと、殺に伴う実感が拒否させるからです。ところが殺人願望を抱いて実際に行動してしまう人は、この実感が想起されないのです。

これは原因が分かりませんが、行動思考のバーチャル化、つまり思考と感情(実感)が分離してしまっていて、ある種の麻痺がおこっているのではないか。

私たちの行動の基軸は、善悪であったり快不快であったりします。この行動基軸がバーチャルに移行しているということです。
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自由という欲望②

2015年01月28日 | 日記
宗教業界新聞『中外日報』(2015.1.23日号)に、映画監督の森達也さんが、言論の自由について書いていました。

フランスで起きたテロとそのごの「シャルリ・エブド」誌のムハンマドへの揶揄報道についてです。“表現の自由はそもそもが、これを規制したり弾圧したりする国家(や政治システム)に対して行使される概念だ。その表現によって傷つく人があるなら、決して無制限に許される概念ではない”(以上)

価値観がほぼ同一な日本では、自由は社会的なコンセンサスという状況ですが、多種多様な民族が暮らす西洋諸国では、国家の権力は強く、自由も国が規制するという意識が強いのであろう。
「何でもできる自由」と「その自由を規制する権力」、そのせめぎあいの文化が西洋にはあるのでしょう。その中で「何でもできる自由」という権利そのものが価値を持ってしまい今回のような騒動が起きてしまったのでしょう。

上記のこととは少し論点が違いますが、自由には「何でもできる」という自由と、イスラム教などに見られる神への絶対的な服従によって手に入る、何でも思い通りにしようとする自分からの自由があるように思われます。「神への絶対的な服従」は、国家権力や人為的観力にすり替わる時があるので危険ですが、「自分からの自由」は仏教の説くところでもあります。

どちらにしろ、「自由」とは魅力的なものなので、自由という欲望に振りまわされないことが重要です。
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江戸御坊開基400年

2015年01月27日 | 都市開教
来年(2016)は、築地本願寺は江戸時代の1617年に、西本願寺の別院(「江戸浅草御坊」)として浅草近くの横山町に建立されて400年となります。何かのイベントがあるかは定かではありません。


「江戸浅草御坊」と呼ばれていた別院が、その40年後の明暦の大火で焼失します。江戸八百八町が消失し、当時の江戸人口35万人の内、10万人が死んだといわれています。

江戸八百八町とは、江戸には八百八町あったというのではなく、町の数が多いということです。八百屋、嘘八百、八百長、八百万の神など、数の多いことを八百で示します。

八百で数の多いことをします記述は漢訳教典ではなく、『日本書紀』に3度記述があります。「是歲、令諸國多開池溝、數八百之、以農爲事、因是、百姓富寛天下大平也」等。

八百で数の多いことを示すのは、すべての方向を示す時に「八方」といいますが、ここから来たように思われます。『往生要集』に「人間の八百歳をもつて化楽天の一日夜となして、その寿八千歳なり。かの天の寿をもつてこの獄の一日夜となして」などと、使われていますが、八を万数とする考え方は、仏教にもあるようです。
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