仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

鎌倉での一切経校合

2024年04月21日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

鎌倉での一切経校合に参加する

 関東時代の親鸞の行実としては、鎌介での一切経校合もしばしば注目される。

 覚如撰述の『囗伝鈔』によると、北条時氏が鎌倉で政治を執っていた頃、北条氏が願主となって一切経(大賊経)の書写が行われた。このときテキストの校合のために学僧を招請することになったが、そこで親鸞が尋ね出されて推挙され、親鸞は招請に応じて一切経の校合を行ったのだという。

 『親鸞正明伝』には、親鸞は六十余歳のとき相模国江津(神奈川県小川原市出府津)にしばらく滞在したが、ちょうどこのとき北条泰時(時氏の父)が鎌介で一切経書写の校合慶讚の怯要を催していて、優れた利者ということで親鸞はその法要に招かれ、校合の責任者(京匠)になった、と書かれている。

 『親鸞伝絵』をみると、本願寺系の諸本には、この話はまったくみえないのだが、仏光寺本だけには、ごく簡潔ながら、北条泰時が主催した一切経校合に親鸞が参加したことが触れられている。

 こうしたことからすれば、正確な時期を協定することは難しいが、親鸞が一時鎌倉に入って一切経書写事業に従事したというのは、伝説ではなく、史実である蓋然性が高い。

 ただし、校合というのは要するに誤字・脱字のチェックであり、もちろん重要な仕事ではあるが、とくに学僧・高僧が拱わなければならないような性格のものではない。

一切経は五千余巻に及ぶ。親鸞は、鎌介幕府に招かれたのではなく、煩瑣な作業のために駆り出されたその他大勢の僧侶のひとりだった、というのが実状に近いのではないだろうか。

 なお、この一切経校合については、『吾妻鏡』の記述をもとに、嘉禎三年(1237)の北条政子十三回忌にあたって追善のために行われた鎌倉大慈寺での一切経供養に関連付ける説と、嘉禎三年に鎌倉明王院五大堂で将軍九条頼経(よりつね)、北条泰時がらが参列のもと行われた一切経供養に関連付ける説の、二つがみられる。大慈寺は現存しないが、その場所は鎌倉市十二所に現存する明王堂に隣接していたらしいので、ひょっとしたら一切経校合は両方の一切経供養に関係していたのかもしれない。書写・校合が終了して供養に至るまでに、二、三年の歳月は掛かったとみるべきだろう。

 JR横須賀線の大船駅と北鎌倉駅の中問付近の線路沿いに、親鸞の一切経校合とのゆかりを伝える成福寺が建っている。寺伝によると、泰時の末男泰次は、泰時が発願した一切経校合のために鎌倉に迎えられた親鸞と出会うと、その教えに感銘を受けて帰依。成仏という法名と聖徳太子の尊像を与えられると、この地に一宇を建立した。これが成福寺のはじまりだという。鎌倉で唯一の浄土真宗寺院である。(おわり)

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坊守のモデルとされた玉日姫

2024年04月20日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

坊守のモデルとされた玉日姫

 

 親鸞と玉日姫の結婚については、あくまで伝説とみて、そもそも玉日姫の実在を疑う研究者も多い。たしかに、法然が親燃の六角堂夢告のことをあらかじめ知っていたというくだりなどは、できすぎた話であるように思える。また、下級貴族出身の遁世僧と摂関家の娘では身分が違いすぎて結婚することなどありえない、という見方もある。江戸時代には、玉日姫の法名が恵信尼だとされて、両者が同一人物と考えられたこともあった。

 だが、親鸞と玉日姫の結婚譚は、関東門徒系の親鴬伝である『親鸞因縁』にも、『親鸞正明伝』とほぼ同じような内容をもって書かれている。

 しかし結局、『親鸞正明伝』が語る親鸞とに玉姫の結婚譚がなによりも興味深いのは、親鸞がなぜ妻帯に踏み切ったのかという大きな謎について、明快な回答を提供していることである。それは、師法然の意向を受けて凡夫往生・在家修行の道を身をもって示すためであったというのだ。言い換えれば、親鸞は、破戒・無戒であっても往生できることの範を示すべく、一生不犯を貫いた法然に代わって、その実践に及んだわけである。

 

恵信尼と玉日姫の本当の関係とは

 

 ただし、もし親鸞と玉日姫の結婚が事実だったとすると、今度は、「親鸞はどういうタイミングで恵信尼と一緒になったのか」という疑問が生じる。

 『親鴛正明伝』は、結婚後の親鸞と玉日姫について、五条西洞院の屋敷で新婚生活を送り、翌年に息子の範意(印信)が生まれたことを記すぐらいで、その後どういう展開をたどったかは記していない。ただし、越後流罪が解けたのちに親鸞が一時帰京したとき、玉日姫の墓を詣でたと書かれていて、流罪中に玉日姫が京で亡くなっていたという暗示されてはいる。

 とはいえ、恵信尼ついては、『親鸞正明伝』も『親鸞因縁』も、『親鸞伝絵』と同じように、まったく触れていない。

 親鸞は玉日姫と死別し、その後に恵信尼と知り合って再婚したのか。このあたりのことは想像するはかないのだが、『親鸞正明伝』の研究者である佐々木正氏は、著書『親鸞・封印された三つの真実』の中で、次のような推理を行っている。

 恵信尼はもともとは、玉日姫の姉で、後鳥羽天皇の中宮であった任子(宜秋門院)に仕えていた侍女であった。だが、父兼実が関白の座を追われて失脚すると、男子に恵まれなかった任子は内裏を退出し、やがて出家。これに伴って失業した恵信尼は親鷺と一緒になっていた玉日姫にリクルートされ、侍女として仕えることになった。

親鸞が越後流罪となると、出自の高い玉日姫は京に残り、恵信尼が親鸞の世話役として越後に随行した。ところが、流罪中に玉日姫が亡くなってしまったため、親鸞は恵信尼と再婚することになった。

 ひとつの仮説ではあるが、恵信尼を京都出身とする説が有力であることや、彼女の「筑前」という異名を侍女としての女房名とする説があることなども考慮すれば、説得力をもつ推理ではないだろうか。

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玉日姫との結婚譚

2024年04月19日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

『親鸞正明伝』が記す九条兼実の娘玉日姫との結婚譚

 現代では親鸞の妻というと忠信尼のイメージが根強いだろうが、「親鸞は恵信尼と一緒になる前に別の女性と結婚していた」とする伝承も真宗教団では古くからみられた。その女性というのが、第1章でも言及した、関白九条兼実の娘とされる玉日姫だ。親鸞と玉日姫の結婚について詳述するのはり「親鸞正明伝」である。親鸞は法然の門下に入っておよそ半年後の建仁元年(1201)十月、すなわち二十九歳のとき、法然の指示によって玉日姫と結婚したのだという。同書のそのくだりを、要約して記してみよう。

 〈建仁元年十月上旬、九条兼実が法然の吉水の禅房を訪ね、仏法談義をかわした。そのとき、兼実が「出家の念仏と、私のような在家の念仏とでは、その功徳に違いがあるのでしょうか」と訊ねると、法然はこう答えた。

 「持戒と無戒の念仏は全く同じで、功徳に優劣はありません。女犯や肉食を戒めて念仏をすれば功徳があるというのは自力を旨とする聖道門の教えです。他力の浄土門では持戒も無戒も関係なく、出家と在家の違いもありません」

すると兼実が言った。

 「持戒でも無戒でも念仏の功徳に差がないというのであれば、あなたの弟子の中から一人、不犯の清僧を選び、破戒させて私の娘と結婚させてください。そしてそれを、末世の在家の男女であっても見事に往生できるという模範にしてくださらないでしょうか」

 「なるほど、その通りです」と答えた法然は、「綽空(親鸞)よ、あなたは今日から兼実公の仰せに従いなさい」と命じ、親鸞を兼実の娘玉日姫と結婚させようとした。親鸞は出家の戒律を犯すことになるので涙を流して拒んだが、法然は「あなたは今年の初夏(四月)、

(六角堂で)救世観行から尊い夢告を受けていたはずです。今さら隠すことはないでしょう」と言い、親鸞に改めて遁世した理由を訊ねた〉

 このあとは兼実と法然、門弟たちを前にした親鸞の告白が続き、かつて慈円の弟子として比叡山にいたとき、慈円が朝廷の求めに応じて優れた恋の和歌を詠んだことがきっかけで「一生不犯のはずの高憎が男女の恋のあやを知っているのはおかしい」という風評がたち、そのスキャンダルに親鸞もまきこまれ……という詰が語られるのだが、長くなってしまうのでここでは省かせていただく。ともかく、この騒動によって親鸞はすっかり比叡山がうとましくなり、六角堂参詣を思い立ち、やがて思いがけず法然のことを知るに至ったのだという。

 遁世の経緯を語り終えた親鸞は、六角堂夢告で救世観世本によって示された女犯偈のこともみなに打ち明ける。女犯偈とは、第1章で紹介したように、「行者宿報設女 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」の四句からなるもので、女犯・妻帯を往生の道として許容している。

 親鸞は、尊敬する師の指名とあれば反対することもできず、また兄弟子たちの勧めもあったので、ついに当時十八歳の玉姫との結婚を決意する。

『親鸞正明伝』はこの親鸞と玉日姫の結婚譚について、「兼実公は凡夫往生の正信を広く伝えたいと思って、愛娘を貧しい黒衣の妻にし、法然上人は阿弥陀仏の教えが優れていることを明らかにするために、愛弟子を在家修行者の先達とした」と総括している。ちなみに、この結婚があったという建仁元年の時点で兼実は五十三歳であり、関白を退任して政界を引退してから五年が経過していた。

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有範の中陰の供養

2024年04月17日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

 日野範綱は親鸞の父有範の兄、つまり親鸞の伯父であった。後白河法皇の近臣であったので、平清盛が後白河を制して覇権を握っていた時期は苫渋をなめたとみられるが、治承五年閏二月、つまりちょうど親鸞が出家した「春」(旧暦で1~3月)に含まれる時期に清盛が没し、後白河の院政が再開されている。この時期の範綱の眼前には久々に光がさしていたのではないだろうか。

 その範綱が親鸞の養父となっていたのはなぜか。かつては、「親鸞の実父有範が早世したため、範綱が父親代わりとなっていたのだ」と考えられていて、『親鸞正明伝』は有範だけでなく親鸞の母親も早世したと記している。

 しかし、近年ではこの見方は支持されていない。昭和戦後に、親鸞の弟で、僧侶になっていた兼有が有範の中陰の供養を行ったことを証する文書が西本願寺で見つかり、兼有が僧侶としてそれなりのキャリアを積む年齢になるまで有範が存命していたことが確実となったからだ。兼有の生年は不詳だが、親鸞九歳時はまだ幼年であったはずであり、だとすれば、少なくともこの時点では有範が亡くなっていたはずはない。

 にもかかわらず、なぜ範綱が親鸞の養父となり、出家の付き添いを務めたのか。

「少しでも官位の高い人物に引率されたほうが、僧侶としての出世が見込めるから」という見方もできるが、実父有範の影の薄さは、親鸞出家の背景に暗い事情があったことを連想させてならない。(つづく)

 

「兼有が有範の中陰の供養を行ったことを証する文書が西本願寺で見つかり、兼有が僧侶としてそれなりのキャリアを積む年齢になるまで有範が存命していた」とさらっと書いていますか、下記のことです。

覚如上人の長子・存覚上人が筆写した『無量寿経』の奥書に、「御室戸大進入道有範の中陰にあたり、兼有律師(親鸞聖人の弟)が加点し、親鸞聖人がその外題を書いた『無量寿経』のあったことが記されています。親鸞聖人がまだ比叡山に折る頃、20前後のことです。「御室戸大進入道有範」とあるから皇太后宮大進を退任ののち京都の南、三室戸の地に隠棲出家していたようです。この地は、聖人の弟・兼有も三室戸と号したこと、この地には覚如も一時住しています。(西原祐治ブログより)

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親鸞聖人の誕生日

2024年04月16日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)執筆者は古川順弘氏、小本ながら内容のある本です。からの転載です。

 

たとえば、西本願寺が所蔵する親鷺自筆の六字名に、「康元元年十月二十八日」という揮毫した年月日と、「八十四歳」という当時の年齢(数え年)が明記されたものがある。六字名号とは「南無阿弥陀仏」と書かれた掛軸のことで、真宗教団ではこれが本尊となる。康元元年は西暦一一五六年にあたるので、ここから逆算すると、承安三年(一一七三)という生誕年が導かかる。

 誕生日を四月一目とする伝承があり、現在の西本願寺はこの日を新暦に換算した五月二十一日に親鷺降誕会を行っているが、四月一口生誕は江戸時代に広まったものであり、確たる根拠があるわけではない。(以上)(つづく)

 

親鸞聖人の誤誕生日は、歴史的には定かではありません。

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