今日は彼岸のお中日です。浄土真宗は、浄土で往生して仏と成る仏道です。この世ではなく浄土でという点に、不満を覚える人もあるでしょう。その点を少し考えてみましょう。
この世で仏に成るという理想をもって歩むということは、浄土真宗の視点から見ると不完全な価値観だと言えます。何が不完全化と言えば、極端に言えば、仏でないものは価値なしと切り捨てていくことだからです。
たとえばカウンセリングで説く受容という理解があります。子どもの不登校でいえば、学校に行かせることではなく、行きたい気持ちも、また行きたくない気持ちも理解し受容していきます。
学校に行かせようという思いだけが強いと、学校に行けない子どもの気持ちを受容することができません。こうあるべきという一つのゴールを決めると、それ以外の状態を受容できないのです。
この世で成仏するというゴールをもつことも同じです。浄土真宗の「この世では救われない」という人間理解は、一見、人の生き方を否定した言葉のようですが、「この世で救われない」存在をも認めていこうとする教えなのです。
例話を入れます。NHKラジオ(24.3.7)ラジオビタミン、ときめきインタビューに浜美枝さんが出演していました。話題の中で、中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本を紹介されていました。それで柳さんのことを思い出し話題にするのですが、柳宗悦さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。
柳宗悦さんは、の著書『美の法門』に次のように書いています。
「民芸に私どもが心を引かれるのは、妙奸品ともなづくべき物を見いだしているからである。かかる品々に流れる美のおきてをいみじくも説いてくれるのは念仏の教義ではないか美の法門の大願第四に『設い我仏を得んに、国の中の大大形色不同にして、奸醜あらは、正覚をとらじ』この一言があるからには、これによって美の一宗が立てられて良い。意味は、私が仏になるとき、私の国の人たちが色や形が同じでなく、美しいものと醜いものがあるならば私は仏になりはせぬというのである。このことは次のことを意味する。仏の国においては美と醜の区別がないのである。本来は全て美しいように出来ているのである。秀でたものは秀でたままに、劣るものは劣るままに、なにを書きどう刻もうとも、全ては美しく受け取られるように仕込まれているのである」
柳宗悦さんが説く、あるがままにすべてが美しいという価値観は、これが最も素晴らしいという価値観に立たないということでもあります。この世での成仏を断念するというのは、断念という一つの価値観を捨てることであり、それは同時に、どのような状態にあるものも浄土で成仏する値打ちのあるものであり、凡夫である私の存在の上に、如来と同質のいのちの尊さを見ていくことでもあります。
この世で仏に成るという理想をもって歩むということは、浄土真宗の視点から見ると不完全な価値観だと言えます。何が不完全化と言えば、極端に言えば、仏でないものは価値なしと切り捨てていくことだからです。
たとえばカウンセリングで説く受容という理解があります。子どもの不登校でいえば、学校に行かせることではなく、行きたい気持ちも、また行きたくない気持ちも理解し受容していきます。
学校に行かせようという思いだけが強いと、学校に行けない子どもの気持ちを受容することができません。こうあるべきという一つのゴールを決めると、それ以外の状態を受容できないのです。
この世で成仏するというゴールをもつことも同じです。浄土真宗の「この世では救われない」という人間理解は、一見、人の生き方を否定した言葉のようですが、「この世で救われない」存在をも認めていこうとする教えなのです。
例話を入れます。NHKラジオ(24.3.7)ラジオビタミン、ときめきインタビューに浜美枝さんが出演していました。話題の中で、中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本を紹介されていました。それで柳さんのことを思い出し話題にするのですが、柳宗悦さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。
柳宗悦さんは、の著書『美の法門』に次のように書いています。
「民芸に私どもが心を引かれるのは、妙奸品ともなづくべき物を見いだしているからである。かかる品々に流れる美のおきてをいみじくも説いてくれるのは念仏の教義ではないか美の法門の大願第四に『設い我仏を得んに、国の中の大大形色不同にして、奸醜あらは、正覚をとらじ』この一言があるからには、これによって美の一宗が立てられて良い。意味は、私が仏になるとき、私の国の人たちが色や形が同じでなく、美しいものと醜いものがあるならば私は仏になりはせぬというのである。このことは次のことを意味する。仏の国においては美と醜の区別がないのである。本来は全て美しいように出来ているのである。秀でたものは秀でたままに、劣るものは劣るままに、なにを書きどう刻もうとも、全ては美しく受け取られるように仕込まれているのである」
柳宗悦さんが説く、あるがままにすべてが美しいという価値観は、これが最も素晴らしいという価値観に立たないということでもあります。この世での成仏を断念するというのは、断念という一つの価値観を捨てることであり、それは同時に、どのような状態にあるものも浄土で成仏する値打ちのあるものであり、凡夫である私の存在の上に、如来と同質のいのちの尊さを見ていくことでもあります。